小林秀雄の「ベエトオヴェン」(承前)

杉本 圭司

減七度下行の和音の鉄杭が、硬く凍てつく永久凍土の大地に突如打ち込まれたかのように、その最後のピアノ・ソナタは始まる。「かく運命は扉を叩く」と、ベートーヴェン伝説の大家アントン・シンドラーは、ここでも同じ台詞を捏造することが許されただろう。鉄杭は、三度、打ち込まれ、やがて打ち割れた大地の裂け目からアレグロ・コン・ブリオ・エド・活き活きと速く、­アパッショナート情熱をもっての主部が流れ出す。ソナタ形式の裡にフーガを融合させながら進行するその書法は、晩年のベートーヴェンの作曲様式の典型であるが、その音楽が内に孕む楽想は、作品1-3のピアノ・トリオ以来、この作曲家が繰り返し書き続けたハ短調アレグロ・コン・ブリオの直系に連なるものであり、その掉尾を飾る音楽となった。小林秀雄が坂本忠雄氏に「あれは『早来迎』だ」と語ったはずの「後期のソナタの最終楽章」とは、このベートーヴェン最後のハ短調アレグロ・コン・ブリオに続く第二楽章、ハ長調アダージョ・ゆっくりと、­モルト・極めて­センプリーチェ・簡素に、­エ・カンタービレそして歌うようにの長大な変奏楽章であったと私は思う。実際に小林秀雄がこの楽章を指してそう呼んだというのではない。彼は大江健三郎氏に「ベートーベンの後期のソナタの最終楽章は、『来迎図』のようだ」(傍点杉本)と語ったのであるから、必ずしも一曲に限定したということではなかっただろう。しかし彼が坂本氏に言った「早来迎」という言葉の意味するところのものは、三十二曲あるベートーヴェンのピアノ・ソナタの最後のソナタのうちに、もっとも象徴的に、もっとも凝縮された形で表れているように思うのだ。私にはこのソナタはその事を、ただその一つの事だけを伝えている音楽であるようにさえ思われる。そしてその所以は、繰り返すが、このソナタの「最終楽章」が自ら表現しているというだけでなく、この第二楽章が、ベートーヴェンの数あるハ短調アレグロ・コン・ブリオのために書かれた「最後の最終楽章」であったという事実にあると思うのである。それは、この作曲家が自身の「宿命の主調低音」をまたしても掻き鳴らしつつ、これを遂に解決し終えたところの最終楽章であった。すなわちベートーヴェンの三十二番ソナタとは、「彼が晩年、どんな孤独な道に分け入り、どんな具合に己れを救助したかに就いて」(「モオツァルト」)、この作曲家が自ら克明に描いてみせた音楽であった。小林秀雄はおそらく、そう聴いたのではないか。

ベートーヴェンのハ短調、とりわけこの調性がアレグロの速度と生気をもって突き進む時に表出される或る特殊な調べについては既に触れたが、この事実をベートーヴェン自身がどのように自覚していたのか、そのことを自ら語った言葉が残されているのかどうか、寡聞にして私は知らない。「ベートーヴェンのハ短調」を語る人は多いが、というよりもそのことに触れないベートーヴェン論というものは考えられないくらいだが、それをベートーヴェン自身の言葉によって傍証した文章をかつて読んだことがないのである。「ベートーヴェンのハ短調」に通底する或る特殊性とは、あくまでもこの作曲家が残した数々のハ短調アレグロの音楽が聞く者に直接与え、示唆するところの心的印象に根拠を持つものであり、しかもこの印象は、ベートーヴェンを聞くおそらくほとんどの人に伝達され共有し得るものであることから、論者はその特殊性については論証も実証も必要としない、ただ「この作曲家にとってハ短調は特別な調性であった」と言えば皆が納得してしまう、という体のものなのかもしれない。

ただし、次のことは知っておく必要があるだろう。シンドラーによれば、ベートーヴェンの蔵書の中には調性格論の古典であるクリスティアン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルトの「音楽美学の理念」があり、ベートーヴェンは他の音楽家にもこの書を勧めていたというのである。シンドラーのベートーヴェン伝には、このテーマについて詩人兼作曲家のフリードリヒ・アウグスト・カンネと交わした会話の内容が伝えられている。カンネは調性に内在する固有の性格を否定したのに対して、ベートーヴェンはこれを肯定し、それぞれの調性は一定した情調と関連するものであること、如何なる楽曲も移調すべからざるものであることを主張したという。シンドラーは、「それぞれの調性の特殊な性格を理由もなく否定することは、ベートーヴェンにとっては潮の干満に対する太陽と月の影響を否定するようなものであった」とまで書いている。もっともベートーヴェンは、シューバルトが長短二十四の調性についてそれぞれ規定した性格そのものを全面的に肯定したわけではなかったようだが、他にもたとえば、若い頃に熱中していた詩人フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトックの偉大さを「マエストーゾ荘厳に、変ニ長調」と言い表したことが音楽評論家フリードリヒ・ロホリッツからの手紙に伝えられているなど、少なくともベートーヴェンが作曲するにあたって調性を決定する時、その調自体が孕む「特殊な性格」が明確に意識されていたことは確かなようである。ちなみにシューバルトの定義によれば、ハ短調という調性には「愛の宣言であると同時に、不幸な愛の嘆き。愛に酔った魂のすべての苦しみ、憧れ、ため息」があるとされる。

このシューバルトの性格規定がベートーヴェンのハ短調にそのまま当て嵌まるかどうか、それはひとえにここにいう「愛」をどう捉えるかに依ると思われるのだが、今はその議論は措こう。それよりも、この調性がベートーヴェンによって実際にどのように取り上げられてきたのか、その軌跡を辿っておきたいのである。実はベートーヴェンという作曲家は、ハ短調というこの彼にとって特別であったらしい調性を生涯を通じて間断なく取り上げていたわけではないのである。そこには一つの、はっきりとした断絶があった。

 

 

ベートーヴェンの四十余年に及ぶ作曲家としての創作生涯において、最初の「ハ短調アレグロ・コン・ブリオ」が現れるのは作品1-3のピアノ・トリオであることは既にお話ししたが、「ベートーヴェンのハ短調」ということでは、それよりもさらに十年以上遡ることになる。現存するこの作曲家の最初の作品であり、初めて世に出版された曲に、この調性が与えられているのである。十二歳になる年に作曲されたと推定される「ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲」がそれである。

変奏曲であるから、主題の調性がそのまま曲の主調を決定することになるわけで、主題そのものはドイツ・リートの作曲家でありテノール歌手としても活躍したエルンスト・クリストフ・ドレスラーによるものである。この頃、少年ベートーヴェンはクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事して本格的な作曲の勉強に取り組んでいた時期であった。ドレスラーのハ短調主題はしたがって、ベートーヴェン自身が選択したものではなく、ネーフェが課題として与えたものであったことも考えられる。しかし仮にそうであったとしても、この曲以前にも作曲の習作は数多く行われていたと考えられており、その中で初めて出版するに値する曲となった音楽の調性がハ短調であったという事実、さらにはその最終変奏が、第五シンフォニーおよび三十二番ソナタと同様ハ長調で結ばれているという事実は、象徴的あるいは暗示的という言葉だけでは片付けられないような強く明確な意志をそこに―それが少年ベートーヴェンにどこまで自覚されたものであったのかはともかくとして―感じざるを得ないのである。少なくともこのベートーヴェン最初の音楽作品には、たとえばモーツァルトが八歳で書いた最初のシンフォニーにこの作曲家の個性の何たるかを見るよりも、ベートーヴェンという音楽家の無二の個性が紛うことなく現れているように思う。なおネーフェは、翌一七八三年三月二日号の「音楽雑誌」にルポルタージュを寄稿し、ベートーヴェンがこの変奏曲を自分の指導のもと出版したことを伝えているが、「必ずや第二のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトになるだろう」という有名な予言は、その記事の中に記されている。

その後十年あまりの間にベートーヴェンは五十曲ほどの習作を作曲し、そのほとんど全ては当時の慣習にしたがって長調で書かれているが、そのうち短調で作曲された数少ない例外のうちの一つに、ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーの詩に作曲したリートがあり(WoO 118)、その冒頭のレシタティーヴォがやはりハ短調で書かれている。十四から十五歳になる年に作曲されたもので、タイトルは、「愛されない男のため息―応えてくれる愛」だ。ビュルガーの歌詞を写してみよう。

 

[レシタティーヴォ] 汝はすべての生けるものに愛を与えなかったのか、わが母よ、自然よ?

[アンダンティーノ] 木々も苔も愛で結ばれているのに私には応えてくれる愛がない。

[応える愛] あなたが私を思ってくれることがわかったなら、わが身は燃え尽きるだろう。

 

この音楽を、ハ短調とは「愛の宣言であると同時に、不幸な愛の嘆き。愛に酔った魂のすべての苦しみ、憧れ、ため息」というシューバルトの性格定義を裏付ける例証の一つと考えるかどうかは聞く人の自由だが、ベートーヴェンがシューバルトの調性格論のうち意見を異にしたのは長音階に関するもので、短調のそれについては特に異議を唱えなかったらしいことは付け加えておこう。だがそれよりも重要なのは、このリートの[応える愛]からの旋律が、後に作品80の「合唱幻想曲」(ハ短調)に用いられることになり、やがて第九シンフォニーのあの「歓喜に寄す」の主題旋律へと育って行く―少なくともその最初の萌芽であることを予感させる旋律となっている、という事実である。

さてベートーヴェンの作曲歴の中で、このリートの次に生まれたハ短調が、すでにお話ししたこの作曲家がはじめて書いた「ハ短調アレグロ・コン・ブリオ」であり、ベートーヴェンが最初の作品番号を与えた(ベートーヴェンは自分の作品の作品番号を自ら管理した最初の作曲家であった)三曲のピアノ・トリオ中の一曲であった。作曲されたのは二十三から二十五歳になる年にかけてのことである。作曲が開始される前年の十一月、ベートーヴェンは生まれ故郷であるボンでの宮廷楽師の職務を一年間の約束で休職し、ハイドンの教えを受けるためにウィーンへ留学した。モーツァルトがこの都で亡くなった一年後のことである。そして以後、二度と故郷の地を踏むことはなかったが、そのウィーン到着の翌月、父ヨハンがボンで死去している。最愛の母マリアは、十六歳の時にすでに喪っていた。二十二歳のベートーヴェンは一家の長として二人の弟の面倒を見なければならない立場となるが、最初の「ハ短調アレグロ・コン・ブリオ」は、そのベートーヴェンの独立独歩の生涯の始まりに際して生み落とされたのである。

このハ短調ピアノ・トリオがハイドンの前で初演された時のエピソードについては既に触れたが、その時のあらましをベートーヴェンの弟子フェルデナント・リースの覚書によってあらためて伝えておこう。

 

作品一として出版されようとしていた、ベートーヴェンの最初の三重奏曲三曲は、リヒノフスキー候邸の夜会ソワレで、芸術界に紹介される計画となった。音楽家と音楽愛好家のほとんど、とくに、一同がその意見を聞きたがっていたハイドンが招待された。三重奏が演奏されるや、ただちに異常な注目を集めた。ハイドンもそれらについて、いろいろの賛辞を呈したが、三番目のハ短調は出版しないようにと忠告した。その三重奏のうち、ベートーヴェンは第三曲を最上と考えていたし、やはり一ばん喜ばれ、効果も最高であったから、彼もこれにはおどろいてしまった。そんなわけで、ハイドンの批評に悪い印象を受けたベートーヴェンは、ハイドンが自分をうらやみ、ねたみ、好意をもっていないのだと考えてしまうようになった。ベートーヴェンがこれを私に語ったときは、ほとんど信じられなかったことを告白する。それで私は、おりをみてハイドン自身にそれをたずねた。ところが彼の答は、ベートーヴェンの言葉を確証した。公衆がこの三重奏曲を、あのように早く、また容易に理解したり、好意的に受け入れたりするとは思わなかった、というのが彼の言であった」(アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー「ベートーヴェンの生涯」大築邦雄訳より)

 

小林秀雄は「モオツァルト」の冒頭章で、メンデルスゾーンがピアノで弾いて聞かせたベートーヴェンのハ短調シンフォニーの第一楽章に動揺するゲーテと、ワーグナーの音楽を熱愛しながらやがてそこに「ワグネリアンの頽廃」を聞き分け、執拗な攻撃を行ったニーチェとの間に「深いアナロジイ」を見たが、ベートーヴェン壮年期のハ短調シンフォニーに苛立つ八十歳のゲーテと、青年ベートーヴェンのハ短調トリオを受け入れようとしなかった六十過ぎのハイドンとの間にも、もう一つのアナロジーを見出すことができるのではないだろうか。古典主義者ゲーテと古典派ハインドを単純に引き比べようというのではないが、二人の老作家が若きベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオに聞き分け、驚きと恐れを感じながらある種の拒否反応を示したところのものは同じであったように思われるのである。昭和六年、日本で翻訳出版された二つ目のベートーヴェン伝であるパウル・ベッカーの「ベエトオヴェン」はそのことを示唆したもので、河上徹太郎が翻訳した同じ著者の「西洋音楽史」を愛読した小林秀雄も、「モオツァルト」の執筆に際して手に取った文献の一つであったはずだが、ベッカーはこのピアノ・トリオ初演時のエピソードを紹介しながら、次のように述べている。

 

ハイドンの周知の率直と高潔とは、彼がベエトオヴェンを嫉妬したということを著しくあり得べからざることにするが、これに反して、ハ短調の曲が彼を驚かしたことと、彼がそれの出版を不遜と考えたことは甚だありそうなことである。後年ゲエテが気づいた、そして穏やかな不同意を以て気づいたベエトオヴェンの個性のうちにある「無拘束」な或物は、技巧的に円熟した大規模に設計された作品のうちに初めて現われた。そして、これは驚愕と懸念とを以てハイドンの心を満たし得たことであったろう。ハイドンは六十歳であった。そして、赤裸々な感情のこの奔放な表現の魅力を、また伝統的な拘束及び制限に対してのこの反抗を感ずる一つの新時代がベエトオヴェンと共に育っていた事実を看過した。彼は霊魂の内密のこの暴露のうちに、知的な未熟の徴候を、彼の趣味と思考の習慣とに対して不快な或物を見た。(大田黒元雄訳)

 

「モオツァルト」の読者なら、このベッカーの一節に続けて、ハイドンは「のベエトオヴェンの音楽に、異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇を聞き分けなかったであろうか」という「モオツァルト」第一章の言葉を思い出さずにはいられないはずである。ベッカーはその「異常な自己主張の危険、人間的な余りに人間的な演劇」たるハ短調ピアノ・トリオを「自己のものたるべき新領土への最初の決定的な打開」と評したが、小林秀雄はそれを「自分(ベートーヴェン)の撒いた種」と呼んだのだと言える。

この最初の「ハ短調アレグロ・コン・ブリオ」を発表した後、ベートーヴェンは同じく数曲一組の楽曲セットに一曲だけ短調の音楽を挿入し、これをハ短調で書くということを、さらに二度繰り返した。一つがその二年後、二十七から二十八歳になる年にかけて作曲された弦楽三重奏(作品9-3)であり、もう一つが二十八から三十歳になる年に書かれた弦楽四重奏(作品18-4)―小林秀雄が「ベートーヴェンの作品十八、彼のトーンはあそこでもう決定している」(鼎談「文学と人生」)と語ったときに名指していたはずの一曲―である。弦楽トリオはピアノ・トリオと同様三曲一組の中の一曲、弦楽カルテットの方は六曲一組の中の一曲である。いずれも「アレグロ・コン・ブリオ」の指定を直接与えられた楽章を持つわけではないが、両曲の第一楽章アレグロは紛うかたなき「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」の系譜に属する音楽である。

このうち弦楽四重奏というジャンルは、ベートーヴェンにとっては交響曲、ピアノ・ソナタと並んで最重要な楽曲領域であり、この作曲家が生涯の最後に完成させた音楽もまた弦楽四重奏であった。作品18はその最初の、満を持しての作品群である。しかもこのジャンルは、交響曲とともにハイドンが完成させたジャンルであった。ベートーヴェンが作品18の全六曲を完成し終えた時点で、ハイドンは六十八曲に及ぶ全カルテットをすでに発表しており(編曲や偽作を含めれば八十曲を超える)、この作曲領域は言わばハイドンのホームグラウンドのようなものであった。その師ハイドンが創り上げた弦楽四重奏の傑作佳作の森の中で初めて自分の作品を世に問うにあたって、ベートーヴェンは師の音楽から十二分に教わり、奪えるものは存分に奪い尽くした上で、その中に一曲、自ら「最上」と考える作品を、かつて師に否定された「ハ短調」の調べをもって添えたのである。作品1とは違い、ベートーヴェン自身がこのハ短調カルテットを六曲中の「最上」と考えたという記録があるわけではないが、この一曲がそれ以外のカルテットに比べて圧倒的な異彩を放っていることは疑いなく、そこにはベッカーの言う「赤裸々な感情のこの奔放な表現の魅力」が横溢し、「霊魂の内密の暴露」がより劇的かつ精緻に行われている。ベートーヴェンにとって作品1の「最上」がハ短調ピアノ・トリオであったのなら、作品18についてもこの作曲家にとっての「最上」は間違いなくハ短調カルテットであっただろう。一方、これも作品9の「最上」と言っていいハ短調弦楽トリオについても、二十年後、さる「篤志家」が編曲したものをベートーヴェン自身が大幅に手を入れ直し、作品104の弦楽五重奏として出版していることを付記してしておきたい。

この他、ベートーヴェンが三十歳になるまでに書いたハ短調作品としては、弦楽トリオの一年ほど前に完成されたと推定されるピアノ・ソナタ第五番がある(作品10-1)。ピアノ・ソナタは先にも述べたようにこの作曲家のもっとも重要な曲種であり、またもっとも内的な自己との対話と実験の場でもあって、初期から晩年に至るまでたゆまず作品を生み続けた唯一のジャンルであった。ベートーヴェンが書き残した三十二曲のピアノ・ソナタ(ドレスラー変奏曲の翌年に作曲された三つの「選帝侯ソナタ」など作品番号が付いていないものも含めれば三十七曲となる)には三曲のハ短調ソナタがあり、いずれも第一楽章はアレグロ・コン・ブリオの指定を持つ。作品10-1はその記念すべき最初の作品であった。

しかし私は、「ベートーヴェンのハ短調アレグロ・コン・ブリオ」の真の誕生は、この第五ピアノ・ソナタに続く2番目のハ短調ソナタによってもたらされたものであったと考える。そのソナタの直筆譜は現存しないため正確な作曲年代は不明だが、現在では作品9-3のハ短調弦楽トリオと同じ頃の作であるとされる。作品18-4のハ短調カルテットが書かれる一年前である。

小林秀雄は「モオツァルト」の中で、モーツァルトがハイドンに捧げた弦楽四重奏群の最初の一曲、二十六歳の時に作曲したK.387について、「彼の真の伝説、彼の黄金伝説は、ここにはじまるという想いに感動を覚える」と書いているが、私は、「”Grande Sonate pathétique”(大ソナタ 悲愴)」と二十八歳のベートーヴェンが自ら命名したこの第八番ピアノ・ソナタ(作品13)、中でもその音楽の開幕とともに天から垂直に落雷するあの激烈なハ短調主和音の一撃を聞くたびに、「ベートーヴェンの真の伝説、彼の黄金伝説は、ここにはじまる」という想いに強い感動を覚えるのである。四半世紀後、三十二番ソナタの序奏において三度打ち込まれることになるあの減七度下行の鉄杭は、ここにおいて初めて古典派という永久凍土の大地を割ったのである。

(つづく)

 

 

※以上は、二〇二〇年十二月、ベートーヴェンの生誕二五〇年に際して行った講話をもとに新たに書き起したものである。