小手前の安心と申すは無きことに候

村上 哲

「小手前の安心と申すは無きことに候」

小林秀雄著『本居宣長』全五十章、その最終章の口火を切った本居宣長のこの言葉は、宣長の門人達と共に、数多くの現代人を困惑させたことだろう。ということはつまり、ここで語られる宣長と門人達の答問は、現代の私達にとっても、決して他人事ではないということだ。

 

――門人に言わせれば、なるほど上ッ代の道は、結構なものだったとは理解出来るが、「小手前の安心と申すは無きこと」という真実は、今も猶動かぬ、という主張となれば、別問題であろう。そのような確信に、一体どういう次第を踏んで行き着けたのか、それが、まるで説かれていない以上、やはり、「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」という疑い心は、ぬぐえないと言うのである。そう訴えられてみれば、それももっともな事と思われ、さてどう説いたものか、という事になったわけだ。(小林秀雄「本居宣長」第五十章 新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集p.191より)

 

なるほど、「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」と疑う心は、人々が誰に言われるともなく備えている「人のまごころ」と言えようが、そこに明答を求めるとなれば、途端に話は込み入ったものになる。『本居宣長』においては、ここに話を踏み入れることで、古伝について宣長の到達した信念を浮き彫りにしていくのだが、私はここで、一度、明答を求めるこの態度自体を忘れてみたい。すなわち、「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」と問う「人のまごころ」、「その性質アル情状カタチ」を見定めてみたい。というのも、明答を求める、いや、物事に明答を得られるであろうという、学者流の態度を忘れることさえできれば、「小手前の安心と申すは無きこと」という真実は、さほど私達と縁遠いものではないように思われたからだ。

さて、この「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」と問う「人のまごころ」を見定めるにあたり、自らの身に直接降りかかる物事の上で見定めようとすると、少々話が難しくなる。というのも、自身に関する物事においては、実際に対処せねばならぬ以上、問いに明答が出ようが出まいが、自らの身の振るまいという答えを出さねばならない。この、実生活の上で不可避に案出させられる答えに眼を滑らせず、「人のまごころ」から生まれた問いを見定めるには、まさに、宣長の到達したような信念が必要となるだろう。

そこで、ここでは本来的に自分では対処できない、それでいて、ともすれば自分以上に我が事と思われるような身の上、すなわち、愛する人にかかわる物事に注目してみたい。特に、親が子に対するような心配をつぶさに眺めてみれば、「人々の小手前にとりての安心はいかゞ」と問う「人のまごころ」も、「小手前の安心と申すは無きことに候」という宣長の返答にならないような言葉も、鮮やかに見えてくるように思われるのだ。

例えば、息子が一流大学を出て一流企業に入ったとして、あるいは娘が裕福な家に嫁いだとして、親が我が子を本当に心配しなくなることなど、果たしてあり得るだろうか?

今時このような紋切り型の、時代錯誤とすら言える理想像を持つ人が多いとは思わないが、そのような理想の不在など、親の不安の源泉ではあるまい。子がどれだけ成功しようと、どれだけ安定した生活を得ようと、親は子を心配してしまうものだ。なるほど、それは時として、子や周囲からは杞憂と見えるものになるかもしれないが、杞憂という故事からして、解釈や教訓という「あるべき答え」を忘れ、その姿をつぶさに観察してみるなら、有り得ないことであっても憂いてしまうこの心のうごきこそ、「人のまごころ」のあり方ではないだろうか。

もちろん、対処のしようがない不安は杞憂として忘れてしまうのが「正解」だろう。杞憂にかかずらってばかりでは実生活が成り立たない。どころか、杞憂を晴らすことに専心してしまえば、それこそ実生活を壊すことになるだろう。

しかし、仮に不安を忘れることができたとて、不安が湧かなくなるわけではあるまい。人が人である限り、不安の種は尽きぬものだ。あえて生態学的な言い方をするなら、それは人という種が獲得した、変化する環境に対し未然に適応する余地を生み出す能力ですらあるだろう。もっとも、このような言い方も、「人のまごころ」「その性質アル情状カタチ」の一面に機能的な説明を与えればこうなるという一例を上げただけであり、当然ながら、宣長の見定めたところがそうであったということではない。

では、宣長の言う「小手前の安心と申すは無きことに候」とはどういうことなのだろうか。いや、発言の意味内容を問うことが、まずズレているのかもしれない。重要なのは、「小手前の安心と申すは無きことに候」と話す、宣長の態度だ。

 

「源氏物語」の注釈において、本居宣長という人は「物のあわれ」という言葉に注目したが、その眼目は、「物のあわれ」とは何かというより、むしろ「物のあわれを知る」ということに向いていた。そして、「物のあわれを深くしり給へる」源氏君の「かくれ給へる」を語らず、しかし黙さぬところに、「紫式部の、ふかく心をこめたる」を知り、「雲隠の巻」という、物語が行きつく姿を見た。

 

――物語の目的は、「其時代の風儀人情」を、有りのままに書き、その「あわれ」を伝える、という他にはないとする作者式部の心ばえを体して、源氏君は生きている(中略)それなら、宣長に残された問題は、一つだ、という言い方も出来るわけだ。何故、作者は、物語から主人公の死を、黙って省略して、事を済まさず、「雲隠の巻」というような、有って無きが如き表現を必要としたのか、と。言ってみれば、そういう問いを、宣長は解こうとはせず、この問いの姿に見入ったのである。(同、第28集p.197より)

 

「本居宣長」という学問は、ここに極まる。そう言いたくなるほど、この宣長の姿は私の目に焼き付いた。

現代において、いや、おそらく宣長の時代や、それこそ孔子や仏陀の時代にあっても、「問い」の「答え」と言えば、多くの人が「普遍的な答え」というものに魅かれてきただろう。もちろん、現実には各場面に合わせた個別の答えを出さねばならないが、それは場当たり的な、断片的答えに過ぎない、そう考えてしまう傾向に、心当たりはないだろうか。そして、究極の「普遍的な答え」を得たならば、それはあらゆる「問い」に答える、あるいは少なくとも答えられるようになる、そんな考えに魅了される人は、決して少なくないように見える。

しかし、宣長にとって、普遍的なのは「答え」よりもむしろ「問い」だったのではないだろうか。

もちろん、このような言い方がすでにして現代的であり、多分に語弊を含むであろうし、むしろ語弊があるということをこそ知っていただきたいが、宣長を魅了してやまぬのは、答えの瞭然性など全く知らぬところにたたずむ、ほどき難い「問いの姿」であった。

いらぬ誤解を招かぬよう言っておくが、宣長は答えてはならぬと言っているわけではない。答えを求めぬ問いなど、もはや問いではないだろう。しかし、万人があらゆる状況において頷ける「普遍的な答え」など、宣長の眼中にはなかったのではないだろうか。宣長はむしろ、人々が文字通り場に当たり考え出した答え、そして、人々に各々の答えを求めてやまぬような問いそのものにこそ、眼を引かれていたのかもしれない。私は、まさにこの意味合いにおいて、「問い」を普遍的と言いたくなってしまったのだ。

 

さて、「小手前の安心と申すは無きことに候」と言った宣長の姿に、話を戻したい。ここにもきっと、宣長のあの眼差しがあるのではないだろうか。

「小手前の安心と申すは無きことに候」と言っても、個別の不安を相談されたならば、宣長も相談者と共に、その不安に対応する術を考えただろう。しかし、こと不安一般をどうすればいいかと問われたならば、不安を発明する「人のまごころ」「その性質アル情状カタチ」という「物のあわれ」を知ることをこそ、重要と見ていたのではないだろうか。

これは、答えであって答えでない。むしろ問いかけだ。どうすれば安心が得られるかという答えを得ようとする前に、「小手前にとりての安心はいかゞ」という「疑い心」を、もっとじっくり、ながめてみよと言っているのだ。ながめ方は、宣長本人が散々説いてきているし、『本居宣長』第五十章に、「生死の安心」という「小手前にとりての安心」の極まるところをめぐって、古の人々がいかにしてその心をながめてきたのかが、つぶさに描かれている。それはまさに、我々はナニモノなのかという、太古に人が人となった時から、遥かな未来まで変わることのない問いかけだ。

 

子の心配をしないでいられる親は、もはやその子の親ではあるまい。「小手前にとりての安心はいかゞ」という「疑い心」を持たぬようになれるのならば、それは果たして人であるか?

 

(了)