「樣々なる意匠」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第1集所収)は昭和四年、小林秀雄氏が二十七歳の時に書いた、論壇デビュウ作である。百年近く前に書かれた作品といふことになるが、この文章が今日の我々に訴へかけることとは何であらうか。
タイトルにある「意匠」といふのは、普段聞き慣れない、難解な言葉である。「樣々なる意匠」で小林氏は、印象批評、マルクス主義、藝術の為の藝術、写実主義、象徴主義、新感覚派文学、大衆文藝を論じてゆくが、これらの主義、立場が意匠であるとはどういふことであるのか、今一つ腑に落ちない。
しかし、「樣々なる意匠」第二節冒頭の言葉に注目してみると、意匠といふ考へは生気を帯びてくる。「『自分の嗜好に從つて人を評するのは容易な事だ』と、人は言ふ。然し、尺度に從つて人を評する事も等しく苦もない業である」。印象・主観批評批判に対する痛烈な再反論であるが、この一説を、尺度に対する依存といふ問題として敷衍するならば、事態は我々の身近に広く認められるはずである。例へば、我々はよく「X新聞は信用できる」、「専門家の~氏が言つてゐるから本当だ」と言ふ。殊に新たな病気の蔓延、戦争など、未知なる、不確実な事態と向きあはねばならないやうになると、その傾向が一層強まる。しかし、それは結局、ある新聞社なり専門家といふ「尺度に從つて」現実を見ることが、「苦もない業である」ためなのであらう。そして現実そのものに向き合ふといふ態度は忘れ去られる。同じことは「樣々なる意匠」における、マルクス主義批評家についての言及にも見てとれる。小林氏からすれば、マルクス観念学は彼らの脳中において、まさにマルクス主義がいふところの「商品の一形態となつて商品の魔術をふるつてゐる」のである。彼らもまた、目の前の現実と向き合ふことを忘れ、尺度によつて現実を見てしまつてゐる。マルクス主義以外の、印象批評、藝術の為の藝術、写実主義、象徴主義、新感覚派文学、大衆文藝といふ立場も、それが出所を離れて世に流通すれば、安直に利用される尺度となる。意匠は尺度として人間の前に姿をあらはすのである。そして世に意匠が蔓延つてゐることは、意匠の種類こそ違へど、現代も変はらない。
「樣々なる意匠」が面白いのは、尺度が当初の目的を失ひ使用される様を批判するだけではなく、尺度そのものが発生した場へと遡つてゐる所である。そこで、尺度に対する評価は一変する。例へば小林氏はマルクスについて「時代の根本性格を寫さんとして、己れの仕事の前提として、眼前に生き生きとした現實以外には何物も欲しなかつた」と述べるが、この評価は、尺度により現実を見ることにとらはれたといふ、マルクス主義者に対する評価とは対照的である。小林氏の目にマルクスは、己が全存在ともいふべき「宿命」に対して忠実に従ひ、あるがままに現実をみようとした人物として映る。尺度の根底に、そのやうな人間の姿を認めるのであれば、主義と主義の対立も意味を失ふ。「寫実主義」といふ言葉も、「象徴主義」といふ言葉も、藝術家が「各自の資質に從つて、各自の夢を築かんとする地盤」を指すやうになる。意匠を生み出す人間は銘々の宿命に即して、「常に生き生きとした嗜好を有し、常に潑剌たる尺度を持つ」のである。
ここで、現代の「焦燥な夢」を持つ読者は、次のやうな疑問に駆られるのではないか。潑剌たる尺度があることはわかつた、では尺度と尺度の対立はどうなるのか。マルクスは詩人を、『資本論』から追放したとあるが、小林氏はマルクスと詩人、どちらを正としてゐるのか。答へを求めて文章を彷徨する内に、読者は冒頭で次のやうに述べられてゐることに気が付く。「私は、こゝで問題を提出したり解決したり仕ようとは思はぬ、私はたゞ世の騒然たる文藝批評家等が、騒然と行動する必要の爲に見ぬ振りをした種々な事實を拾ひ上げ度いと思ふ」。なるほど小林氏本人が問題を解決しないといつてゐるのだから、答へは文中に見つかるまい。不満を抱へつつ、我々は文章から退く。しかし「解決したり仕ようとは思はぬ」といふ態度は、単に問題を扱はないといふ消極的なものではなく、積極的な何ものかを孕むのではないか。小林氏はマルクスと詩人の問題について、次のやうに述べてゐる。
これは決して今日マルクスの弟子達の文藝批評中で、政治といふ偶像と藝術といふ偶像とが、価値の對立に就いて鼬鼠ごつこをする態の問題ではない。一つの情熱が一つの情熱を追放した問題なのだ。或る情熱は或る情熱を追放する、然し如何なる形態の情熱もこの地球の外に追はれる事はない。
幾つかの言葉については理解のために、当時の文壇事情や、マルクスについての知識を必要とするかも知れない。しかしこの一節から我々は、異なる宿命を背負つたもの同士の、壮絶なる対立を思ひ浮かべることが出来るであらう。そのやうな光景に出会つた時、我々が為すべきことは何か。それは、「騒然と行動」して、手持ちの尺度により事態を測らうとすることではなく、まづは問題を眺め、情熱同士の格闘を目に焼き付けることであるはずだ。仮に決着の道があるとして、出発点はそこにしか存在しない。「解決したり仕ようとは思はぬ」といふ小林氏の言葉は、騒然と行動しては消えてゆく者たちを尻目に、困難な事態を困難であるがままに見つめる態度を示す。
「樣々なる意匠」は一見したところ、意匠で身を固めた当時の知識人批判の書である。しかしそこには、現実と直に向き合ひ、尺度の根底に情熱を探らうとする、小林氏のものの見方が示されてゐる。そして、その見方自体が「生き生きとした嗜好」と「はつらつたる尺度を有」してゐるのだ。「樣々なる意匠」が今日の我々に訴へかける事は何か。それは尺度によらず、ひたすらものや藝術と向き合ふこと、「傑作の豊富性の底を流れる、作者の宿命の主調低音」がきこえるまで、傑作を彷徨し続けることの必要性であらう。これは平凡な自明の理かも知れないが、騒然とした世においてその理を守ることは、頗る難しい。ものがその姿を我々の目の前によくあらはすためには、我々の努力が要るのである。
(了)