風変りな葬式

松広 一良

「本居宣長」第一章で、小林秀雄氏は、宣長の葬式について「葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく、……」と記している。「葬式が少々風変りな事」については確かに頷ける。しかし「そうなるより他なりようがなかった」とみなすことができる「彼が到達した思想」とは何を指すのか、「彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかった」と記したのは何故なのか、この二点を明らかにしたいというのが本稿の趣旨である。

 

確かに宣長が指示した葬式は風変りである。宣長は樹敬寺と妙楽寺の両方に墓を設けることとしたが、これは「両墓制」と呼ばれ、当時の風習からしても不自然ではない。単に埋葬用と墓詣り用に分けるためだった。しかし両墓制と言えども宣長のように、樹敬寺の詣り墓は仏式で、妙楽寺の埋め墓は神道式でというのは当時も珍しかったのではないか。また宣長は「他所他国之人」に対しては妙楽寺の方を案内せよと記している。「他所他国之人」は埋め墓に詣ってくれということであり、それは埋め墓の趣旨とは異なる。そして何より風変りな点は妙楽寺に遺骸をいれた棺を夜中に密かに送り届けるように指示した点である。樹敬寺経由で妙楽寺に送り届けるのならまだしも、何故直接、しかも夜中に密かに妙楽寺なのか、何故樹敬寺へは空送カラダビなのか、これらは奉行所ならずとも抱く疑問であり、奉行所も「申披六ケ敷まうしひらきむつかしき筋」と言わざるを得なかったのも当然である。直接妙楽寺ということを事前に奉行所に断っておけと遺言書にいれたことを考えると、宣長自身も了解が得られるだろうかと多少は不安に思っていたのだと思う。上述のような葬式に宣長は何故拘ったのだろうか。

 

おそらく宣長は、死後妙楽寺に直接行きたかった、樹敬寺を経由したくなかった、そういうことだろう。だから遺骸をいれた棺を直接妙楽寺に送り届けるように指示し、然も樹敬寺を経由しなかったことを人目に触れさせたくなかったのだ。そして本居家およびその親戚筋、近隣の人々、あるいは宣長の思想に賛同しない人たち、もしくは理解できない人たちには葬式に参列しても違和感なく見送ってもらい、その人たちの墓詣りは樹敬寺に行ってもらうこととしたのだろう。宣長も本居家の一員として対外的にそのように配慮したのだが、それは宣長の性格が生来戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったためであろう。そして他所他国の人が遠路はるばるわざわざ詣ってくれるということは宣長の思想に少なくとも理解ある人であろうから、その人には妙楽寺の方に案内せよとしたのだろう。ではなぜ宣長は死後妙楽寺に行きたかったのだろうか。

 

それは宣長が死後の世界に行くにあたり「安心なきが安心」とも言うべき「真実の神道の安心」を得た上で行くことにしたからだった。これが「彼が到達した思想」を成すものの第一のポイントと思われる。「真実の神道の安心」を得た上で死後の世界に行くことにしたために妙楽寺の埋め墓の墓石は頭が四角錐状にとがった神道独特の形にして、しかも墓碑の字は「本居宣長之奥津紀」とした。「奥津紀」は神道でよくみられる様式である。また霊牌を用意することとし、そこには後諡ノチノナ秋津彦美豆桜根大人アキツヒコミツサクラネノウシ」を記すように指示した。霊牌は仏教の位牌に相当する神道の呼称であり、「大人」とするのはこれも神道でよくみられる様式である。また後諡は仏教の戒名に相当する神道の呼称である。しかしながら宣長が死後の世界に行くにあたり「真実の神道の安心」を得た上で行くことにしたのはなぜだろうか。なお、宣長は、自分の妻は樹敬寺に葬る事として、妙楽寺の墓碑の字を本居家とはせず本居宣長とし、自分の一人だけの墓にしたのは何故かというのも謎なのだが、小林秀雄氏もこのことについては一切触れていない。

 

宣長が死後の世界に行くにあたり「真実の神道の安心」を得た上で行くことにしたのは「本居宣長」第五十章にあるように「物のあはれをしる」人間として「生死を観ずる道に踏み込んでいた」からと思われる。「死を目指し、死に至って止むまで歩きつづける、休む事のない生の足取りが、『可畏き物』として、一と目で見渡せる、そういう展望は、死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生が初めから共存している様が観じられて来なければ、完了しない」からだった。またかねてから「道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、『生死の安心』がおのずから決定して動かぬ、という事にならなければ」ならないと考えていたが、「これに就いての、はっきりした啓示を、『神世七代』が終るに当って、彼は得た」からだった。その啓示とは「人は人事ヒトノウヘを以て神代を議るを、我は神代を以て人事を知れり」だった。もっとも、以上述べたことだけを以て何故「葬式が少々風変りな事」になったのかを十全に説明することはできない。

 

「葬式が少々風変りな事」になったのは宣長自身、「『儒仏等の習気』は捨て」るべしと考えていたからであり、また「遺骸は、夜中密々、山室に送る」べしとする旨を遺言書で指示するほど遺骸の姿といえども自ら仏式に近づきたくない、「漢意に溺れ」てはいけないという強い思いがあったからと考えられる。こうした「『漢意』の排斥」が上述の「彼が到達した思想」を成すものの第二のポイントと思われ、宣長にとって「儒仏等の習気」は捨てるべき対象であって、それだけ「真実の神道の安心」を得た上での葬式にすることを強く希望していたのだった。それは「本居宣長」第五十章にあるように上古においては「ただ死ぬればよみの国へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく、これを疑ふ人も候はず、理屈を考る人も候はざりし也、さて其よみの国は、きたなくあしき所に候へ共、死ぬれば必ゆかねばならぬ事に候故に、此世に死ぬるほどかなしき事は候はぬ也」ということだったのだが、宣長は「儒や仏は、さばかり至てかなしき事を、かなしむまじき事のやうに、いろいろと理屈を申すは、真実の道にあらざる事、明らけし」と考えていたからだった。

上述の「彼が到達した思想」を成すものの第一のポイントと第二のポイントを踏まえれば「葬式が少々風変りな事」は「そうなるより他なりようがなかった」と言わざるを得ないであろう。しかし、とくに「漢意」排斥の思想を奉行所に納得してもらうのは難しいはずだ。いくら「吾邦の大道」は「自然の神道」であり、儒仏とは無縁と言っても、だから遺骸をいれた棺を直接しかも夜中に密かに妙楽寺に、というのは何故なのか、何故樹敬寺へは空送なのかを説明することはできない。端的には「儒仏等の習気」は捨てるべきと考えているからなのだが、それなら樹敬寺に葬るのを止めたらいいではないかとなりそうであり、まさに「申披六ケ敷まうしひらきむつかしき筋」と言わざるを得ない事柄だった。

(了)