私が初めて小林秀雄氏の著作を手に取ったのは、高校二年生のときであった。当時、島崎藤村の『夜明け前』を読んで、「神道」や「国学」といったものに関心を持ち始めていた、ちょうどそのときに、図書館で偶然手にしたのが「随想二題――本居宣長をめぐって」(小林秀雄講演【第五巻】、新潮社)という、小林秀雄氏の講演CDだったのである。
この講演を聞いたことがきっかけとなり、私は新潮文庫版の『本居宣長』を手に取ることになった。ただ、実際に読み始めたは良いものの、内容はほとんど分からず、結局上巻だけ読んでしばらく放置することになってしまった。とは言え、それでも印象に残った箇所というものが無いわけではなく、その一つが、荻生徂徠の「学問は歴史に極まり候」という言葉であった。
そもそもこの言葉は、彼の「徂徠先生答問書」という著作の中に登場する。本書は、出羽の国庄内藩酒井家の家老、水野元朗・疋田進修の二人と徂徠との間の往復書簡であり、現在でも「日本の名著」(中央公論社)等で読むことができる。
この書について小林氏は、「『答問書』三巻は、『学問は歴史に極まり候事ニ候』という文句で始まり、『惣而学問の道は文章の外無之候』という文句で終る体裁を成していると言って、先ず差支えない」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集、p.9)と述べているが、実際に「答問書」で最初に扱われているのは、「仁とは何か」という問題である。
徂徠によれば、仁とは、『詩経』で言う「民の父母」のことであり、単に慈悲深いことでも、朱子学で語られる「天理」のようなものでもない、という。父母が家の者を根気強く世話をしていくように、人民の生活のために力を注ぐ天子の姿こそ「仁」と呼ぶにふさわしい、というのが徂徠の主張である。
その次に、書簡の話題は「歴史」へと移っていく。最近、朱熹の「通鑑綱目」を読んでいるのだが、と言う家老に対し、徂徠は「『通鑑綱目』より『資治通鑑』を読むほうが良い」と述べた上で、次のように語る。
惣じて学問は飛耳長目之道と荀子も申候。此国に居て。見ぬ異国之事をも承候は。耳に翼出来て飛行候ごとく。今之世に生れて。数千載の昔之事を今目にみるごとく存候事は。長き目なりと申事に候。されば見聞広く事実に行わたり候を学問と申事に候故。学問は歴史に極まり候事に候。古今和漢へ通じ不申候へば。此国今世の風俗之内より目を見出し居候事にて。誠に井の内の蛙に候。(「徂徠先生答問書 上」)
ここで引用されている「飛耳長目」という言葉は、実際には荀子ではなく「管子」に出てくるもののようだが、それはともかくとして、なぜ「学問は歴史に極まる」のかと言えば、それは、歴史を学ぶことによって、見聞を広める、すなわち「経験を拡充する」(「徂徠」、同第24集、p.30)ことができるからだ、とここでは言われているのである。もちろん、ここで使われている「事実」という言葉については、小林氏も言っている通り、今日の学問で言う合理的事実を遥かに超えた含みを持つことに留意する必要がある。
合理的事実とは、「理」あるいは「法則」を物さしにして、歴史を直線的に観察したときに見出されるような事実のことである。小林氏は、林房雄氏との対談で「歴史家という者は飛行機から見下ろしてはいけないのだ。やっぱり山は此方から観れば幾つも重っていて、登らなければ向うの山が見えぬという態度を取らねばいけない。立派な歴史家は皆そうしている」と述べているが(「歴史について」『文學界』第7巻、12月号、p.63)、徂徠が「事実に行きわたるのが学問だ」と言ったときの「学問」というのも、歴史の河を飛行機から見下ろすがごとき行為ではなく、歴史上の人物が経験したところを自分も経験しようとする努力の謂いであっただろう。
さて、小林氏によれば、学問は歴史に極まると信じたのは、何も徂徠だけではなかった。それは、孔子においても同様だったのである。
「述而篇」の冒頭で、孔子は言っている、「述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム」と。よく知られて、漠然と、或はいろいろに味われている言葉のようだが、徂徠の解には、抜き差しならぬものがあった。凡そ学問とは歴史に極まると信じた孔子の、学問上の根本態度についての率直な発言、とこれを解した(「論語徴」丁)からである。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集、p.26)
この「述ベテ作ラズ」という孔子の言葉は、自分からは決して、先人の教説に対して何かを付け加えることはしないという、いわゆる「祖述」という学問的態度を表明したものだ。その孔子が、「学問とは歴史に極まる」と信じていた、というのは、いったいどういうことなのだろうか。
孔子が祖述したのは、礼楽などの「六経」である。その孔子が、「学問とは歴史に極まる」と信じていたということは、すなわち、孔子にとっての歴史とは「礼楽」に他ならなかった、ということである。
このように言うと、違和感を持つ人も多いかも知れない。なぜなら、先ほども述べたように、歴史を学ぶことの意義は、見聞を広め、経験を拡充することにある。それに対し、礼楽は、先王が人々に対して「いかに生きるべきか」を指し示したものだ。両者の間には隔たりがあるように感じられるのも無理はない。
だが、徂徠にとっては、両者の間にそのような隔たりは無かったのである。小林氏の言を聞こう。
徂徠の言う歴史という名は、今日から見ると歴史と言うよりもむしろ伝統と言った方が当っているかも知れない。但し、徂徠には、歴史と伝統との分裂は意識されていなかった事を考えなければならぬし、又、今日、この二つの概念が、ひどく対立したものになっているのは、恐らく、健康な現象ではない事も思わねばなるまい。……歴史という物は、これを経験し、これと交わらなければ極め得ぬものを蔵し、知識だけでは明らめる事は出来ない、物しりには到ることが出来ない、徂徠は、この事を、はっきり知って仕事をした人である。(「考えるという事」、同第24集、p.62)
ここで言う伝統とは、すなわち「礼楽」のことであろう。現代の我々が、礼楽と歴史との間に隔たりを感じてしまうのは、今日においては、歴史と伝統とが分裂したものになってしまっているからなのである。
「学問は歴史に極まる」という言葉は、単に歴史的な知識を積み上げることの大切さを説いたものではない。小林氏の言うように、そもそも歴史とは、経験しなければ明らめることはできないものなのである。だからこそ、徂徠は礼楽などの「六経」をいかに正しく読むか、ということを、生涯の仕事としたのであった。
では具体的に、徂徠は礼楽というものにどのように交わり、経験しようとしていたのだろうか。残念ながら、徂徠は「六経」に対するまとまった注釈書を残していないため、詳しいことは分からない。ただし、部分的に残されたものから、そのことを想像してみることはできよう。
例えば、徂徠には「幽蘭譜抄」という著作がある。これは、「幽蘭」という古琴の曲を正しく演奏できるように復元することを試みたものであるが、岡潔氏の「雨の日」というエッセイによれば、この曲は孔子が作ったとされ、現在でもレコード等で聴くことができるそうである。徂徠の礼楽への向きあい方を知ろうと思えば、まずはこうした曲を、知的な意識に頼ることなく、繰り返し聴いてみることが必要なのかも知れない。
「学問は歴史に極まり候事ニ候」――こう語るときの徂徠の頭の中にあったのは、例えば、孔子という人物が、どのような気持ちを「幽蘭」という曲に込めたのだろうかという思いであり、その孔子が残してくれた「六経」を、後代に正しく伝えていかなければならない、という信念だったのではないだろうか。
(了)
[参考文献]
岡潔『曙』(講談社、1969)
島田虔次編『荻生徂徠全集1 学問論集』(みすず書房、1973)
吉川幸次郎・丸山真男・西田太一郎・辻達也校注『日本思想大系36 荻生徂徠』(岩波書店、1973)
尾藤正英編『日本の名著16 荻生徂徠』(中央公論社、1974)
山寺美紀子「荻生徂徠著『琴学大意抄』注釈稿(二)」(國學院大學北海道短期大学部、2021)