「物」としての言葉

小島 奈菜子

私が小学生になるかならないかの頃、母は育児でしばらく離れていた看護師の仕事を再開し、自家用車で患者さんを訪ねてまわる訪問看護をしていた。保育園を卒園後、小学校入学前で預け先がなかった時期に一度だけ、母に連れられて全身麻痺の患者さんの家に伺ったことがある。

その人は介護ベッドの上で、上半身をほんの少し起こしていた。自ら動かせるのは二つの眼だけのようだったが、母と意思の疎通をする様子は、不思議なほど手慣れて見えた。

まず母が「あ、か、さ、た……」と、あ段の文字をひとつずつ区切って発声する。相手が「さ」のときにまばたきしたら、今度は「さ、し、す……」と、さ行の文字をひとつずつ挙げていく。二回目のまばたきが、求めている文字を指し示す。体は動かなくても、目は見えているし、耳も聞こえていて、記憶もはっきりしており、母は家族に接する時と同じような速さで話しかけていた。患者さんが言葉を発するとき、二人は頭の中の五十音表を声でたどり、一文字ずつ示すことで言葉を紡いでいく。部屋の様子などは覚えていないが、響いていた母の声は思い出せる。会話の内容はほとんど理解できなかったが、ひとつだけはっきりわかった言葉がある。

「あ」まばたき、まばたき。「あ、か、さ、た、な、は、ま、や、ら」まばたき。「ら、り」まばたき。「あ、か」まばたき、まばたき。「あ、か、さ、た」まばたき。「た、ち、つ、て、と」まばたき。「あ、り、か、と……ありがとう?」まばたき。母は、首を横に振りながら笑顔になった。

それまで弟妹を伴わずに母と出かけたことはなく、私にとっては一対一で話ができる珍しい機会だったが、仕事中の母は話す余裕がなかったのか、私は行き帰りの道行きも含め終始無言だった。帰路の車中から見た、大きな滝と吊り橋のある公園の風景が、普段もよく通る場所だったのに、なぜか強くその日の印象として残っている。初めて会った全身麻痺の人と、その対話の仕方に驚いたのだろうが、滝の風景をはっきり覚えているのは何故だろう。その人は全身で、全力を尽くして、母とともに言葉を編んでいた。眼しか動かない人の心も、母や自分と同じように生きて動いており、言葉を持っている。生まれて初めてその事実をはっきり目の当たりにして、真剣に耳を傾けていたから、聴覚以外の感覚を取り戻して我に返った時、たまたま目にしたのがその滝だった、ということかもしれない。

 

三十年以上前の記憶が呼び起こされたのは、小林秀雄が『本居宣長』で思索を深めている「人間にとって言葉とは何か」という問いに刺激されて、言葉に興味を持つようになってからのことだ。長い間思い出すことなく大人になり、心という目に見えないものを誰もが持っているという事実を忘れたように過ごしていた私は、自分自身の心でさえも、失われて戻らないように感じたこともある。だから『本居宣長』を初めて読んだ時、そのような状態は言葉への態度、言語観に由来すると言われて、非常に驚いた。

小林秀雄は言っている、

 

諸概念の識別標として、言葉を利用し、その成功に慣れてしまうという、避け難い傾向は、どうしても、心の柔らかさを失わせ、生きた言葉を感受する力を衰弱させる。そうしているうちに、言葉とは、理解力の言うなりに、これに随伴して来る、本来そういう出来のものである、という考えを育てて了うのである。しかし、物を説く為の、物についての勝手な処理という知性の巧みが行われる、ずっと以前から、物に直かに行く道を、誰も歩いているのは疑いようのないところだ。その第一歩として、物に名を付けるという行為がある。物を理解するという知的行為が、おおい隠して了った行為があるのだ。神々の名を註釈しつつ、宣長が痛感したのはその事だったのである。

(第三十九章 新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.86 5行目〜)

 

後世を生きる私達には、神代の人々のように物の名を自ら発明する機会はほとんどない。子どもは言葉を身につけるとき、聞き知った言葉を自らの声や動きで再現し、使い方を真似ながら覚えていく。母語を身につける上で「物を理解するという知的行為」が先行する人はいない。幼い頃、新しく覚えた物の名前を初めて使ってみるとき、何とも言えない快さが湧き上がってきた覚えがあるが、もしかしたらこの感覚は、古人達が物に命名したときのものに近いのだろうか。それはともかく、私は大人になるにつれて「諸概念の識別標として、言葉を利用し、その成功に慣れて了うという、避け難い傾向」に染まっていた。特に意識しないうちに、「物を理解」しようとばかりして、日常生活のほとんどの場面で、言葉を単なる道具としてのみ使っていた。「生きた言葉を感受する力」は、柔らかい心があってこそ発揮されるものであり、「心の柔らかさ」は、言葉を道具のように使っていると失われてゆく。

それでは、言葉は本来どのようなものなのか。第三十二章で、後に本居宣長に引き継がれる言語観を著した荻生徂徠を引き、小林秀雄は次のように言う。

 

言語は物の意味を伝える単なる道具ではない。新しい意味を生み出して行く働きである。物の名も、物に附した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である。(中略)ただの記号に成り下った、ばらばらな単語も、その繭から抽き出す緒で、連結されれば、新たな意味の脈絡を生み、実物のあじわいを取戻す。こういう事を行う詩人のうちに入込んだ徂徠の発言が、「天下ノ事、皆ナ我レニアツマル」という風な言い方になるのは、全く自然な事だと言ってよかろう。そういう言い方は、外からは、決して掴む事の出来ない言語生活の生命が、捕えられているという、その捕え方に他ならないからである。

正常な意味合で、言語生活というものは、何ヶ国語に通じていようが、語学の才などとはまるで違った営みである。自国の言語伝統という厖大ぼうだいな、しか曖昧あいまい極まる力を、そっくりそのまま身に引受けながら、これを重荷と感ずるどころか、これに殆ど気附いていない、それほど国語という共有の財が深く信頼されている、そういう事である。徂徠が「天下」という名で呼んだのは、この世界だ。人々が皆合意の下に、協力して蓄積して来た、この言語によって組織された、意味の世界の事である。この共通の基盤に、保証されているという安心がなくて、自分流に物を言って、新しい意味を打出す自由など、誰にも持てる筈はない。

(第三十二章 同上第28集p.13 14行目〜)

 

古代の人々は、名前のない物事に出会い、「新しい意味を生み出して行く」言語の力によって神々の名を発明した。「古事記」に記されているのは、その命名行為の足跡である。生み出された神々の名前が「物の姿を、心に映し出す」、そういう世界に彼らは生きていた。記号のように意味が固定された言葉は「実物のあじわい」を失い、「物に直かに行く道」(第三十九章)から離れていく。これが「避け難い傾向」であるのは、便利だからというだけでなく、生活の上で「詩人」として言葉を使う場面が少ないためでもあるだろう。言葉について意識的にならなければ、この傾向に抗うのは難しい。

新たに意味を紡ぎ出す表現行為から離れるほど「心の柔らかさ」を失い、「生きた言葉を感受する力」も失われていく。神々の名から「物の姿」を感受することは、動いて止まない、生きた柔らかい心を持つ人にしかできない。後世を生きた「宣長が痛感した」のはそのことだった。受け継がれてきた国語の力が、「自分流に物を言」う「自由」を自動的にもたらしてくれるのではなく、古人達のように、感受した物と、物から受けた自らの心の動きとを、ともにしっかりと見定め、受けた動揺を鎮める意識的な努力が必要なのだ。第三十六章に、その努力の道筋が描かれている。

 

堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞ことばの道」だ、と宣長は考えたのである。悲しみを、悲しみとして受取る、素直な心さえ持っている人なら、全世界が自分一人の悲しみと化するような、深い感情の経験は、誰にもあるだろう。ことばは、「あはれにたへぬところより、ほころび出」る、と言う時に考えられているのは、心の動揺に、これ以上堪えられぬという意識の取る、動揺の自発的な処置であり、この手続きは、詞を手段として行われる、という事である。どうして、そういう事になるか、誰も知らない、「自然の妙」とでも言う他はないのだが、彼は、そういう所与の言語事実を、ただ見るのではなく、私達めいめいが自主的に行っている、言語表現という行為のうちに、進んで這入はいって行く。

詠歌の行為の裡にいなければ、「排蘆小船あしわけおぶね」で、言われているように、「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ」と合点するわけにはいかないだろう。心の動揺は、言葉という「あや」、あるいは「かたち」で、しっかりと捕えられぬうちは、いつまでも得体の知れない不安であろう。言葉によって、限定され、具体化され、客観化されなければ、自分はどんな感情を抱いているのか、知る事も感ずる事も出来ない。「妄念ヲヤムル」という言い方は、そういうところから来ている。「あはれ」を歌うとか語るとかいう事は、「あはれ」の、妄念と呼んでもいいような重荷から、余り直かで、生まな感動から、己れを解き放ち、己れを立て直す事だ。

(第三十六章 同上第28集 p.58 13行目~)

 

 

「心の動揺は、言葉という『あや』、或は『かたち』で、しっかりと捕え」られるまでは、「妄念と呼んでもいいような重荷」であると小林秀雄は言う。既に存在している言葉を利用できる場合とは全く違う、「これ以上堪えられ」ないほどの心の動揺を胸中に抱え、「これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変」ずること、生きて動く心を持ち続けるということは、こうした道を行くことだ。心の動きを直視せず、既存の言葉の意味にあてはめてしまえば、こんな苦労はしないで済むだろうし、言葉を記号として使うことは、この苦労から逃げるための方法と言えるかもしれないが、それは「妄念と呼んでもいいような重荷」を背負い続けることなのである。

「言葉という『あや』、或は『かたち』」という言い方がされているように、言葉にするということは、声に「あや」をつけて発する行為である。例えば文字のように、行為から離れて固定された不変のものではなく、声の抑揚や強弱などによる「あや」こそが、言葉の本来のあり方だ。ここで言われている言葉の「かたち」とは、表現する行為自体のことなのである。その行為の中で、物の経験と言葉の経験は、「『しるし』としての言葉の経験」として表裏一体である、と第三十四章で言われている。

 

「神代」とか「神」とかいう言葉は、勿論もちろん、古代の人々の生活の中で、生き生きと使われていたもので、それでなければ、広く人々の心に訴えようとした歌人が、これを取上げた筈もない。宣長によれば、この事を、端的に言い直すと、「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物なり」となるのである。ここで、明らかに考えられているのは、有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、彼の用語で言えば、「シルシ」としての言葉が、言葉本来の姿であり力であるという事だ。見えたがままの物を、神と呼ばなければ、それは人ではないとは解るまい。見えたがままの物の「性質情状アルカタチ」は、決して明らかにはなるまい。直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「シルシ」としての言葉の経験なのである。両者は離せない。どちらが先きでも後でもない。「古事記伝」の初めにある、「そもそもココロコトコトバとは、みな相称アヒカナへる物にして」云々うんぬんの文は、其処そこまで、考え詰められた言葉と見なければならないものだ。

(第三十四章 同上第28集 p.44 12行目~)

 

物の「性質情状アルカタチ」を感受し、言葉の「かたち」を自らの行為によって作り出し、その「かたち」を「物」として感受する、そうした言語表現による認識の働きが詳しく描かれている。宣長が言う「物」とは何か、ということは上記の文章の前に、「神代の神は、〜」というくだりの引用とともに、次のように書かれている。

 

宣長にとって、「物」の経験とはどういうものであったか。(中略)

「余が本書(「直毘霊なおびのみたま」)に、目に見えたるまゝにてといへるは、月日火水などは、目に見ゆる物なる故に、その一端につきていへる也、此外も、目には見えねども、声ある物は耳に聞え、香ある物は鼻にカガれ、又目にも耳にも鼻にもフレざれ共、風などは身にふれてこれをしる、其外何にてもみな、フルるところ有て知る事也、又心などと云物は、他へはフレざれども、思念オモフといふ事有てこれをしる、諸の神も同じことにて、神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物也、其中に天照大御神あまてらすおおみかみなどは、今も諸人の目に見え給ふ、又今も神代も目に見えぬ神もあれ共、それもおのゝゝその所為シワザありて、人にフルる故に、それと知ル事也、又夜見ヨミノ国も、神代に既に伊邪那岐いざなぎノ大神又須佐之男すさのをノ大神などのマカリまししコトアトあれば、其国あること明らか也」(「くず花」下つ巻)と答えている。

宣長の言い分は、確かに感知される物が、あらゆる智識の根本をなすという考えに帰する、というだけの話なら、一応は、簡単な話と言えよう。だが、前にも言ったように、宣長は議論などしているのではなかった。物のたしかな感知という事で、自分に一番痛切な経験をさせたのは、「古事記」という書物であった、と端的に語っているのだ。更に言えば、この「古ヘの伝説ツタヘゴト」に関する「古語物コトドヒモノ」が提供している、言葉で作られた「物」の感知が、自分にはどんなに豊かな経験であったか、これを明らめようとすると、学問の道は、もうその外には無い、という一と筋に、おのずからつながって了った、それが皆んなに解って欲しかったのである。

(第三十四章 同上第28集 p.42 4行目~)

 

人の体や心に、なんらかのかたちで触れ、動きをもたらす事物を指して、宣長は「物」と言う。そして小林秀雄が言うように、言葉でできた物語である「古事記」も、人の心に働きかけて動かすからやはり「物」なのである。心を揺り動かさない、記号でしかない言葉は「物」ではない。表現行為としての、「徴」としての言葉は「物」なのだ。

そして、行為としての言葉は、必ずしも自らの肉声を伴わなくても、目の動きだけで綴られていても、「物」なのではないか。『本居宣長』の各所で言われているように、声の抑揚や表情、身振りはもちろん重要な表現行為の一部であるが、それがすべてではないように思われるのは、目の動きだけで母と対話していた人の「言葉」が、少なくとも私にとっては「物」だったからだ。生きて動く柔らかな心を持つ人が、伝えようとする意志のもとに表す行為であるということが、言葉の力の核心なのではないだろうか。

(了)