ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

三浦 武

その十四 アウトサイダー~ヴァーシャ・プシホダ

 

寒いのが苦手だ。それが全身に現れるらしく、そういう季節になると、寒そうですね? としょっちゅう心配される。寒いですね、と返すけれど、ほんとうはそう寒いとも思っていない。寒そうにはしているが、寒さには人一倍強いのである。若い頃は厳冬の雪山にだって登っていた。ところが、苦手なのだ。苦手というより嫌いなのだろう。

これは、どうやら青年時代の記憶に由来する、いわば拒絶反応なのだ。下町の運送屋で毎朝トラックを洗っていた。大きなブラシを洗剤に浸してごしごし擦り、蛇口全開のホースで洗い流す。冷水を全身に浴びることになる。冬は地獄だ。凍てつく、というやつである。長靴の中も水浸し、足先も指先も直ちに痺れてくる。それを8時までに2台か3台、毎朝やった。ほんとうは二人でやるのだが、もう一人はたいてい来ない。「いじめ」である。小さな運送屋で、免許も持たず、しかも大卒。誰もまともに付き合おうなどとは思いもしないのである。ある朝などは、凍った地面に足をとられて転倒し、全身ずぶぬれになり、あまりの冷たさになんだか諦めたような気分に堕ちて、そのまま仰向けになって、星空の去った明け方の天蓋を眺めていた。

私は単純に孤独だった。そして何をやっているのかわからなかった。この悠久の宇宙のなかにいて、自分のたかだか数十年の人生などゼロに等しいと思った。そのゼロをこんな辛い思いまでして生きる意味など、いったいどこにあるだろう?

その運送会社の目の前、古い雑居ビルの地階がNEWPORTというバーで、夜通しロックなんかを鳴らしていた。私の出勤は明け方だが、まだ看板が出ていることもあった。ある朝、ボブ・ディランのNorth Country Bluesが聴こえてきたので、仕事前にちょっと覗いてみることにした。薄暗い店内は10席足らずのカウンターだけで、もとより客はなく、痩せた、髪の長い、マスターらしい男が洗い物をしていた。そして、どうぞ、毎朝大変だね、と、こちらの方をろくに見もせずに言った。私は、はあ、とか、いや、とか、意味のない返事をして、カウンターの一番手前に腰かけた。ウィスキーというわけにはいかないね? コーヒーいれようか。あ、ありがたいです。

大きなカップで出された熱いコーヒーで手と体を温めながら、私は、ディランの弾くギターの単調な繰り返しに次第に説得されていくようだった。その宇宙的な、無限性をはらんだテンポの内部に、有限の人生が歴史として定位されていく、そんなことを考えようとした。音楽がそんな思索の可能性をもって聴こえたことはなかったから。そして、私はまったく私流にボブ・ディランという音楽を理解したと思った。ありがたかった。

 

バッハもモーツァルトもベートーヴェンも、その音楽の根底に流れているのは、非情の宇宙の根源的なリズムだろう。一流の演奏家に求められる圧倒的な技量のひとつは、そういうものの再現力にちがいないと思う。リストは、嵐のなかの巨木を指して、あれがショパンだといった。激しい風雨に叩かれ翻弄される枝条と枝葉、しかしその幹は身じろぎもしない。ショパンのマズルカは、健全な信仰を生きる農民たちの、宇宙の規矩を越えぬ人生の奔放である。世界の8番目の不思議と言われたアート・テイタム、その超絶技巧は、十指が夜空の星々の動きに対応しつつ、根幹にビッグバン以来の一つの原理を潜ませている。彼が炸裂させる、ドヴォルザークのユモレスクやマスネのエレジーのめくるめく変奏は、天蓋に散らばる無数の太陽系だ。

それらは救済ではないのか。救済といってわかりにくければ、超克といってもいい。間違ってはいけないが、それは癒しではない。癒しというのは、結局のところ、忘却にすぎない。むろんそういう癒しが、つまりひとときの忘却が、夜ごとの安眠に有効な場合もあるだろう。が、それでは済まない、忘却を許さぬ苦しみが我々にはある。それに我々は向き合って、克服しなければならない。

 

チェコのヴァイオリニスト、ヴァーシャ・プシホダ。彼の演奏はまったく独創的である。「どうしても想像することができない妖艶極まる音色」と評した人がいたが、同感だ。音色だけではない。たとえば、クライスラー作曲「愛の悲しみ」の録音があるが、これがなんとも魅力的な舞曲になっている。むろん舞曲として作られたものではあるが、もはやクライスラーのウィーン風ではない。プシホダのグァルネリウスが奏でる一本の描線は、そのまま独自の生命をもって躍動し始める。ともすると凡庸になりがちな旋律が、突然光彩を放つ。そして土着の舞曲に仕上がってしまうのである。どこからかボヘミアの匂いがたちのぼってくるようだ。他ならぬ彼の肉体が、この歌をそんなふうに変容させてしまうのだろう。

さて、私は、彼のヴァイオリニストとしての系譜を書こうとしている。ところがそれが見えてこない。父親から手ほどきを受けた後、プラハ音楽院ではアントニーン・ベネヴィッツ門下のヤン・マルジャークを師としているというから、チェコの偉大な教師シェフチークに近く、ヴィオッティからクーベリックを経てシュナイダーハンに至る系譜に属しているとはいえる。あの完璧な技巧は、なるほどシェフチークの伝統かも知れない。が、他のシェフチーク門下、たとえばエリカ・モリーニとの間に類縁性などないようだ。彼は、誰にも似ていないのではないか。ヴィオッティはむろん、マルジャークやシェフチークにも録音はなさそうだから、迂闊なことは言えないのだけれども、少なくとも、シュナイダーハンとも、クーベリックとさえも、彼は異なっている。

彼の系譜は、9世紀頃、西アジアあたりからやって来た、フィデル以前の流浪の音楽家たちから直接つながってきているのではないか。女たちの歌や踊りの伴奏を起源とするヴァイオリンという楽器の歴史は、イタリアの何人かの職人の手によって自立した楽器へと飛翔し、独奏音楽の主役となり、まもなく室内楽を生みだすに至るが、それでもなお、ヨーロッパ辺境の風土と身体性を宿したまま、都市的に洗練された後のクラシックの本流に抗いながら、流浪の楽器弾きの命脈を保ってきたようにみえる。それこそがヴァイオリンの出自であり、本質である。プシホダはその系譜の末裔なのである。それは、師弟関係のなかで継承されるものではなく、ヴァイオリンもしくはフィデルという楽器そのものを媒介として生成されてきた伝統なのだ。

音楽院を出たあと、活躍の場に恵まれなかった若きプシホダは、さすらうようにしてイタリアに赴き、ミラノあたりのカフェで弾いて糊口をしのいでいた。たまたまあるカフェの店主に気に入られて小さなコンサートを催したとき、客席の紳士が立ち上がって叫んだ。現代のパガニーニだ! この一声で運命が変わった。恩人はアルトゥール・トスカニーニであった。プシホダはまもなく、かつてのパガニーニのように、全欧州を駆けめぐるようになった。新大陸のハイフェッツに対して旧大陸のプシホダ。が、彼の演奏は標準語にはならなかった。ボヘミアの方言たるを失わなかった。彼はあくまで旅芸人の系譜であり続けた。

サラサーテ作曲「アンダルシア風ロマンス」の古い録音がある。「ロマンス」ではあるが、そこはアンダルシア地方の歌、フラメンコのリズムを潜ませている。それは、ヒターノのものだ。が、同時に、どこかボヘミアのにおいがたちのぼってくる。プシホダの本領である。

もうひとつ、プシホダを語るうえで決定的な一曲がある。パガニーニ作曲「ネル・コル・ピウ変奏曲」。パイジェッロのオペラ「美しき水車小屋の娘」にあるアリアの変奏曲である。この曲こそはパガニーニの神髄だろう。オーストリアのヴァイオリニスト、ハインリヒ・エルンストは、パガニーニの演奏を舞台袖でひそかに聴いてこの曲をマスターし、それを当人の前で披露して驚嘆されたと伝えられている。エルンストの故郷は現在のチェコである。プシホダと同郷といってもいいのかもしれない。プシホダもまた、この曲に狙いを定めるようにして、研鑽を積んだであろう。二次大戦前に二度録音している。凄まじい技巧の生みだす絢爛に、人生の抒情が重なる。済んだ大気に星雲が広がる。その宇宙論的構成は、殊に二回目の録音で極まっているかのようだ。きっとパガニーニはこんなふうに弾いたのだろうと思わせるものがあるのである。

私は長く、このレコーディングをもってプシホダの頂点と考えていた。大戦中もヨーロッパにとどまり、ドイツでも旺盛な音楽活動を行った彼は、ドイツ風の名前を名乗ったり、バッハを録音したりして、それはそれで魅力的だが、ボヘミアンとしての本領から遠ざかろうとしているようにもみえる。戦後はさらにその傾向が顕著だ。いかにも不似合いなモーツァルトの録音があったりする。最初の妻、アルマが、離婚後とはいえアウシュヴィッツで亡くなったりしたこともあって、当時の彼の評判は、人間に対しても音楽に対しても、芳しいものではなかったようだ。30代までの輝きはもはや失われたのだ。そう、私も思い込んでいた。ところが60歳で亡くなる、長いとは言えない人生の、その最晩年にもう一度、彼にとっては運命の地であるイタリアで「ネル・コル・ピウ変奏曲」を録音していたのである。このLPレコードはほとんどみかけない。ようやく手に入れて聴いてみて、彼の戦後は雌伏の時間であったことを悟った。この一回の録音のために彼は生きたのだ。

 

戦後の音楽は、非情の無限性を見失い、感傷に過ぎない抒情性だけを増幅させてきたように見える。プシホダはそこにくさびを打ち込んでいる。彼のおかげで衰滅を免れ、あるいは回復したものもあるであろう。そう信じたい。

 

 

注)

ヴァーシャ・プシホダ Vasa Prihoda 1900-1960

アート・テイタム Art Tatum 1909-1956……アメリカのジャズピアニスト。ハーレム・スタイルの究極(丸山繁雄)。彼の演奏する店には、ホロヴィッツ、その義父トスカニーニ、ギーゼキング、チッコリーニらが訪れた。

ヤン・マルジャーク Jan Marak 1870-1932

アントニン・マルジャーク Antonin Bennewitz 1833-1926

ジョバンニ・バッティスタ・ヴィオッティ Giovanni Battista Viotti 1755-1824

ヤン・クーベリック Jan Kubelik 1880-1940

ウォルフガング・シュナイダーハン Wolfgang Schneiderhan 1915-2002

オタカール・シェフシーク Otakar Sevcik 1852-1934

エルンスト Heinrich Wilhelm Ernst 1814-1865

 

(了)