『本居宣長』の<時間論>へ Ⅳ

石川 則夫

一 小林秀雄の欧州旅行

 

この3月3日を以て新潮講座の神楽坂教室が終了した。4月からのオンライン開催の案内を受けてはいるが、新宿センタービルでの講座出発から大学院のゼミ生共々参加してきた身にとっては寂しい限りである。この間、ゼミ生の顔ぶれも次々に変わり、講座に参加する人々にも変化があったことは言うまでもない。しかし、その時々に印象深い出会いがあったことは大きな喜びであり、講師・池田雅延さんを囲んで語り合い、盃を交わし合った人々の面影が今も眼に浮かぶ。

この最終回を聴講した後、いつものように帰途を共にしていた柏木成豪さんから「小林秀雄のソ連・欧州旅行の行程の詳細を調べてまとめてみたので」と資料を頂戴した。小林秀雄に関する精力的な調査をされている柏木さんからは様々な恩恵を受けているが、欧州旅行の記録とは意外なところに注目されたと思っていると、「小林秀雄の従弟の西村貞二と一緒に行っている」と言う。なるほどそうだったなと思い起こしつつ、小田急線の途中駅で別れた後、その資料に眼を通していると次のような言葉が記されているのに気づき、ハッとした。小林が西村貞二に語った言葉の要約であった。

 

尊敬するのは柳田国男と正宗白鳥のみ、会心作はモオツアルトと私の人生観くらいか?

 

帰宅してから、そうか西村貞二かと思い当たって書棚を探すと西村貞二の『小林秀雄とともに』(1994(平6)年2月 求龍堂)が見つかった。まるで忘れていた本であった。西村貞二はその兄・西村孝次とともに小林秀雄の従弟にあたる。貞二は東北大学教授で西洋近世史研究者、 孝次は明治大学教授でワイルド、ローレンス研究で知られた英文学者であり、『わが従兄・小林秀雄』(1995(平7)年7月 筑摩書房)の著書もある。

さて、久しぶりに手に取った『小林秀雄とともに』を繙いてみると、その第1章が「小林秀雄とともに―ドイツ・オーストリア・イタリアの旅」(初出は「新潮」1992(平4)年5月)であり、これが本書の中心をなす文章である。つまり、西村貞二が小林秀雄とともにヨーロッパの国々を旅した記録が主軸となっているわけだが、まずはこの旅に関わる事情を確認しよう。

小林秀雄年譜によれば、1963(昭和38)年6月末、「ソ連作家同盟の招きにより、安岡章太郎、佐々木基一とソビエト旅行に出発、二十六日出帆」とある。そして、このソビエト訪問の後、引き続き「西ドイツ政府からドイツ旅行を招待された」と貞二が記している。こうした経緯で同年10月14日の帰国まで、ほぼ3ヶ月間に渡るソビエト・ヨーロッパ旅行が果たされたのだった。また、この旅の所産として、「見物人」(1963(昭38)年11月)、「ネヴァ河」(同)、「バイロイトにて」(1964(昭39)年1月)、「ソヴェトの旅」(同2月)が発表されているが、それらの文章にソビエト以降、ドイツ、オーストリア、イタリアの行程に付き添っていた同伴者の記述は見られない。わずかに「見物人」の中に「従弟」の一語が見出せるのみである。そのドイツ以降の旅における小林秀雄の様子を知る手がかりとして従弟・西村貞二の記した文章は貴重なのである。

 

このドイツ旅行に関しては、『見物人』と『バイロイトにて』という短いエッセーがあるほかは、当人の口から何事も語られていない。たまたま私はドイツ旅行に同行することとなり、克明にメモをとった。かれの言動をジロジロ観察するような下心はなく、かれが常々いう「無私の精神」で日々の行程を記録したのである。

 

『小林秀雄とともに』の「はじめに」にはこう記され、「旅人小林秀雄のなまの姿を伝えたいと念願するだけ」と「克明なメモ」を取った時から、ほぼ30年の月日を閲した後に「小林秀雄とともに」を書き起した動機が明らかにされている。

ところで、この西村貞二の記録文を読み返し、その時期について確かめてみると、1963年6月末からのこの長い旅は、小林秀雄の著作を精読している者にとっては、ある特別な意味合いを帯びていることに改めて気づくのである。それについてもう少し記しておきたい。あるいはこのことがなければ、私がハッとした驚きの所以に辿りつけないかもしれないからだ。それは先に引用した小林秀雄年譜のソビエトへ向けて出発したという記事の続きを見れば一目瞭然なのである。

 

……二十六日出帆。「新潮」に連載中のベルグソン論「感想」は六月号(第五十六回)で未完のまま打切られた。

 

第5次全集において初めて収録された「感想」が著者小林秀雄の強い意向で刊行されなかったという異例な作品であることは夙に知られている。そして、その内容が「私は、学生時代から、ベルグソンを愛読して来た」と告白めいた言葉を示して開始されたベルグソン論であり、1958(昭33)年の「新潮」5月号から1963(昭38)年6月号まで56回の掲載(この間の休載は5回を数えるのみ)という長大な作品であったことから、小林秀雄研究者の間でも注目を集めるものであったことも周知の事実であろう。その「感想」を打ち切ったこととソビエト・ヨーロッパ旅行との関わりはどうなのか。帰国後に「感想」を再開する意思はあったのか。そうした事情について小林自身は何も書き残していない。「刊行してくれるな、今後の全集にも入れるな」と強く念押しされたと最後の担当編集者であった池田雅延さんから教えられたことはあったが、それは何故なのか不明なままである。しかし、この旅へ出発したソビエト訪問の際に同行していた安岡章太郎の言葉が、第3次全集の月報第3号(第5巻付録 昭和42年8月)にこう見えるのである。

 

しかしドストエフスキイをふくめて、旅行中の小林さんの口からは、文学の話はほとんど出なかった。一度だけ、「感想」という題で雑誌に連載され、中途でやめられたベルグソンの話が出たとき、小林さんは「ああ、あれは失敗だよ。この年になっても、まだあんなカン違いをするのだから、イヤになるよ」と、寝台車のなかで枕を抱えこみながら言われたことがあるきりだ。

 

「あんなカン違い」が何を意味するのか、たとえば、ベルグソンの『持続と同時性』に端を発したアインシュタインとの時間論争へ分け入っていく第50回以降の展開に関わるのかどうか。おそらくはこのあたりを示唆する小林秀雄の言葉が連載中断の2年後、1965(昭40)年8月に行われた数学者の岡潔との対談に見られる。

 

岡 ベルグソンの本はお書きになりましたか。

小林 書きましたが、失敗しました。力尽きて、やめてしまった。無学を乗りきることが出来なかったからです。大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません……

 

おそらく未完の「感想」についての小林秀雄自身の言葉はこのあたりがよく知られていると思われるが、この岡との対談「人間の建設」(1965(昭40)年「新潮」10月号)は、同年の「新潮」6月号から連載開始した「本居宣長」の 第4回(9月号)発表直後(発売日8月上旬として、京都での対談は8月16日)になされたものであった。「本居宣長」の連載開始は「感想」中断のちょうど2年後にあたり、ベルグソンから本居宣長へと思考の対象をすっかり変えて、いよいよ深みへ進んで行こうという時期であったはずである。このことは、同年11月27日に国学院大学にて行われた小林秀雄の講演「雑感」(新潮CD第8巻『宣長の学問』)を聴いてみると、その1年後の連載第10回前後までの内容がこの時の講演に盛り込まれていることが分かり、この講演時には今後の見通しのかなり具体的なところまでが成り立っていたと考えられる。つまり、1965年、63歳になっていた小林秀雄はライフワークとすべき著述へと精神集中していたはずなのである。しかし、「人間の建設」ではその対談全体の三分の一ほどの分量がアインシュタインとベルグソンの話題になっているのであって、対談の相手が数学者であるだけに「感想」で書こうとしたところを改めて確かめているような口調とも受け取れるところもある。すなわち、「感想」で書き切れなかったことについては「本居宣長」連載時にも胸中にわだかまっているところがあったと推測されるのである。

さて、この問題は、「感想」から「本居宣長」への思考の移行と接続という方向へ導かれていくのだが、まず本稿で押さえておきたいのは、おそらくこうしたベルグソン論への想いを心の奥に潜ませながらのソビエト・ヨーロッパ旅行であっただろうということ。そうした小林秀雄の心底に抑圧され、深く沈殿していた想念のありように身を置いてみるとき、西村貞二の書き残した「克明なメモ」がある意味で具体的な形となって浮かび上がって来るように思うのだ。

本稿は、私が本誌にこれまで書き綴ってきた『本居宣長』の<時間論>への考察をより深めていこうと企図するものだが、ふとしたことから再読を迫られた西村貞二の記述の中に、看過することの出来ない言葉、小林秀雄の発言を見出したため、その言葉に誘われるままこれまでの思考を振り返ってみることとなった。そして、私の問題提起の新たな構え、より明瞭な組み直しを可能にする予感に導かれるまま、回り道かもしれないが、考察を試みてみたい。

 

二 旅行中の会話から

 

ソビエト旅行を終えた小林は、7月20日にパリ着、白洲春正夫妻と白洲兼正と4名で28日パリ発、途中1泊し、コルマール経由で29日、西村貞二が滞在していたフライブルクへ到着した。この行程はパリから春正運転の自動車だったようである。 8月30日までが西ドイツ政府の招待旅行であった。ここからミュンヘン経由でザルツブルクへ、ウィーンフィルハーモニーで「魔笛」など聴き、そして、8月5日のウィーンでの夕食時の会話に「ベルグソン論」が出現する。西村貞二の記すところを見ていこう。

 

八時前、加藤(周一)さんに教わった、レストラン「シュタイデル」へ夕食に行く。食通の店なのだそうだ。シェリー酒、ワインに鳥料理で小林はすっかりよっぱらう。「世間じゃあ俺のことを毒舌家といってやがる。冗談じゃねェ、俺はほめてばかりいるんだ。アラ探しすることじゃなくて美点をほめることが、批評の真髄なんだ。ベルクソン論?ああ、五年つづけたよ。が、失敗だった。ベルグソンをはきちがえ、途中で気がついたが、もう手遅れだった。だから二度とやる気はない」

 

また、8月10日、当時の西ベルリン3泊目で動物園見物後の夕食時。

 

夜は最上等のフランスワインを飲む。フロイト、ツヴァイク、ベルグソン、カント論、日本の徂徠、仁斎、藤樹論。私はドイツの哲学、歴史学の総ざらい。あまり多岐にわたったため、とてもメモしきれなかった。

 

そして、ハンブルクを経てヴュルツブルグからローテンブルグのホテル・アダムへ投宿した8月18日の晩餐の際、先述した柳田国男、正宗白鳥への言及が現れるのである。ここは西村貞二も重要視したのか、かなりな分量の小林の言葉を記しているので、その場の様子が窺われるところから引用したい。

 

タウバー河畔に突如としてあらわれたローテンブルクの城門をくぐったとき、わが目を疑った。まるで中世都市に迷いこんだような錯覚にとらわれたから。じっさい、ローテンブルクほど完全に中世都市の姿を再現した町はないそうだ。現代の都会生活の喧噪から逃れるためか、中世という時代に郷愁を感じるためか、ともあれ見物客が多い。城壁、ヤコブ教会、市役所、マルクト広場などを見てまわるうちに雨となった。ホテル「アダム」に入る。ミシュランに載っていない三流どころのホテルだが、古びて気分がいい。小林はすっかり気に入り、一本五十マルクのモーゼルワインを二本、二人で(尤も三分の二はかれ)あけ、メートルが上がった。それからというものは、ベルグソン、徂徠からはじまって現代作家に及ぶ。当たるを幸いなぎ倒す。私も酩酊してメモがとり切れないが、ざっとこんな調子。

「谷崎には美がわからんのだよ。志賀直哉は青年の文学でというものがない。人を征服する。滝井孝作なんかその例だ。だから俺は三十五歳のときに志賀直哉から離れたんだ。室生犀星も若い。老年になってから芸が細かくなっただけサ。ただ宇野浩二は、もう十年も経ったら見直されるよ。俺が尊敬するのは柳田国男と正宗白鳥しかいない。会心の文章? やや会心の文章といえるのは、『私の人生観』と『モオツアルト』ぐらいかなァ。玄人からみると、文体がグルグル始めから終わりまで廻っているようなのがいい。読み返す気を起こさせるからネ。お前さんら学者には、こういう機微はわからんだろうナ。何しろ君なんか単純な考えだからナ。」……(略)……。

十一時にやっとみこしを上げる。一泊十マルクの安宿で百マルクの酒をくらったのは近来の痛快事である。払わされる西ドイツ政府こそいい面の皮だ。かまうものか。相手はヨーロッパ一の金満家なのだから。

 

私は、この小林秀雄の話の中に論点を見出し、思考を展開したいのだが、この旅の終わり近くにもう一箇所引用しておくべきところがあるので、そちらをまず見ておきたい。

8月29日、フランクフルトの「ザヴィニー・ホテル」での夕食時。

 

八時から下の食堂で夕食をとる。これまで何べんも歴史論をやった。が、今宵ほど激論したことはない。虫の居所でも悪かったのか、徂徠や宣長を引き合いに出して、いやに挑戦的である。宣長はえらい人だとは思うが、はっきり言って私の性に合わない。しかしうっかり宣長私観でも述べようものなら、忽ちコテンコテンにやっつけられるのはわかり切っているので、もっぱらヨーロッパの歴史学や歴史家を楯にとって応戦する。ところが行き詰まると「君はまだ歴史がわかっちゃいないねェ、もっと考えなきゃあ」とくる。

 

以上が西村貞二の「克明なメモ」に基づいた「小林秀雄とともに――ドイツ・オーストリア・イタリアの旅」に見られる小林秀雄の言葉から、私が気になるところを引き抜いた箇所である。そこで再び、ナホトカへ向かう船に乗る前の時間へ戻り、「感想」第56回を書き終えるまでの小林秀雄の述作について、この会話の中に現れた固有名詞、言及された人々を扱った文章を挙げてみよう。

まず言えることは、ベルグソン論としての「感想」を連載し始めた1958(昭33)年の翌1959(昭34)年には、「好き嫌い」(5月)、「良心」(11月)が発表されており、1960(昭35)年、「言葉」(2月)、「本居宣長―「物のあはれ」の説について」(7月)、1961(昭36)年、「学問」(6月)、「徂徠」(8月)、「辯名」(11月)、1962(昭37)年は、「考へるといふ事」(2月)、「ヒューマニズム」(4月)、「還暦」(8月)、「天といふ言葉」(11月)、1963(昭38)年、「哲学」(1月)、「天命を知るとは」(3月)、「さくら」(4月)、「歴史」(5月)、「物」(7月)に至るまで、先の小林の口から出てきた人々に関する述作が続いているのである。そして、この最後の「物」(「文藝春秋」7月号)の発表の後、ソビエト・ヨーロッパ旅行へ向かっていた。つまり、ここに挙げた作品群には、「日本の徂徠、仁斎、藤樹」と「宣長」について再三言及がなされており、こうした人物たちの思想へ踏み分けて行こうとする試みは、「感想」連載中の5年間において繰り返し書かれていたということなのである。したがって、そうした述作の経験が、西村貞二への数々の言葉となって語られていたということになる。小林秀雄はベルグソン論へ集中しながらも、ほぼ同時に1965(昭40)年6月からの「本居宣長」連載稿に流れ込んでいく数々の言葉と思考を、同時並行的に書き続けていたのである。

これが押さえておきたい1点目のこと、しかし、これは見やすいことなので、次に2点目に考えたいこと、これが本稿の要点となる。

 

三 旋回する文体

 

私が驚いたところをもう一度抜き出してみる。

 

 俺が尊敬するのは柳田国男と正宗白鳥しかいない。会心の文章? やや会心の文章といえるのは、『私の人生観』と『モオツアルト』ぐらいかなァ。玄人からみると、文体がグルグル始めから終わりまで廻っているようなのがいい。読み返す気を起こさせるからネ。お前さんら学者には、こういう機微はわからんだろうナ。

 

まずは補足になるが、本誌の2020年5・6月号(6月)の「小林秀雄と柳田国男」と同年秋号(10月)の「続・小林秀雄と柳田国男」に小林秀雄と柳田国男の接触を時系列に挙げ、両者の交流の実際について考察しておいたが、敗戦直後の柳田邸訪問から1950(昭25)年の折口信夫との対談「古典をめぐりて」、1958(昭33)年「国語という大河」以降の柳田への言及は、1965(昭40)年の大岡昇平との対談「文学の四十年」へ飛んでしまうと記したのであった。しかしながら、この西村貞二による記録を見ると、大岡との対談の2年前にドイツ、ローテンブルグのホテル・アダムでの会話に「柳田国男」の名が現れていたことになる。しかも、「尊敬する」人物として、あの志賀直哉を脇に寄せて、正宗白鳥と2名のみときっぱりと挙げているところをみると、1935(昭10)年の夏、霧ヶ峰ヒュッテでの「山の会」で初めて出会った柳田国男の記憶は、戦後も、そして『本居宣長』刊行に至るまで消え去ることなく、その敬意も失われることなく抱き続けていたことが分かる。しかし、そうであるのに柳田国男への直接な記述、まとまった批評文はほとんどないのだ。ただ、こうした柳田国男への言及が時折ではあるが表現されていて、そこには常に敬愛の情を感じさせる文言を伴うことに、私は非常な驚きを覚えるのである。

では、小林秀雄が柳田国男の学問、その文章においてどういうことを読み、どこに深い敬意を感じていたのか。それは先の稿に記しておいた通りであるから繰り返さないが、たとえば、戦後の時期だけを考えても、もっとも精神を集中していたと思われる「感想」ベルグソン論の5年間、さらに「本居宣長」の完結から刊行までの11年間、それらの時間を通して、小林秀雄の胸中のどこかに柳田国男への想いが底流として一貫し、先の「感想」中断直後の胸中のわだかまりの奥底に秘められていたのではないか。日本近世の思想家たちを次々に書いていった時間の深層には柳田国男への想いが沈潜していたと考えられるように思うのだ。その集約が1976(昭51)年3月の三越三百人劇場での講演「信ずることと知ること」であったことも既に書いたが、この講演冒頭に柳田国男の『故郷七十年』を紹介する際にこう語るところが印象的である。

 

近頃僕は『故郷七十年』っていう本をね、初めて読んだんです。これは柳田さんが、えー、昭和33年に出した、昭和33年、もうそのころ83です、先生は。それで神戸の新聞に、神戸新聞に連載した思い出話なんですね。

 

「もうそのころ83です、先生は」と、思わず「先生」と呼ぶ。これは本講演に1度だけだと思われるが、語りの中でふとそう呼びかける口調と言おうか、その微妙なニュアンスに柳田国男への敬愛の情が漂っているように感じられるのである。

さて、ここまでは西村貞二の記録文の中に「柳田国男」の名を見出した私の驚きについて、その所以を述べてみたに過ぎないが、実を言うと、もっとも驚いたのはその後文なのである。「文体がグルグル始めから終わりまで廻っているようなのがいい」と語っていたが、さて、これはいったいどういうことなのか。そして「お前さんら学者には、こういう機微はわからんだろうナ」と言い添えるところ、実はここもまた、以前の稿に記したことに関連しており、私としてはもう一度そこへ立ち返るよう誘われているのである。

端的に言えば、ああ、そうか、そういうことかというような感触があり、それが『本居宣長』の終結部の不思議な印象へ、その記された言葉によって読者が連れ去られていく特殊な時空とでも言う他にないところへと強く促される。そういう想いを禁じ得ないのである。つまり、2021年春号(4月)の冒頭に記した「1 不思議な読書」とした文章に、『本居宣長』という書物が喚起する強い読後感、というより読中感について記したこと、何遍読んでも「どこに何が書かれていたかどうもハッキリしない」、「何遍読んでも何が書いてあったのか、その記憶の保存が難しい」という経験はあながち間違いではなく、これは『本居宣長』の記述方法の問題ではないかとしておいた。すなわち、「開いているページの垂直方向へ、紙面からその深みへ向かって沈み込むような思考を促していく、そういう文体が創られているのではないか」と推測のみを残しておいた。そして、また同様なことを2021年秋号(10月)の最終部「四 生死の二分法を超えること」に、『本居宣長』最終章の五十回を読み終えようとする時のことを記しておいた。

 

もう、終わりにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。

 

この最終段落が、再び第一回へと読者を誘うことになっており、このことを私は「『本居宣長』という作品がループ状の読書行為を促している」と記した。文字通り、『本居宣長』の文体は、「グルグル始めから終わりまで廻っている」のである。確かにこの時は、西村貞二に向かって、ワイングラスを傾けながらの、かなり酔いが回っていた際の話であって、文壇の大家への忌憚のない批評がその口からあふれ出した語りの中での言葉ではある。しかし、こういう文体の趣について、「学者には、こういう機微はわからんだろうナ」と言い添えるところ、つまり、ここで言う旋回する文体と学者とは対照的な概念であるとも読めるのだ。

 

四 文体と学者

 

もう少し柔らかく表現すると、「グルグル始めから終わりまで廻っている」ような文体を創造する表現者、すなわち作家、文学者と、そうした文体の有り様を想像したこともない学者という対立図式が思い浮かぶ。では、学者が何故そうなのかと言えば、学者は学問上の考察を書き記す文章に、いつでもどこでも正確な理解が期待できる客観的な論理性をこそ求めるものの、文章表現上における文体、いわゆるスタイルなどというものは表現内容とは関わりのない装飾品とみなして一顧だにしないのが普通だからである。

こうした文体のあり方そのものへの注意は、「ベルグソンの最後の作は、次の様な文で終わっていた」と始められた「感想」の第2回にも明確に示されていたことを想い起こそう。『道徳と宗教の二源泉』の最終文について引用してこう書いている。

 

無論、これだけの引用では、彼の言葉のはっきりした意味はつかめない。ただ、今、私が言うのは、翻訳は下手だが、こういう物の言い方の事なのである。と言っても、ベルグソンを愛読した事のない人には、感じは伝え難いのだが、仮に、よくない言葉で言ってみれば、こういう一種予言者めいた、一種身振のある様な物の言い方は、これまでベルグソンの書いたもののうちには、絶えてなかったものなのである。……(略)……扨てもう黙るとしようか、と彼は極く低声に呟いたのだが、小石は一つ落ちて、彼の文体の静かな水面は揺いだ。

 

小林秀雄は「ベルグソンを文学的に読む」という表現を使っているが、それはとりもなおさず「物の言い方」、「文体」に焦点を据えて読み解くということに他ならないだろう。そして、この文学者対学者という対立図式は、『本居宣長』の全体に一貫して投影されていたこと、その構図を背景にして繰り返し説かれていたことは、本居宣長自身による極めて個性的な文体への注意であったことを思い起こしたい。たとえば、その第1回で、宣長の遺言書を引用しつつ次のように記していた。

 

この、殆ど検死人の手記めいた感じの出ているところ、全く宣長の文体である事に留意されたい。

 

また、同回の終わり近く、宣長没後に刊行された歌集『枕の山』の後記を引用するところにも次のように見える。

 

文の姿は、桜との契りは、彼にとって、どのようなものであったか、或は、遂にどのような気味合のものになったかを、まざまざと示しているからだ。

 

第3回の『本居氏製』として売り出された「六味地黄丸」の「薬の広告文」を提示している箇所を記憶している読者も多いだろうが、そこにも「まぎれもない宣長の文体を、読者に感じて貰えれば足りる」と書き添えられていることに注意すべきなのである。また、随所に現れる「古語ふるごとのふり」という宣長の言葉もまた「文体」、「文の姿」を指し示しているのであって、そう名指されるものが言語的実在としてどのような働きを見せるものなのか、ここに『本居宣長』と題された書物の核心が存すると、私は思っている。

それでは、グルグルと旋回を繰り返すような文体と、そこに書かれているものは何かを常に探し求めようとする文章がどういう関係に置かれているのか。その簡潔な指摘というところを『本居宣長』に探してみれば、第40回以降あたりから最終回までにわたって書かれたところを読み直してみるべきだろう。

前稿までに考察して来た柳田国男の作品、特に『先祖の話』が提示する歴史観が、「死という事象の柔らかさ」、あるいは「死を含み込んだ生の風景であり、かつ、生を含み込んだ死の姿」への想像力を喚起することを繰り返し記して来たが、それが『本居宣長』最終部に示唆される歴史観とどう重なり、旋回する文体とどう関わることなのか。さらに考察を深めて行かねばなるまい。

今、私の念頭にあることは、柳田国男の著作において提示された生と死が表裏一体となった人生観と歴史観、それを補助線として踏まえて行けば、『本居宣長』の終結部に言及される<時間論>、それは「神々の系譜」ではなく、「絵」としての<時間>であることが見えて来るということである。

 

「神世七代」の伝説を、その語り方に即して、仔細に見て行くと、これは、普通に、神々の代々の歴史的な経過が語られているもの、と受取るわけにはいかない。むしろ、「天地の初発の時」と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている、宣長は、そう解した。(五十)

 

さらに、ここで指摘される「その語り方」というのが、「グルグル始めから終わりまで廻っている」旋回する文体と重なり合う、といった光景なのである。

(つづく)