小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

三十三 大和魂という言葉

 

1

 

今回も、賀茂真淵である、賀茂真淵から、である。また真淵か、性懲りもなく、と嘲笑わらわれそうだが、性懲りもないのは真淵なのである。小林氏は、宣長が用いた「大和魂、大和心」という言葉に説き及ぶ第二十五章で、まずはこう言うのである。

―真淵は、「やまと魂」という言葉を、万葉歌人等によって詠まれた、「丈夫ますらをの、をゝしくつよき、高く直き、こゝろ」という意味に解した(「爾比末奈妣にひまなび」)。「万葉」の「ますらをの手ぶり」が、「古今」の「手弱女たわやめのすがた」に変ずる「下れる世」となると、人々は「やまと魂」を忘れたと考えた。……

―しかし、「やまと魂」とか「やまと心」とかいう言葉が上代に使われていた形跡はないのであって、真淵の言う「手弱女のすがた」となった文学のうちに、どちらも初めて現れて来る言葉なのである。「やまと魂」は、「源氏」に出て来るのが初見、「やまと心」は、あかぞめ衛門えもんの歌(「後拾遺和歌集」)にあるのが初見という事になっていて、当時の日常語だったと見ていいのだが、王朝文学の崩壊とともに、文学史から姿を消す。従って、真淵は、「手弱女」の用語を拾って、勝手に、これを「丈夫」の言葉に仕立てたとも言えるわけだが、真淵には、そんな事を気にした様子は、一向に見られない。では当時、どういう意味の言葉であったか。宣長の流儀で、無理に定義しようとせず、用例から感じ取った方がよかろう。……

そう言って小林氏は、「大和魂」の用例を「源氏物語」から引く。

―「源氏」の中の「大和魂」の用例は一つしかないが、それは、「乙女の巻」の源氏君の言葉に見られる。「なほざえを本としてこそ、大和魂の世に用ひらるゝかたも、強うはべらめ」 ザエは、広く様々な技芸を言うが、ここでは、夕霧を元服させ、大学に入学させる時の話で、才は文才モンザイの意、学問の意味だ。学問というものを軽んずる向きも多いが、やはり、学問という土台があってこそ、大和魂を世間で強く働かす事も出来ると、源氏君は言うので、大和魂は、才に対する言葉で、意味合が才とは異なるものとして使われている。才が、学んで得た智識に関係するに対し、大和魂の方は、これを働かす知慧に関係すると言ってよさそうである。……

続いて小林氏は言う、

―試みに、「源氏物語新釈」を見てみると、真淵は、この文について、次のように書いている。「此頃となりては、専ら漢学もて、天下は治る事とおもへば、かくは書たる也。されど、皇朝の古、皇威さかんに、民安かりける様は、たゞ武威をしめして、民をまつろへ、さて天地の心にまかせて、治め給ふ也。人の心もて、作りていへる理学にては、其国も治りし事はなきを、ひとへに信ずるが余りは、天皇は殷々いんいんとして、尊に過給ひて、臣に世をとられ給ひし也。かゝる事までは、此比このころの人のしることならずして、女のおもひはかるべからず」―真淵らしい面白い文だが、これでは、註釈とは言えまい。「源氏」という「下れる世」に成った、しかも女の手になった物語に対する不信の念が露骨で、「大和魂」という言葉の、ここでの意味合などには、一向注意が払われていない。「大和魂」という調法な言葉は、別に自分流に利用すればよい、というわけであった。……

 

次いで、小林氏の目は、「今昔物語」に向けられる。

―もう一つ。「今昔物語」に、「明法博士善澄、強盗ニ殺サレタルコト」という話がある(巻第二十九)。或る夜、善澄の家に強盗が押入った。善澄は、板敷スノコの下にかくれ、強盗達の狼藉ろうぜきをうかがっていたが、彼等が立去ると、後を追って門前に飛び出し、おのれ等の顔は、皆見覚えたから、夜が明けたら、検非違使けびいしの別当に訴え、片っ端から召し捕らせる、と門を叩いて、わめき立てたところ、これを聞いた強盗達は、引返して来て、善澄を殺した。物語作者は附言している、―「善澄才ハメデタカリケレドモ、つゆ和魂ヤマトダマシヒ無カリケル者ニテ、カカル心幼キ事ヲ云テ死ヌル也」と。これで見ると、「大和魂」という言葉の姿は、よほどはっきりして来る。やはり学問を意味する才に対して使われていて、机上の学問に比べられた生活の知慧、死んだ理窟に対する、生きた常識という意味合である。両者が折合うのは、先ずむつかしい事だと、「今昔物語」の作者は言いたいのである。……

と、こう言って、小林氏は再び「源氏物語」に注目する。

―すると源氏君の方は、何の事はない、ただ折合うのが理想だという意見になるわけだが、作者式部の意見となれば、これは又別なわけで、主人公に、そう言わせて置いて、直ぐつづけて、大和魂の無い学者等について、語り始める作者の心の方が大事であろう。夕霧の大学入学式の有様が、おかしく語られ、善澄のような博士たちの、―「かしがましう、のゝしりをる顔どもゝ、夜に入りては、中々いま少し、掲焉けちえんなるかげに、猿楽さるがうがましく、わびしげに、人わろげなるなど、さまざまに、げに、いと、なべてならず、さま異なるわざなりけり」という風に、ずらりと居並ぶのが面白い。これは、この作者が、時として示す辛辣な筆致の代表的なものであり、この辺りの文で、作者の眼は、「大和魂」の方を向いていると見るのが自然である。……

 

続いて、「大和心」の用例である。

―今度は、赤染衛門の歌について、「大和心」の用例を見てみる。赤染衛門は、大江匡衡おおえのまさひらの妻、匡衡は、菅家と並んだ江家こうけの代表的文章もんじょう博士である。「乳母めのとせんとて、まうで来りける女の、乳の細く侍りければ、詠み侍りける」と詞書ことばがきがあって、妻に贈る匡衡の歌、―「はかなくも 思ひけるかな もなくて 博士の家の 乳母せむとは」―言うまでもなく、「乳もなくて」の「乳」を、「知」にかけたのである。そのかえし、―「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳ほそぢに附けて あらすばかりぞ」―この女流歌人も、学者学問に対して反撥する気持を、少しも隠そうとはしていない。大和心が賢い女なら、無学でも、子供に附けて置いて、一向差支えないではないか、というのだが、辛辣な点で、紫式部の文に劣らぬ歌の調子からすれば、人間は、学問などすると、どうして、こうも馬鹿になるものか、と言っているようである。……

―この用例からすれば、「大和心しかしこくば」とは、根がかしこい人ならとか、生れつき利発なタチならとかいう事であろう。意味合からすれば、「心しかしこくば」でいいわけで、実際、「源氏」の中ででも、特に「才」に対して使われる時でなければ、単に「心かしこし」なのである。大和心、大和魂が、普通、いつも「才」に対して使われているのは、元はと言えば、漢才カラザエ、漢学に対抗する意識から発生した言葉である事を語っているが、当時の日常語としてのその意味合は、「から」に対する「やまと」によりも、技芸、智識に対して、これを働かす心ばえとか、人柄とかに、重点を置いていた言葉と見てよいように思われる。……

 

2

 

では宣長は、「大和魂」「大和心」という言葉をどう解し、どう用いたか、である。

―宣長も真淵のように、「大和魂」という言葉を、己れの腹中のものにして、一層強く勝手に使用した。例えば、「うひ山ぶみ」で、「やまとだましひを堅固カタくすべきこと」を、繰返し強調しているが、その「やまとだましひ」とは、「神代上代の、もろもろの事跡のうへに備はりた」る、「皇国みくにの道」「人の道」を体した心という意味である。彼は、「やまとだましひ」という言葉の意味を、そこまで育て上げたわけだが、この言葉が拾い上げられたのは、真淵のと同じ場所であった筈だ。(中略)彼は、「源氏」を、真淵とは比較にならぬほど、熱心に、慎重に読んだ。真淵と違って、この言葉の姿は、忠実に受取られていたと見てよく、更に言えば、この拾い上げられた言葉は、「あはれ」という言葉の場合と同様に、これがはち切れんばかりの意味をこめて使われても、原意から逸脱して了うという事はなかったと見て差支えない。……

宣長が、「うひ山ぶみ」で、「やまとだましひを堅固カタくすべきこと」を強調しているくだりは、たとえばこうである。

―初学の輩は、宣長が著したる、神代正語を、数十遍よみて、その古語のやうを、口なれしり、又直日のみたま、玉矛百首、玉くしげ、葛花などやうのものを、入学のはじめより、かの二典フタミフミ(「古事記」「日本書紀」/池田注記)と相まじへてよむべし、然せば二典の事跡に、道の具備ソナはれることも、道の大むねも、大抵に合点ゆくべし、又件の書どもを早くよまば、やまとたましひよく堅固カタまりて、漢意カラゴコロにおちいらぬマモリにもよかるべき也、道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意儒意を、清くススぎ去て、やまとタマシヒをかたくする事を、要とすべし、……

―初学の輩、まづ此漢意を清く除き去て、やまとたましひを堅固カタくすべきことは、たとへばものゝふの、戦場におもむくに、まず具足をよくし、身をかためて立出るがごとし、もし此身の固めをよくせずして、神の御典ミフミをよむときは、甲冑かっちゅうをも着ず、素膚スハダにして戦ひて、たちまち敵のために、手を負ふがごとく、かならずからごゝころに落入るべし。……

―漢籍を見るも、学問のために益おほし、やまと魂だによく堅固カタまりて、動くことなければ、昼夜からぶみをのみよむといへども、かれに惑はさるゝうれひはなきなり。……

宣長は、「大和魂」を戦場に赴く武士の甲冑、すなわち防具に譬え、学問という戦場で「漢意」の刃先から身を衛るのは「大和魂」である、「皇国の道」「人の道」を体した心であると言い、「漢学」に対する「和学」といった技芸や知識よりも、「和学」を働かせる心延こころばえ、すなわち「皇国の道」「人の道」を体した心を養い、堅固にすることが先だと説いている点、たしかに小林氏の言うとおり、宣長は「大和魂」の原意から逸脱してはいないのである。「皇国の道」「人の道」を体した心とは、「皇国の道」「人の道」に則って判断し、行動する心構えである。「やまとタマシヒを堅固くする」とは、そういう心構えをしっかり腹に入れるということだろう。

 

しかし真淵は、「学問」に対する「心延え」、あるいは「心構え」という原意には目もくれず、「大和魂」という言葉は真淵が読み取った「萬葉集」の歌心の集約、または反映と解し、そういう意味合で平然と使い通した。

小林氏は、先ほども引いたとおり、

―真淵は、「やまと魂」という言葉を、万葉歌人等によって詠まれた、「丈夫ますらをの、をゝしくつよき、高く直き、こゝろ」という意味に解した。(中略)しかし、「やまと魂」とか「やまと心」とかいう言葉が上代に使われていた形跡はないのであって、真淵の言う「手弱女のすがた」となった文学のうちに、どちらも初めて現れて来る言葉なのである。……

と言っているのだが、そこをさらに踏み込んでみると、真淵が終生絶対視した『萬葉集』には、「やまと魂」どころか「魂」という言葉さえ全二十巻、四五一六首中に一例しかないのである。巻第十五の「中臣朝臣宅守なかとみのあそみやかもり狭野弟上娘子さののおとがみのをとめと贈答する歌」と総題を置いて配列された六十三首中に、

たましひは 朝夕あしたゆふへに たまふれど が胸痛し 恋の繁きに

とただ一度、「娘子」の歌として見えているだけなのである(『国歌大観』番号三七六七)。

ここをさらに、伊藤博氏の『萬葉集釋註』で見てみると、『日本書紀』に「識性」「識」「神色」の語が見え、古訓にタマシヒとある、また石山寺本大唐西域記長寛点に「タマシヒニ信ジ意ニ悟リニキ」とあり、『倭名抄』(二)には「魂、多末之比」とあり、さらに『名義抄』には「魄」「識」「性」「神」「精」「精霊」「霊」「魔」「魂魄」をタマシヒと訓む、と記されているが、これら「タマシヒ」の表記状況から推して「タマシヒ」という概念自体、上代ではそれ相応の共通認識に達していたとは言い難いのではあるまいか。因みに契沖は、「タマシヒトハ、思ヒオコスル心サシナリ」(『萬葉代匠記 精撰本』)と註しているのみである。

また小林氏は、

―「やまと魂」とか「やまと心」とかいう言葉が上代に使われていた形跡はないのであって、真淵の言う「手弱女のすがた」となった文学のうちに、どちらも初めて現れて来る言葉なのである。……

と言っているのだが、だからと言って「やまと魂」とか「やまと心」とかいう言葉は女性が言い出し、女性だけが口にしていたと言うのではないだろう。これらは「当時の日常語だったと見ていい」と小林氏も言っているように、現に「源氏物語」のなかで作者紫式部は「大和魂」という言葉を光源氏に言わせているのである。紫式部の時代、「大和魂」という言葉は、男性たちの間でも折々口頭に上っていたのであろう。したがって、「大和魂」という言葉は、真淵の言うような「ますらをの手ぶり」を集約したり、反映したりした言葉ではありえなかったとはっきり言えるのだが、しかしこういう真淵の、「大和魂」の「ますらをの手ぶり」への強引な逸脱は、単簡に原意逸脱と言ってはすまされない問題を孕んでいた。『萬葉集』において「魂」の用例は一首しかないにもかかわらず、しかもそれは「娘子をとめ」の歌の中であるにもかかわらず、「大和魂」を「丈夫の、をゝしくつよき、高く直き、こゝろ」の集約または反映と解した真淵の強引な観念先行思考形態は、真淵一代では終らなかったのである。

 

3

 

先に、宣長が、「大和魂」を武士の甲冑に譬え、学問という戦場で漢意の刃先にかかって手負いとならぬよう、初学のうちから大和魂を堅固めることが緊要だと言っているくだりを見たが、宣長の学問は、終始、「攻め」ではなかった、小林氏は第四章で言っていた。

―「物まなびの力」は、彼のうちに、どんな圭角も作らなかった。彼の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、というような態度を取った事もないのだが、(中略)私には、宣長から或る思想の型を受取るより、むしろ、彼の仕事を、そのまま深い意味合での自己表現、言わば、「さかしら事」は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る方が面白い。彼は「物まなびの力」だけを信じていた。この力は、大変深く信じられていて、彼には、これを操る自負さえなかった。彼の確信は、この大きな力に捕えられて、その中に浸っている小さな自分という意識のうちに、育成されたように思われる。……

したがって、「大和魂を堅固くする」という思想も、宣長にあっては「戦闘的な性質の全くない、本質的に平和な」自己表現だったのである。

ところが、真淵はそうではなかった。『萬葉集』を代表する才媛歌人、額田王ぬかたのおおきみ大伯皇女おおくのひめみこ大伴坂上郎女おおとものさかのうえのいらつめも差し置いて、一方的に『萬葉集』は「ますらをの手ぶり」と真淵萬葉学の学説ならぬ標語を打ち出し、その線上で「大和魂」も「攻め」に使った。

 

そしてこの真淵の「攻め」は、真淵に輪をかけたような「孫弟子」の出現を招いた。厳密には「孫弟子」どころか弟子筋とも言えないのだが、宣長の死後、宣長の学問に烈しく自己を投影し、自分は宣長から選ばれたと信じて横様よこさまに門下を標榜したと推察されている平田篤胤は、『霊の真柱』なる書を著し、「大和魂」を「勇武を旨とする」方向へといっそう逸脱させた。小林氏は、大意、第二十七章でこう言っている。

―篤胤の古道は、宣長の「直毘霊」の祖述から始まったが、古道を説く以上、天地の初発から、人魂の行方に至るまで、誰にでも納得がいくように説かねばならぬ。安心なきが安心などという曖昧な事ではなく、はっきりと納得がいって安心できるもの、自分は、それを為し遂げた。『霊の真柱』は「古学安心の書」と呼べるもの、「古学の徒の大倭やまと心のしづまり」であると言う。宣長の「やまと魂を堅固める」という言葉とは、言わば、逆の向きに使われて、その意味合は大変違ったものになっている。……

「宣長の『やまと魂を堅固める』という言葉とは、逆の向きに使われて」と言っている小林氏の心意に思いを致そう。

―篤胤は言う、「とかく道を説き、道を学ぶ者は、人の信ずる信ぜぬに、少しも心を残さず、仮令たとひ、一人も信じてが有まいとまゝよ、独立独行と云て、一人で操を立て、一人で真の道を学ぶ、是を漢言で云はゞ、真の豪傑とも、英雄とも、云ひ、また大倭魂とも云で御座る」(「伊吹於呂志」上)、このような短文にも、気負った説教家としての篤胤の文体の特色はよく現れている。解り易く説教して、勉学を求めぬところが、多数の人々を惹きつけ、篤胤神道は、一世を風靡するに至った。これにつれて、「やまと魂」という言葉は、その標語の如き働きをしたと言ってよい。「やまと魂」を「雄武を旨とする心」と受取った篤胤の受取り方には、徳川末期の物情の乗ずるところがあって、その意味合の向きを定めた事は、言って置かねばならない。吉田松陰の「留魂録」が、大和魂の歌で始まっているのは、誰も知っている事だし、新渡戸稲造が「武士道」を説いて、宣長の大和心の歌を引いているのも、よく知られている事である。……

「留魂録」は、徳川末期の安政五年(一八五八)、大老井伊直弼が尊王攘夷派に対して行った大弾圧、安政の大獄で投獄された吉田松陰が、安政六年十月二十六日、処刑される前日に江戸伝馬町の牢獄で書いた遺書である。冒頭に「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」の歌が据えられている。

また新渡戸稲造は 明治から昭和期にかけての教育者、農政学者だが、キリスト者として国際親善に尽力し、著書「武士道」を明治三二年(一八九九)アメリカで出版(原題Bushido,theSoul of Japan)、翌年日本でも刊行した。その第十五章「武士道の感化」に宣長の歌「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日ににほふ 山ざくら花」を引いている。

 

こういうふうに、平田篤胤以後、「大和魂」という言葉は時代の波風によっても大きく変容させられたと言えるのだが、その変容は宣長が生まれてすぐの享保一八年(一七三三)、松岡仲良の『神道学則日本魂』によってもすでに始っていた。

仲良は熱田神宮の神職の子で、垂加流の神道家である。宣長より約三十歳年長だったが、皇位の天譲無窮性を強調し、「神道学則日本魂」の附録答問に「明けても暮れても、君は千代ませませと祝し奉るより外、我国に生れし人の魂はなきはず也。只此の日本魂を失ひ玉ふなと、ひたすらに教るはこのゆえなり」と言い、「やまとだましひ」を「日本魂」と書いている。

 

4

 

こうして、いま、私が執拗に「大和魂」という言葉の変容史を追っているのは、小林氏が言った原意、すなわち、

―大和魂は、才に対する言葉で、意味合が才とは異なるものとして使われている。才が、学んで得た智識に関係するに対し、大和魂の方は、これを働かす知慧に関係すると言ってよさそうである。……

を、それこそ知識として得てそれでよしとするのではなく、私たち自身の実体験として得て身に備えたいからである、あたかも宣長が言った「もののふの甲冑」のようにである。

それというのも、かつて宣長たちが相対した「カラゴコロ」に加えて、今日の私たちは「デジタルゴコロ」とも相対している。「もし此身の固めをよくせずして」デジタル文明の華、ソーシャルメディアにうつつを抜かせば、「甲冑かっちゅうをも着ず、素膚スハダにして戦ひて、たちまち敵のために、手を負ふがごとく、かならず『デジタルゴコロ』に落入る」だろうからである。現に私の目には、もう何人もの手負いが映っている。

その手負いぶりを一言で言えば、何事に関しても「沈黙するということ」に耐えられず、自分のことであろうと他人のことであろうと、見たり聞いたり感じたりすればすぐさまツイッターだ、ブログだ、フェイスブックだと手当り次第に発信しまくる多弁症候群である。これが亢進すると、もう沈黙が、沈黙の時間だけが醸してくれる思考の熟成は望めなくなり、薄っぺらで腰の据わらぬ人間になるしかなくなる。

ではその「大和魂」を、どうやって身に備えるかだが、これは容易である、きわめて容易である。『小林秀雄全作品』を全巻、通読する、それだけでよいのである。いきなり『全作品』の全巻通読とはいかないようなら、≪小林秀雄に学ぶ山の上の家塾≫の弟妹きょうだい塾≪私塾レコダl’ecoda≫のホームページに、「小林秀雄山脈五十五峰縦走」と題して池田が小林氏の主要作品五十五篇の紹介文を載せている、まずはこの五十五篇から通読する、文意がわかってもわからなくてもよい、まったくわからなくてもよいから毎日見開き二頁、とにかく読む、すると何篇か読み上げた頃、小林氏と会って両手で握手したような気持ちになる、もうこれだけで「デジタルゴコロ」に陥る心配はなくなる。なぜかと言えば小林氏の文章は、学問のみならず各種の論説から文明の利器とのつきあい方に至るまで、学んで得た智識を適切に働かすための知慧や心延えに満ちているからである、すなわち小林氏の文章は、「大和魂」の原意で書かれているからである。

私はけっして思いつきを言うのではない。これが私の思いつきでないことは、鎌倉の≪山の上の家塾≫で「本居宣長」を九年以上、毎月読んできた塾生諸賢には無理なく肯ってもらえると思う。そして本誌『好・信・楽』に載っている文章は、いずれも塾の前後、各自が「自問自答」で沈思黙考した時間の賜物であるということにも頷いてもらえると思う。

 

だがしかし、その前に、どうしてもしておいてほしいことがある。これも宣長に倣って言えば、今日言われている「大和魂」という言葉は「清くススぎ去て」、真の「やまとタマシヒをかたくする事を、要とすべし」、ということである。

というのは、今日、「大和魂」という言葉は、専ら運動選手のスポーツマン・シップ、あるいはファイティング・スピリットといった「雄武を旨とする」面で言われることが多く、それ以外の面ではほとんど耳にすることがないせいでもあろう、「才」が外から得た智識に関係するのに対し、大和魂はこれを働かす知慧に関係すると言われても、今日の「大和魂」が頭にあると、すぐにはしっくりこないのである。

「本居宣長」の第二十五章は、世の学者連中に向かって、「人間は、学問などすると、どうしてこうも馬鹿になるのか」とうそぶいている一般生活人の常識に光を当てることが小林氏のさしあたっての主眼である。したがって、それさえ明識できればひとまずは十分と言ってよいのだが、そこがそうはいかないのである、いきにくいのである。

おそらくこれは、「やまとだましひ」という「古言」を、「やまとだましい」という「近言」で視てしまうからである、「本居宣長」第十章に、荻生徂徠を引いて「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」な、と言われていたが、それなら古言の「やまとだましひ」はどういう波風を受けて近言の「やまとだましい」になったのか、その跡をまずは辿ってみよう、そこから古言の「やまとだましひ」へ一気に推参しようと私は思い、手始めに大槻文彦の『言海』と、『言海』の増補改訂版『大言海』を開いてみた。

 

『言海』には、こう言われていた。

大和心:(一)日本の学問、皇国の学才、日本学。

(二)御国人の気節の心。大和魂。日本胆。

大和魂:(一)「大和心」に同じ、日本の学問。日本学。

(二)日本人に固有なる気節の心。外国の侮を禦ぎ、皇国の国光を発揚する精神。ヤマトゴコロ。日本胆。

『大言海』には、こう言われていた。

大和心:(一)古くは漢学の力あるを漢才カラザエと云いしに対して、我が世才に長けたること。漢学の力に頼らず、独り自ら活動するを得る心、または気力タマシヒの意なり。

(二)転じて、我が日本国民の固有する忠君、愛国、尚武、廉潔、義侠の精神。日本の国体を本位として、外国の侮を禦ぎ、皇国の国光を発揚する精神の活動。またわが国の道徳の精華。やまとだましひ。和魂ワコン。<池田注/用例として宣長の歌「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日ににほふ 山ざくら花」が引かれている>

大和魂:(一)「大和心」の(一)に同じ。また、日本の学問。日本学。<池田注/用例として「源氏物語」少女の巻が引かれている>

(二)偉大なる精神。確乎たる意思。厳然たる強直の念。不撓の耐忍力。皇国人の廉直勇猛。国民上の精神。かみのみち。「大和心」の(二)に同じ。日本胆。<池田注/用例として「神道学則」が引かれている>

次いで、『広辞苑』にはこう言われていた。

大和魂:①漢才すなわち学問上の知識に対して、実生活上の知恵・才能。和魂。<池田注/用例として「源氏物語」少女の巻が引かれている>

②日本民族固有の精神。勇猛で潔いのが特性とされる。<池田注/用例として「椿説弓張月」が引かれている、「事に迫りて死を軽んずるは、大和魂成れど多くは慮(おもいはかり)の浅きに似て、学ばざるのあやまちなり」>

大和心:①「大和魂」①に同じ

②日本人の持つ、やさしく、やわらいだ心情。<池田注/用例として宣長の歌「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日ににほふ 山ざくら花」が引かれている>

次いで、『大辞林』にはこう言われていた。

大和魂:①大和心。和魂。(漢学を学んで得た知識に対して)日本人固有の実務・世事などを処理する能力・知恵をいう。<池田注/用例として「源氏物語」乙女の巻、「今昔物語」巻二十九が引かれている>

②[近世以降の国粋思想の中で用いられた語]日本民族固有の精神。日本人としての意識。

大和心:「大和魂」①に同じ。

次いで、『精選版 日本国語大辞典』にはこう言われていた。

大和魂:①「ざえ(漢才)」に対して、日本人固有の知恵・才覚または思慮分別をいう。学問・知識に対する実務的な、あるいは実生活上の才知、能力。やまとごころ。やまとこころばえ。<池田注/用例として「源氏物語」少女の巻が引かれている>

②日本民族固有の気概あるいは精神。「朝日ににおう山桜花」にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された。やまとだま。やまとぎも。<池田注/用例として「椿説弓張月」が引かれている、『広辞苑』の項に同じ>

大和心:①「大和魂」①に同じ。

②やさしくやわらいだ心、優美で柔和な心情。

 

こうして我が国の代表的な国語辞書で辿ってみるかぎり、「大和魂は才に対する言葉で、才が学んで得た智識に関係するに対し、大和魂の方はこれを働かす知慧に関係すると言ってよさそうである」と小林氏の言う「大和魂」の意味合は、基本的にはいまもきちんと受け継がれているようである。

だが、「大和魂」のこういう基本的含意が、今日の私たちにはすぐにはしっくりこないというのは、各辞書が記す他の一面の語意、『言海』では「日本人に固有なる気節の心。外国の侮を禦ぎ、皇国の国光を発揚する精神」、『大言海』では「皇国人の廉直勇猛。国民上の精神。我が日本国民の固有する忠君、愛国、尚武、廉潔、義侠の精神。日本の国体を本位として、外国の侮を禦ぎ、皇国の国光を発揚する精神の活動。またわが国の道徳の精華」、『広辞苑』では「日本民族固有の精神。勇猛で潔いのが特性とされる」、『大辞林』では「[近世以降の国粋思想の中で用いられた語]日本民族固有の精神。日本人としての意識」、『精選 日本国語大辞典』では「日本民族固有の気概あるいは精神。『朝日ににおう山桜花』にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された」等々を、今なお私たちが引きずっているからであろう。それらが本来の含意にかぶり、本来の含意を見てとりにくくするからであろう。

むろん、戦後に義務教育を受け、今日の日本人の大半を占めるに至っている世代に、上述のような近言の「大和魂」意識はほとんどないと言っていいだろうが、先ほども述べたように、プロ、アマを問わずスポーツ選手の口からはしばしば「大和魂」という言葉が聞こえてくる。そういうときの「大和魂」には、暗黙のうちにも『広辞苑』に言われている「日本民族固有の精神。勇猛で潔いのが特性とされる」か、『精選 日本国語大辞典』に言われている「日本民族固有の気概あるいは精神。『朝日ににおう山桜花』にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう」が影を落としていて、どちらかと言えば宣長のような「衛り」の「大和魂」ではなく、篤胤以来の「攻め」の「大和魂」になっている。

しかも、近言の「大和魂」には、大和民族、日本国家、といった、近代の天皇制下で生まれた国民統御のイデオロギーがバックボーンとなっている。たしかに小林氏も、宣長の言う「やまとだましひ」とは、「神代上代の、もろもろの事跡のうへに備はりた」る「皇国の道」「人の道」を体した心という意味である、彼は、「やまとだましひ」という言葉の意味を、そこまで育て上げた、と言っているが、ここで言われている「皇国の道」「人の道」は、近代の天皇制下で言われた意味合とはまるでちがうということを何よりも先に念頭におかなければならない。近代の「皇国の道」は、為政者たちが国民を御するために編み出し、国民を縛った集団的道徳律だが、宣長が言った「皇国の道」「人の道」は、日本に生れて日本で生きる私たちは、この日本で日本人としてどう生きれば生きたと言えるのか、そこが祖先の事跡として具体的に語り継がれている歴史、という意味である。そしてその歴史のなかでもこれぞという生き方の心構えを端的に言った言葉、それが「やまとだましひ」であると宣長は言うのである。

 

今回の考察は「大和魂」に留め、「大和心」は次回とする、が、今回、ここでこれだけは言っておかなければならないことがある。

『精選版 日本国語大辞典』に、「大和魂」の②として、「日本民族固有の気概あるいは精神。『朝日ににおう山桜花』にたとえられ、清浄にして果敢で、事に当たっては身命をも惜しまないなどの心情をいう。天皇制における国粋主義思想の、とりわけ軍国主義思想のもとで喧伝された」とあるが、ここで言われている「大和魂」を『朝日ににおう山桜花』に譬えたのは旧日本軍の軍国思想であって、宣長の歌「しきしまの 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花」は近代の「大和魂」とも国粋思想とも無関係に詠まれ、宣長六十一歳の自画自賛像に書かれているだけである。詳しくは次回に記す。

 

(第三十三回 了)