小林秀雄の「ベエトオヴェン」(承前)

杉本 圭司

眩い円光から放射状に光を放つ金色の阿弥陀如来が飛雲に乗り、同じく金色に彩られた二十五体の菩薩群を従えながら、急峻な山岳を一気にすべり降りるかのように画面左上の山上から斜め四十五度の角度で急降下する。弥陀の足下には険しい山塊が切り立ち、その峡谷を川が流れ滝が落ち、満開の桜と思しき木々が山間の其方此方に点景されている。流れ渦巻く雲の上では菩薩たちが、笙、箏、琵琶を奏で、舞を舞っているが、飛雲の先鋒となって蓮台を捧げ跪く観音菩薩は、その先の屋形内に端座する一人の念仏行者を、今まさに迎え入れようとしている

嘗て小林秀雄が坂本忠雄氏に、ベートーヴェンの晩年の作品、あれは「早来迎」だと語った時、小林秀雄は、知恩院所蔵のこの「阿弥陀二十五菩薩来迎図」を思い浮かべていたに違いない、と、私はこの講話の冒頭でお話しした。ところがそのことをまた坂本忠雄氏も直覚されていたのではないかという事実に、迂闊ながら、そして大変遺憾なことながら、氏が亡くなられた後になってはじめて気がついた。まず小林秀雄のこの言葉が最初に活字になったのは、前にも述べた高橋英夫氏の「疾走するモーツァルト」であるが、その終章で、高橋氏は坂本氏とのやり取りを次のように伝えている。

 

「(S氏)西洋人には、時々ああいうすごいのが出るのだ、とおっしゃってたですね(杉本注:小林秀雄がベートーヴェンを『通俗の天才』だと評したことを踏まえての発言)。また、それとどうつながるのか咄嗟には分かりませんが、ベートーヴェンの晩年の作品について、あれは『早来迎』だ、と言われたのを憶えてます。どういうことなのか、折口信夫の『死者の書』にえがかれている阿弥陀仏の山越しの『来迎』なんかをすぐ連想するわけですが、それは『来迎』ですね。『早来迎』という言葉もあるのでしょうか」

「(高橋)初めて聞きましたが、きっとあるのでしょうね。つまり何か決定的な来迎の一瞬が予告的に、迅速に発現するというのでしょうか」

「(S氏)ただ、晩年のベートーヴェンが焦っている、というニュアンスの発言ではなかったですね」

 

この文章が発表されたのは「新潮」昭和六十一年六月号で、小林秀雄が亡くなった三年後である。この時には、坂本氏にも高橋氏にも「早来迎」の具体的なモデルはなかったようだ。

しかしそれから二十七年経った二〇一三年、小林秀雄の没後三十年にあたる年の「芸術新潮」二月号に、坂本氏は「初めに音楽ありき 小林さんと聴いたクラシック」という一文を寄せ、この「早来迎」についてあらためて自ら書き記した。ここでも氏は、小林秀雄が「ベートーヴェンは通俗の天才だ」と語ったことに感銘したことを言い、続けて次のように書いている。

 

また晩年の小林さんは「ベートーヴェンは終りになるとテンポがしだいに早くなる。早来迎だよ」とも言っていた。ベートーヴェンが死を見据えながら紡ぎ出した最晩年の曲を、如来と聖衆が雲の尾を長く引いて、死を前にした人間を急いで迎えに来る図に比する自在さには驚いた。

 

「ベートーヴェンは終りになるとテンポがしだいに早くなる」とは、ベートーヴェンの楽曲構造の特徴として言ったものなのか、それともこの作曲家の生涯の「終わりになると」の意味で、つまり晩年のベートーヴェンの音楽の特徴として言ったのか、仮に前者として捉えれば、全曲が終楽章に向かって、あるいは終楽章のコーダに向かって「しだいに早くなる」のはベートーヴェンの初期から後期に至るまでの多くの作品に見られる特徴であり、その傾向はむしろ若い頃の音楽の方が強いとも言える。一方、後者の意味であったとしても、後期の音楽が前期の音楽よりもテンポが速くなっているということはなく、これも敢えて言うなら逆と言った方がいいかもしれない。しかし坂本氏は、この小林秀雄の言葉を「ベートーヴェンが死を見据えながら紡ぎ出した最晩年の曲」に対する言葉として受け取り、その「早来迎」を「如来と聖衆が雲の尾を長く引いて、死を前にした人間を急いで迎えに来る図」と表現した。このときも氏は、折口信夫の「死者の書」のモチーフにもなった「山越阿弥陀図」を連想していたのか、あるいは他の来迎図のイメージが脳裡にあったのか、今となっては確かめるすべはない。ただ昨年の春、この講話の第一回を氏にお送りした時、お返事を頂き、そこには「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は何れ誰かが書かねばならぬテーマであること、それを先生の「早来迎」から書き始め、知恩院の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」だと具体的に言われたことに感銘した、と書いてくださっていたから、上掲の一節を書いたときには、氏には知恩院の「早来迎」のイメージはなかったものと思われた。

ところが先般、氏の訃報に接し、あらためてこの一文を読み返していたところ、「如来と聖衆が雲の尾を長く引いて、死を前にした人間を急いで迎えに来る図」という一節が、知恩院の「早来迎」を示唆する以外の何物でもないように思われて来た。少なくともそれは、「山越阿弥陀図」よりも知恩院の来迎図のイメージに近い。そう思わせた所以は、氏が書かれた「雲の尾を長く引いて」という描写もさることながら(ただし弥陀や菩薩が乗る飛雲の棚引く様子そのものは、たとえば折口信夫が「山越しの阿弥陀像の画因」で称賛した禅林寺の「山越阿弥陀図」などにも見える)、何よりも「死を前にした人間を急いで迎えに来る」というその来迎の速度感の表現にあった。おそらく氏は、それを知恩院の「早来迎」というモデルを介さずに小林秀雄の言葉から直接感知していたに違いない。さらに言えば、それはすでに「疾走するモーツァルト」で高橋英夫氏が言われた「何か決定的な来迎の一瞬が予告的に、迅速に発現する」というイメージによって示唆されていたものでもあった。それがはじめて、知恩院の「早来迎」という現実の図像と結びついたことで、氏の中に「感銘」が生じたということであったのだろう。ちなみに氏からの手紙には「非常に具体的に」と書かれていたのだが、氏にとって具体的だったのは私の論ではなく「阿弥陀二十五菩薩来迎図」のvisionそのものであったのだ。

もともと「観無量寿経」には、阿弥陀仏と観世音・大勢至の二菩薩が多くの従者を引き連れて念仏行者のもとに現れ、来迎を告げるやいなや、あっという間に極楽浄土へ往生させる様が説かれている。その往生の「早さ」をもっとも見事に視覚化したのが、知恩院の「阿弥陀二十五菩薩来迎図」なのであり、それが数ある来迎図の中でこの図が「早来迎」の名で親しまれるようになった所以でもあった。その「早来迎」を、小林秀雄は晩年のベートーヴェンの音楽に聞き取っていたのである。「ベートーヴェンは終りになるとテンポがしだいに早くなる」と語られたその「テンポ」とは、したがって、ベートーヴェンの音楽における単に物理的な(ということはまた、という意味でもあるが)「テンポがしだいに早くなる」様だけを言ったわけではなかっただろう。晩年のベートーヴェンの音楽が、往生を願う者を救う、その救助の「早さ」を言ったということであっただろう。

一方、八十歳のゲーテを震駭させた「壮年期のベエトオヴェンの音楽」は、この作曲家が三十七歳から三十八歳の年にかけて書いたシンフォニーであった。その最終楽章は、文字通り「終りになるとテンポがしだいに早くなる」音楽の最たるものである。天馬空を行くが如きアレグロで疾駆するその楽章は、コーダにおいてはプレストとなり、凄まじい勢いで加速しながらハ長調の堂々たるカデンツをもって幕を下ろす。この「終り」もまた、ある種の自己救助の音楽であり、往生を遂げた者の音楽であると言って間違いではないだろう。それはあの「運命の動機」によって開始される嵐のような第一楽章、「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」というこの作曲家の「宿命の主調低音」に対する一つの解決であり、言わばその「運命の喉首を締め上げてみせた」結果勝ち取られた勝利の凱歌であった。ここでもベートーヴェンは、自分の撒いた種をたしかに刈り取ったと言える。しかし小林秀雄が「モオツァルト」の第一章に挿入した一行―「彼が晩年、どんな孤独な道に分け入り、どんな具合に己れを救助したかに就いて、恐らくゲエテは全く無関心であった」というその「孤独」と「救助」―小林秀雄の「ベエトオヴェン」においてはもっとも関心が深かったはずのそれは、この作曲家が第五シンフォニーにおいて辿り、成就したものとは決定的に「具合」の異なるものであった。それはあくまでも、ベートーヴェンが「晩年」になってはじめて分け入り、成し遂げたところのものであったのだ。

小林秀雄がベートーヴェンの晩年の作品を「早来迎」だと語ったことについては、実はもう一人、証言者がいる。大江健三郎である。小林秀雄が亡くなった時の「新潮」追悼記念号に寄せた一文で、大江氏は、「小林氏はベートーベンの後期のソナタの最終楽章は、みな『来迎図』のようだ、といわれた」と記しているのだ(「『運動』のカテゴリー」)。大江氏は「早来迎」ではなく「来迎図」と書いている。しかし大江氏が回想しているのは、他ならぬ坂本忠雄氏とともに小林邸を訪れたときのエピソードなのである。坂本氏は、小林秀雄とはベートーヴェンの器楽曲をよく一緒に聴いたと回想していたが(「小林秀雄と河上徹太郎」)、このときも、小林秀雄は自宅のステレオ装置でソロモンの弾いたベートーヴェンのピアノ・ソナタのレコードを大江氏に聞かせたという。無論、それは「後期のソナタ」であっただろう。そして坂本氏が小林秀雄から「あれは『早来迎』だ」と聞いたというのも、おそらくはこの時だったに違いない。ということはまた、小林秀雄が氏に語った「ベートーヴェンは終りになるとテンポがしだいに早くなる」というその「終り」は、「後期のソナタの最終楽章」のことだったということになる。

「後期のソナタ」とは、一般にはベートーヴェンが四十五歳から五十二歳になる年までに作曲した作品一〇一、一〇六、一〇九、一一〇、一一一の五つのピアノ・ソナタを指す。しかし「来迎図のような最終楽章」を持つ後期のソナタということになれば、それは五つのソナタの中でも特に作品一〇九、一一〇、一一一の最後の三つのソナタということになるだろう。この三曲は、いずれも「ミサ・ソレムニス」という大作の作曲の狭間に生み落とされたもので、後期五曲のかけ替えのない星座の中でも、さらにもう一つの、最奥の星座を形成するソナタ群である。そのうち作品一〇九と一一一の終楽章は、ベートーヴェンが若い頃から得意にした変奏曲で書かれており、一方、作品一一〇は長い助奏を持つフーガである。これらの「最終楽章」は、いずれも第五シンフォニーのようなアレグロあるいはプレストで邁進する勇ましい音楽ではない。アンダンテあるいはアダージョを基調とする緩徐楽章である。しかもその静謐な音楽の歩みの中で、「終りになるとテンポがしだいに早くなる」のである。

小林秀雄が坂本忠雄氏に語った「早」さの秘密は、これら三つの「最終楽章」を聴くことによって明らかとなる。その「孤独」と「救助」の実相は、第五シンフォニーの最終楽章におけるそれとは確かに「具合」の異なるものであった。これらのソナタにおいては、「孤独」はもはや嘆かれるべきものでも、そこからの脱出を試みるべきものでも、これと闘って打ち克つべき相手でもない。言わば「孤独」であるという厳然たる人間的事実の真率な承引が、同時に自己以外の人間存在の全的な容認ともなり、それが自ずと自己自身の最善の「救助」となるような、どこまでも澄んだ、優しい、開かれた救いの歌として歌われるのである。それは「人生の無常迅速よりいつも少しばかり無常迅速でなければなかった」(「モオツァルト」)作曲家のあの「かなしさ」と同じく「早」いのだが、そしてまた同様「涙の裡に玩弄するには美しすぎる」のだが、その「早」さと「美」しさは、決して僕らを置き去りにして先に行きはしない。金色の阿弥陀如来が飛雲に乗って山上から降り来たり、僕らの「涙」を拭って一瞬のうちに往生させるように、僕らの全身全霊を包摂しながらあっという間に彼方へと連れ去ってしまう。その彼方が何処なのかは、おそらく誰も知らない。しかしこの「早来迎」が、人間には「人生の無常迅速」を超える力が確かにあるという事実を僕らに知らしめ、証明する音楽であることは確かなのではあるまいか。

勿論、このベートーヴェン晩年の「孤独」と「救助」は、この最後の三つのソナタの最終楽章だけに現れるものではなく、たとえば作品一〇九のヴィヴァーチェにも、一一〇のモデラート・カンタービレにも、あるいは一〇六、「ハンマークラヴィーア・ソナタ」の巨大なアダージョ楽章にも見出せるものである。さらに言えば、後期のピアノ・ソナタ群の後に書かれた、この作曲家最晩年の弦楽四重奏曲群にも聞き取ることができるはずのものである。敢えてそれをどの曲のどの楽章と特定する必要はないのかもしれない。それよりも「後期のソナタ」の全体が、あるいはベートーヴェンの晩年の音楽の全容が、一つの来迎を告げる音楽なのだと考える方が自然かもしれない。

しかし私は、この講話の冒頭でお話しした通り、小林秀雄が「あれは『早来迎』だ」と語った音楽を、敢えて一曲のピアノ・ソナタに限定しようと思うのである。それは、第五シンフォニーの最終楽章と同じく、ハ長調の調べをもって救助されるソナタであったと。すなわち小林秀雄が語った「早来迎」とは、ベートーヴェンの三十二曲のピアノ・ソナタの最後を締め括る、あの長大な変奏曲、アダージョ・モルト・センプリーチェ・エ・カンタービレであったと私は思う。この不世出の批評家が、もしも「ベエトオヴェン」を書いたとしたら、彼はおそらくこの一曲を選択し、「モオツァルト」にト短調クインテットのアレグロ主題を掲げたように、その最終楽章のアリエッタ主題を掲げたに違いない。そしてこの最後のピアノ・ソナタの最終楽章が「早来迎」であることの真の所以は、何よりもそれが、調ための最終楽章であるところにあったと思うのだ。

そのことを予感したのは、しかし私だけではなかった。坂本忠雄氏もまた、小林秀雄が語った「早来迎」をこのソナタの裡に見出していた。先に引用した「初めに音楽ありき」の一節に続けて、氏もまた書いている、「私は、永年愛聴する二楽章しかなく、緩急が自在に交錯する最後のピアノ・ソナタ第三十二番にもそれを感得する」と。

(つづく)

 

 

※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものである。