「死」について

村上 哲

私は、ふとした時、亡くなった人の声が聞こえることがある。

唐突にこんなことを言うと、奇異に聞こえるであろうし、少々正確さに欠ける物言いになるだろう。より正確に言おうとするならば、目の前にいないはずの知人の声が聞こえる、ということになる。

なるほど、それは幻覚に違いない。幻覚には違いないが、しかしどうにも、幻覚の一言で済ませる気にはなれない。物理的因果関係に対する誤謬を幻覚というなら、私達の「いのち」こそ、幻覚にすぎまい。

あえて言うならば、この声は、私がその人と共鳴した、「いのち」の残響だろう。

この声が聞こえると、少し、その人に会いたくなる。だからだろうか、亡くなった人の声が聞こえると、少し、かなしくなる。

涙が出るわけではないし、気分が沈むわけでもない。

ただ、あの人と会えないということを思い出すのだ。

あるいは、このかなしさは、故郷に帰る術を失った、私の中の「いのち」のなげきなのだろうか。

 

―女神が、国に還らんとする男神に、千引石ちびきいわを隔ててのりたまう「汝国ミマシノクニ」という言葉を、宣長は次のように註した、―「汝国ミマシノクニとは、此ノ顕国ウツシグニをさすなり、そもそ御親ミミズカラ生成ウミナシタマヘる国をしも、かくヨソげにノタマふ、生死イキシニヘダタりを思へば、イト悲哀カナシ御言ミコトにざりける」と。(小林秀雄「本居宣長」第五十章 新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集p.204より)

 

 

小林秀雄著『本居宣長』の中で、印象的な、あるいは象徴的と言いたくなるような言葉はいくつもあるが、何度も読み返すうえで、幾重にも絡まる言葉たちとは別種の存在感を持って佇んでいる、不思議な言葉が、ひとつある。

それが、「死」という言葉だ。

いや、言葉というより、概念、あるいは出来事、もしくは、「死」という「もの」といった方がいいかもしれない。「死」という言葉そのものは、珍しく、というべきか、『本居宣長』という著作の中で、そこまで特徴的な使われ方をしてはいない。「死」にまつわる場面こそ、著作全体を通しても印象的で重要な部分を占めてはいるが、そのような場面において、「死」という言葉そのものは、意外なほど平易な意味合いで使われている。少なくとも私には、そのように思われた。

もちろんそれは、私自身がいまだ「死」というものに実感を持てていないということもあるに違いない。それに加え、我が身をもって体験することはできず、本当にそれを体験した人の語るところを聞くこともできない、「死」というもの自体が持つ特殊な性質もあるだろう。

 

―私達は、現に死を嘆いていながら、一方、死ねば、もはや嘆くことさえ出来なくなるのをよく知っている。生きている人間には、直かに、あからさまに、死を知る術がないのなら、死人だけが、死を本当に知っているといえるだろう。これも亦、解り切った話になるではないか。まさしく、そのような、分析的には判じ難い顔を、死は、私達に見せているのである。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.198)

 

先程、「死」という言葉が意外なほど平易な意味合いで使われているといったが、それは当然、軽いということではない。『本居宣長』という著作自体、宣長の墓と遺言書に始まり、最後には、宣長が門人達の「小手前の安心はいかゞ」という問いになんとか答えようとする中で、「死」を「かなしむより外の心な」き古の人々の、古書熟読を通して宣長に発明された、「神の御名」という「シルシ」を詠むという行為によって悲しみを見定める「術」が語られ、また宣長の遺言書という自問自答に帰ってくる……と、一息に言ってしまっては乱暴にすぎるが、一応はそのような形をとっていると言えよう。

また、その作中においても、契沖の遺言書や、ついにゆく道に臨んだ在原業平の歌、源氏の君の雲隠れや、未遂に終わった浮舟の入水、ほとんど死を命じられたに等しい倭建命の嘆きなど、たびたび、「死」にまつわる印象的な場面が表れてくる。

そもそも、宣長本人をはじめ、作中の登場人物達をつないでいる学問というもの自体、古書吟味を通じた歴史への推参である以上、各々の最終的な目的地や到達点はともかく、その道筋において、今は亡き人を如何に思い出すか、そういう一筋を外れることはできまい。「死」そのものはともかく、少なくとも「死」のあとに残されたものと如何に向き合うかということは、『本居宣長』という著作を通して、常に提示されている問いとすら言えるだろう。

 

先に、私は「死」というものに実感を持てないといった。もちろんそれは、「死」というものと向かい合う経験の少なさから来ている面もあろうが、その一方で、「死」という言葉に実感を持てない自分を発見させたのは、近しい人が亡くなり、その遺体を目にするという事件、いうなれば、「死」の足跡を否応なく見せつけられるという経験からだった。

とはいっても、かの人が亡くなった瞬間を目にしたというわけではない。それでも、確かにそこにあったはずの命、目の前にある体と密接に繋がっていたはずの、自分のよく知るあの命が、今やその体からいなくなってしまっている、この動かしがたい感じに対して、「死」という言葉は、あまりにも「死」という概念しかあらわしていない、そんな風に思われてしかたがなかった。

これは、なにも思索の上だけの話ではなく、実際にこの事件を経てのち、私は「死」という言葉を使わなくなっていった。正確に言えば、「死」という概念や事件について話す時に強いて「死」という言葉を避けはしないが、具体的な人物について、殊に、近しい人、私がその命を知っている人について話す時、気が付けば、「死」という言葉を避けるようになっていた。もとより軽々に使うような言葉ではないが、それでも、あえてこの言葉の使用を避けている自分に気づき、驚くことすらある。

そんな時、「死」の代わりに使われる言葉が、「なくなった」、あるいは「いなくなった」だ。また、現代的でもないし立場的に正確な言い方でもないだろうが、時に「かくれた」とすら、言いたくなる時がある。

「かくれた」はともかく、ある人が「なくなった」「いなくなった」というのは、そう特殊な用法でもないだろう。もちろん、私はここで文法的な正誤を問いたいわけではない。ただ、あの人の、この世に遺された体を前にした時の、私が受け止めたところを言い表すならば、こちらの方がよりしっくりくる、ということだ。

 

いったい、何がそこから「いなくなった」のか。

それはもちろん、私たちが「いのち」とよぶものだ。

 

「いのち」とは何か。

この問いに明答する術を私は持たないが、明瞭な定義を持ちえないようなこの言葉に、しかし、はっきりとした実感を抱いていない人はいないであろう。

私たちは、目の前の花が造花か生花か確かめようとする時、その花に触れようとする。分析的に言うなら、水分含有量や自然物と人工物の規則性の違いなどを確認しているといえようが、私たちはそんなことを意識して手を伸ばすわけではあるまい。ただ、私たちがその花に対して持つ「いのち」の手触りを、そこに確かめようと手を伸ばすのだろう。

「いのち」と一言にいってしまったが、当然ながら、この世に同じ「いのち」などというものは二つとない。私の知る一人一人、一匹一樹が、それぞれの「いのち」を持っており、誤解を恐れず言うならば、全ての「いのち」に共通する点などない、とすら言えるだろう。唯一、我々各々が持つ実感だけが、「いのち」という言葉を支えている。少なくとも私には、そう見るほかないように思われる。

もちろん、生物学的、医学的、あるいは法学的に、それぞれ命の定義を与えることはできようし、各分野の探求や実践において、強いてそれらを避ける必要もあるまいが、それはその分野における現時点での限界と必要性に応じて用意された物差しや手桶の類であり、私たちの生活が育んだ「いのち」の趣きを全うするものではない。

そんな、私の実感と直かに結び付いた、この世に唯一無二の「いのち」が、目の前の体から「いなくなって」しまった。それが、「死」という事件の跡を目の当たりにした私の、率直な感想だった。

ただし、その一方で、この、目の前から「いなくなった」「いのち」を、消滅したとすることもまた、私には想像しがたいことだった。

かの「いのち」と容易に再会することが叶わないことはわかる。しかし、私が確かに持つこの「いのち」の感触が、跡形もなく消え去るところなど、私には到底想像できない。そしてそれは、決して私だけが持つ感想ではないだろう。

現代でも、世人は「死」を「永久の別れ」という。相手はなにも人間に限るまい。禽獣から物品に至るまで、私たちが「いのち」を感じる時、そこには、「時間」や「空間」という秩序だった生活法則では覆いきれない、「なにものか」を感じ取っているはずだ。

 

―瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

(崇徳院、「詞花集」)

 

別れとは、期待でもあるだろう。もちろん、私は亡くなった人の「いのち」がどこにいったのかと聞かれても、ただ、「ここではないどこか」としか、答えようがない。末に逢える保証などどこにもない。確かなのは、目の前にいないということだけだ。それでも、あの「いのち」はきっとあり続ける。そう思われないならば、古歌も古学も、なべて学問は、詮無きことではあるまいか。

 

―註の味いに想到する読者は、神代の「風儀人情」が、あるがままに語られ、その「あはれ」が、あるがままに伝えられるのに聞き入る宣長のココロの姿を、直かに感じ取る筈なのである。この時、宣長は、神代の物語を創り出した、無名の作者達の「心ばへ」を、わが「心ばへ」としていたに相違ない。(同、第28集p.204)

 

(了)