勝手にしやがれ

荻野 徹

いつもながら、『本居宣長』を片手におしゃべりをする四人の男女。今日は、どうだろう。

 

元気のいい娘(以下「娘」) 甥っ子がさ、保育所から帰ってきて、こんなこと言うんだ。「ユータにもバーバがいる」って。すごく驚いた様子なんだ。

凡庸な男(以下「男」) どういうこと。

娘 ゆうた君というのは、甥っ子の仲良しなんだけど、保育所で会うだけでしょ。甥っ子は、親が迎えに来てうちに帰れば、優しいばーばが待っている。で、うちにいる間は、ゆうた君のことは忘れちゃう。

男 小さいなりに、ゆうた君と、世間話みたいなことするようになったのかな。うちのばーばーがさあ、みたいな。

娘 ちょっとちがうんだ。甥っ子の知らないところでも、ゆうた君には家族がいて生活があるということに、驚いたみたいなんだ。

江戸紫が似合う女(以下「女」) ああ、そうか。ゆうた君は、甥っ子くんに見えている世界の登場人物、テレビの画面で動き回るけどスイッチを切れば消えてしまうアンパンマンみたいなものじゃなくて、自分と同じように、自分と関係なく、生きていることに気づいたということね。

生意気な青年(以下「青年」) 他者の発見ということだろうか。

女 さあ、どうかしら。でも、もう少し大きくなると、自分の見ている世界と、ほかの人が見ている世界が、本当に同じだろうかなんて、悩むというか、怖くなったりする時期もあるのよね。

男 でも、まあ、大人になると、他人のはらのうちなんか分りようもないけど、それは仕方がないことで、まあなるようになるだろうって思うようになる。

青年 呑み屋に行けばおっさんたちがわーわーしゃべってるけど、はたで聞いてると、同じ言葉を同じ意味で使っているとは限らないね。

娘 それでも、何か通じ合うものはあるんだよ。ボクらの女子トークでも、カワイイとヤバイが飛び交うだけみたいだけど、決してすれ違いじゃない。

女 小林秀雄先生も、こんな風におっしゃっているわね。「談話を交している当人達にとっては、解り切った事だが、話のうちに含まれて変わらぬ、その意味などというものはありはしないので、語り手の語りよう、聞き手の聞きようで、語の意味は変化して止まないであろう。私達の間を結んでいる、言語による表現と理解との生きた関係というものは、まさしくそういうものであり、この不安定な関係を、不都合とは誰も決して考えていないのが普通である」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集268頁)。

青年 不安定な関係か。なるほどね。日頃眼にする光景なんかでも、たとえば、雨雲の不気味な感じとか、誰かがつまずいたときの身体の奇妙な動きとか,言葉で表現するのは難しいよね。そのときどきの自分自身の思いだって、ピッタリとした言葉が見付かるわけじゃない。

女 でも、言葉ぬきに、目の前の出来事を理解したり、自分の気持ちを自覚したりすることはできないでしょう。

男 だからそこは妥協してんだよ。当たらずと言えども遠からず、持ち合わせの言葉で間に合わせるしかない。みんなが詩人になれるわけではなし。

女 そうかしら。身振り手振り、表情や声色,間の取り方などで,相手に伝わる中身は,千変万化じゃなくて? もちろん、話し手と聞き手の間にずれはありますわ。でも通じるの。小林先生は、「その全く個人的な語感を、互いに交換し合い、即座に翻訳し合うという離れわざを、われ知らず楽しんでいるのが、私達の尋常な談話であろう。そういう事になっていると言うのも、国語と言うおおきな原文の、おおきな意味構造が、私達の心を養って来たからであろう。養われて、私達は、暗黙のうちに、相互の合意や信頼に達している」と書かれている(同上)。

娘 でも、ずれはあるから、同じ言葉にいろんな意味が詰め込まれ、変化するんだね。

男 言葉は便利な道具だから,みんな工夫して使う。連想ゲームのような,物のたとえとして言葉を使い,それが,広く受けいれられれば,新しい意味を持つようになるんじゃないかな。顔にある「くち」という言葉は、きっと原始のころからあったんだと思うけど、土器を作るようになれば、瓶の口という言い方が出て来る、物事の始めと言う意味で、口火を切るなんて言い方も生まれる。まあ、全部勝手な想像だけどね。こんなふうにして,言葉が新しい意味を帯びるようになる。

青年 転義ということだね。

娘 小林先生も書いてるよね、「古事記」の訓詁をするに際し、「宣長が着目したのは、古言の本義よりもむしろその転義だった」って(同上271頁)。

青年 ちょっと不思議な感じがする。「古事記」が書かれた当時の、あるいは、天武天皇が稗田阿礼に語り聞かせた当時の言葉の使い方を、スナップショットを撮るみたいに再現できれば、それがベストだろうに。

女 小林先生は、その辺りの宣長さんの考え方を、「古言は、どんな対象を新たに見附けて、どのように転義し、立直るか、その現在の生きた働き方の中に、言葉の過去を映し出して見る人が、言語の伝統を、みずから味わえる人だ。そういう考えなのだ」(同上)と書かれているわ。

男 考古学者が遺跡を発掘し、出土品を吟味するようなやり方で、文字として記録されていない頃の言葉の意味を探求しても、実りはないということかな。

娘 だから、宣長さんは、「国語というおおきな原文の、おおきな意味構造」に期待を寄せたんだろうね。

男 小林先生は、「言葉の生き死にとは、私達の内部の出来事であり、それは、死んで生まれ変るという風に言葉を用いて来た私達の言語活動の歴史である」と書かれているね(同上270頁)。

女 言葉って、普段何気なく使っているけれど、長い時間の経過の中で、人々の生活と相連れ添って、様々に変化していき、その積み重なりのようなものが凝縮している。宣長さんは、きっと、古言が、どのような生き死にを繰り返して今に至ったか、逆に振り返ってみようとしたのですわ。

娘 振り返るの?

女 それは、たぶん、「人間経験の多様性を、どこまで己の内部に再生して、これを味うことが出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみる」(同上351頁)ということじゃないかしら?

娘 味わうことが出来るかどうか、ここが大事なんだね。

女 そうね。言葉と人々は、そういう関係にある。人々の生活が時とともに変化するように、言葉も姿を変える。でも、人間のそもそもの在り様にも、言葉という巨大な構造体にも、原始以来変わらぬものがある。だから、分る人には分かる、古人の声が聞こえてくるはずだ、このようにして古意を得るに至るのだ。こういうことじゃなくて?

男 それが、先生のおっしゃる「古人が生きた経験を、現在の自分の心のうちに迎え入れて、これを生きてみる」(同上350頁)ということなんだね。

娘 そうすることによって、「過去の姿が歪められず、そのまま自分の現在の関心のうちに蘇って来ると、これは、おのずから新しい意味を帯びる、そういう歴史伝統の構造を確める事が、宣長にとって『古へを明らめる』という事であった」(同上第350頁)というわけか。

青年 でも、過去の姿を歪めてないなんて、そんなこと言えるの?

女 それはむずかしいわ。

娘 無私ということかな。

青年 それもさあ、私は無私であるなんて主張自体が、なんか矛盾をはらんでるよ。

男 それで、よくいう主観的な解釈ってことになってしまう。やはり、客観性というものが必要だよ。

女 そうかしら。客観的というのは、尺度が自分勝手ではないということでしょう。その限りで、主観的ではない。多くの場合、社会的な、あるいは一定の専門家集団の中での、共通理解とでも言うのかな、ある種の通念を尺度としている。私達の日常生活の大半は、それで事足りているんだけど、宣長さんが取り組んだような、「古事記」の訓詁みたいな世界は大違いね。

青年 なんで? 宣長さんのやったことも、学問なのでしょう?

女 共通理解として承認された尺度を当てはめることに際し、個々の事物や事象が帯びている微細で偶発的な差異は、理論上の意味がないものとして捨象される。そういう学問も、人類の大切な知的財産ですわ。でも、歴史はどうかしら。大昔の人でも、与えられた状況の下、その人なりの決断で事に処していたわけでしょう。いまふうにいえば、自由な行動の主体なのですわ。宣長さんの「古事記」の訓詁は、古人の生活や感情を再現しようとする学問だった。だからこそ、客観的な尺度なんかに頼れなかった。

男 歴史なんてのは、実験できるわけじゃないし、再現性のある事象を扱ってるのではないから、自然科学で言うような客観性とは異質なのはわかる。でもなんか釈然としないなあ。

女 そうね。難しいわ。さっき、小林先生の、人間経験の多様性を己の内部に再生してこれを味わうという部分を引用したけれど、そういう作業を進めれば、自分は、或るものに共感するが他の或るものにはそうではない、というように、自分の個性と言うか、限界が見えて来る。こういう作業を繰り返し、突き詰めていけば、我がこととして語れるのはこれだと言えるような域に達する、こういうことかしら?

娘 我がこととして?

女 そう。対象を分析評価して結論を導くのではなく、思い出が記憶の奥底から浮かび上がって来るみたいに、何かが見えて来る。それを我がこととして語る。

男 そういえば、先生は、別のところで、「思い出すという心法のないところに歴史はない。それは、思い出すという心法が作り上げる像、想像裡に描き出す絵である。各人によって、思い出す上手下手はあるだろう。しかし、気儘きまま勝手に思い出す事は、誰にも出来はしない」と書かれている(同上117頁)。

青年 でも、思い出す心法というのも、よく分からない。各人の想像理に描き出すなら、気儘勝手なものに決まってる。

女 そういう心法がどんなものなのか、私にもよく分かりませんわ。ただ、宣長さんは、ことばこころを別々には考えなかった。何か言いたいことがあって、それを表現するために一定の文字列を対応させるルールがあり、その文字列が詞だ、とは考えていない。その詞の姿かたち自体に、意味内容が宿っているのね。そして、国語という巨大な意味構造も、一つ一つの言葉が背負っている転義の歴史も、個々の人間では、どうにも動かしようがないものでしょう。その上で、詞に向かい合うわけだから……

青年 なるほど、気儘勝手というのは言いすぎかな。でも、そこから先はどうだろう。思い出す上手下手っておっしゃるけど、僕らはどう考えればいいのさ?

女 そうね、とっても難しい。もっと、先生のご本に向かい合わないと、いけないわ。

男 下手な考え休むに似たり、なんちゃって。

娘 ケッ、勝手にしやがれ。

 

四人のおしゃべりは、とりとめもなく続いていく。

(了)