かなしみの淵で一つの眼が開く

鈴木 美紀

初春に、ずっと一緒に学んできた大切な仲間の、あまりにも突然な訃報が届いた。まず絶句し、何とも言えぬもどかしい気持ちの中で、不意に思いだしたのが小林秀雄先生の「本居宣長」第七章に出てくる在原業平の歌であった。

 

終にゆく みちとはかねて 聞かしかど きのふけふとは 思はざしりを

 

亡くなった当の本人が一番びっくりであったと思うが、業平と同じようなことを思う時間は、はたしてあったのだろうか、それすらも許されずに、あっという間に逝ってしまったのだろうか。兎に角やるせなかった。そんな中で、業平の歌は、素直に何度も繰り返し眺められた。歌という研ぎ澄まされた言葉の塊があることが、ありがたかった。「今はとあらん時だに、心のまことにかへれかし。業平は、一生のまこと、此歌にあらはれ」ている、と「本居宣長」にあるが、心底、そのとおりだと思った。実生活の悲しい経験が、「本居宣長」への感度を明らかに深めていることに驚いている。

 

昨年は、塾内では質問として実を結ばなかったものの、第五十章を中心に読んでいた。

 

―「神世七代」の伝説ツタヘゴトを、その語られ方に即して、仔細に見てゆくと、これは、普通に、神々の代々の歴史的な経過が語られているもの、と受取るわけにはいかない。むしろ、「天地アメツチ初発ハジメの時」と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている、宣長は、そう解した。では、彼は何を見たか。「神代七代」が描き出している、その主題のカタチである。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映ったのである。

 

「神世七代」が一幅の絵と見える宣長の眼が、ずっと気になっていたわけであるが、業平の歌が思い出されたことにより、その周囲を再読すると、今度は、宣長が契沖について「大明眼」という言葉を使っていたことが気になってくる。業平の歌は、京都留学中の宣長が契沖の著作に出会って驚き、抄写したという「勢語臆断」の抜粋にある。そして、その抜粋の次の文章におのずと目が行く。

 

―契沖は、「狂言綺語」は「俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候」と註してもよかったであろう。宣長は、晩年、青年時の感動を想い、右の契沖の一文を引用し、「ほうしのことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」(「玉かつま」五の巻)と註した。宣長の言う契沖の「大明眼」という言葉は、実は、「やまとだましひなる人」という意味であったと、私は先まわりして、言う積もりではないが、この言葉の、宣長の言う「本意」「意味ノフカキ処」では、契沖の基本的な思想、即ち歌学は俗中の真である、学問の真を、あらぬ辺りに求める要はいらぬ、俗中の俗を払えば足りる、という思想が、はっきり宣長に感得されていたと考えたい。(第七章)

 

「大明眼」と「やまとだましひなる人」のことを、敢えてここで一緒に書いてあることに、はっとする。そして、「大明眼」を取り掛かりにすると、また幾つも抜粋したくなる箇所がでてくる。

 

―ところで、彼(筆者注;宣長)が契沖の「大明眼」と言うのは、どういうものであったか。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受け取れば、古歌や古書には、その「本来の面目」がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、或る種の直覚を要求している言葉のように思われる。(第六章)

―彼は、ここでも、「他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、深浅の異なるもの」と言えた筈だろう。自分は、ただ、出来上った契沖の学問を、他のうえにて思い、これをもどこうとしたのではない。発明者の「大明眼」を「みづからの事にて思」い、「やすらかに見る」みずからの眼を得たのである、と。(同)

―宣長の古典研究の眼目は、古歌古書を「我物」にする事、その為の「見やう、心の用ひやう」にあった。(同)

 

第六・七章の契沖の話に続き、第八章には中江藤樹の話が続く。藤樹の学問に対する態度として心法という言葉が出てくるが、それを受けての次にあげるいくつかの部分も気になる。

 

―書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ、彼等の言う心法という言葉の意味合はわからない。彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎は「語孟」を、契沖は「万葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「万葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。(第九章)

 

―尋常の読者として、何故彼が、特に「郷党篇」を読んで「大ニ感得触発」するところがあったか想ってみると、この著作は彼の心法の顕著な実例と映じて来る。「学而」から「郷党」に至る、主として孔子自身の言葉を活写している所謂「上論語」のうちで、普通に読めば、「郷党」は難解と言うよりも一番退屈な篇だ。と言うのは、孔子は、「郷党」になると、まるで口を利かなくなって了う。写されているのは、孔子の行動というより日常生活の、当時の儀礼に従った細かな挙止だけである。孔子の日頃の立居ふるまいの一動一静を見守った弟子達の眼を得なければ、これはほとんど死文に近い。藤樹に言わせれば、「郷党」の「描画」するところは、孔子の「徳光之影迹」であり、これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある。「郷党」のこの本質的な難解に心を致さなければ、孔子の教説に躓くだろう。(第九章)

 

―「郷党」が、鮮かな孔子の肖像画として映じて来るのは、必ずこの種の苦し気な心法を通じてであると見ていい。絵は物を言わないが、色や線には何処にも曖昧なものはない。「此ニ於テ、宜シク無言ノ端的ヲ嘿識モクシキシ、コレヲ吾ガ心ニ体認スベシ」、藤樹は、自分が「感得触発」したその同じものが、即ち彼が「論語」の正解と信ずるものが、読者の心に生まれるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である。その為に有効と思われる手段は出来るだけ講ずる。「啓蒙」では、初学の為に、大意の掴み方について忠告し、「翼伝」では、専門的な時代考証を試みる。しかし、これら「聖」の観念に関する知的理解は、彼が読者に期待している当のもの、読者各自の心裏に映じて来る「聖像」に取って代わる事は出来ない。

私は、これを読んでいて、極めて自然に、「六経ハナホ画ノ猶シ、語孟ハナホ画法ノ猶シ」(「語孟字義」下巻)という、伊藤仁斎の言葉を思い出す。それと言うのも、藤樹が心法と呼びたかったものが、仁斎の学問の根幹をなしている事が、仁斎の著述の随所に窺われるからだ。(第九章)

 

第五十章の宣長の眼から、第六・七章の契沖の大明眼に飛び、第八・九章の藤樹の心法へと話は飛んだが、飛んではいても、繋がるものはある。我々が、「本居宣長」を十二年かけて読むことも、例えば一つには心法を練るためであろうことが見えてきた。「本居宣長」に対する信を新たにしょうとする苦心とも言えるか。苦心かどうかは分からないが、実感はある。「本居宣長」の文章は変わらないのに、読みはじめた頃には気にならなかった所が、すごく気になり、何度も読み返してしまう自分がいる。らせん階段を登るようにとか、石から彫刻を彫り出すようにとか、これまでも、色々な言葉で塾では語られてきたが、最終的には、個々の心裏に本居宣長像が映じて来ることが期待されている。期待されてはいるものの、生むのは我々個々の力量による。「論語」の「郷党」が鮮やかな孔子の肖像画として見える、「古事記」の神世七代が「天地の初発の時」と題する一幅の絵と見える、そういう眼に、今回思いが至ったことが、これからしばらくは、自分なりの一つの読み筋になると思っている。

 

(了)