新年第一号となる今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。いつもの四人組が注目したのは、「才学に公の舞台を占められて、和歌は楽屋に引込んだ」という小林秀雄先生の一言である。それでは和歌は、引き込んだ楽屋で何をしていたのか? 「本居宣長」を片手に、四人のおしゃべりはさらなる深みへと降りて行く。対話の質も回を重ねるたびに熟成が進み、かつ鋭敏さも増しているようだ。
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「『本居宣長』自問自答」には、田中佐和子さん、溝口朋芽さん、荻野徹さん、松宮研二さん、入田丈司さんが寄稿された。
田中さんは、フランスに駐在していた五年間、言葉や身振りなども含めて、意識的にフランス人になり切ったという。裏腹に「日本語からは突き放され」てしまった…… 帰国後、日本語との復縁を図ろうとする未だ暗い道筋を照らし出してくれたのが、「本居宣長」に記されている小林先生の言葉であった。その道筋こそ、宣長が明らめた「言辞の道」である。田中さんが取り戻しつつある大切なものとはいったい何か?
溝口さんは、時間をかけて、「本居宣長」の全編にわたって登場する「しるし」という言葉を眺め続けてきている。これまでも、その前後の文章から大いなる気づきを与えられたようで、本稿では、宣長の「源氏物語」経験に関して、第二十四章に登場する「明瞭な人間性の印し」という言葉に的を絞った。では、「明瞭な人間性」とは何か? 小林先生の文章を丹念に追っていくと、聞こえてきたのは、小林先生の導きの言葉であった。
「巻頭劇場」でおなじみの荻野さんは、「自問自答」についても、十八番である対話劇のかたちでまとめられた。批評家である小林先生は、紀貫之のみならず、本居宣長も、紫式部も批評家である、と書いている。そのうえで、わけても「紀貫之が批評家であるとは、いかなる意味か」という問いが話題となっている。「古今和歌集」仮名序も片手に味わっていただきたい名対話、もう一つの劇場をお愉しみいただきたい。
松宮さんは、E.H.カーの「歴史とは何か」を新訳で読み返し、「歴史家は絶えまなく『なぜ』と問い続けています」という一節に眼がとまった。そこでこう思った。宣長なら、「なぜ」とは言わないだろう、と。その直観を、松宮さんはどのようにして得たのか? ヒントは、カーと小林先生が同じく引用していた、イタリアの歴史家クローチェによる言葉にあった…… そこにいたのは、「四人の歴史家」であった。
入田さんは、「紫式部という作家の創造力とはどのような力なのだろうか?」という自問を立てた。ヒントだと直知した、小林先生の文章があった。先生が宣長について、「『よろづの事を、心にあぢはふ』のは、『事の心をしる也、物の心をしる也、 物の哀をしるなり』と言う」との一文である。先生の言葉に沿って思いを巡らせ行くと、私たちが良く生きるためのヒントもまた、見えてきたようだ。
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「様々なる意匠」という作品は、小林先生が二十七歳の時に書いた文壇デビュー評論として名高い。ただ、「意匠」という言葉からして難解だと感じるのは、今回「考えるヒント」に寄稿された大江公樹さんだけの実感ではなかろう。しかし、第二節冒頭の言葉に注目してみると、そのことばが油然として生気を帯びてきたという。まさに同感するところ大である。今だからこそ、読み返してみよう!
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小林秀雄先生は、小中学生に向けた「美を求める心」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十一集所収)の冒頭で、絵や音楽が解るようになるためには、「頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものでは」なく、「何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ」と述べている。その教えに沿って、新年早々ホールに足を運んだ。お目当ては、マーラーの交響曲第七番である。彼の楽曲はとにかくのお気に入りで、CDでは何度も聴いてきたのだが、この曲に限っては自分の身体がうまく馴染めていないことに、もどかしさを覚えてきていた。演奏の機会も少ない曲だけに、まさに時機到来だ。
無心に聴いた。八十分近い演奏が終わって、私は大きな感動の波のなかにいた。CDでは聴き取りにくい弦楽器のコル・レーニョ(弓で弦をたたく奏法)のニュアンスや、この曲ならではのテノールホルン、マンドリンやギターの繊細な音色も鮮明に届いた。そして何よりも、八十分の演奏が一瞬の出来事のように感じられた。
本番を前に、指揮者はこの曲についてこう語っていた。――喜び、悲しみ、妬み、怒りなどが混ざりあったドロドロした感情を、イタコ状態で表現する必要がある。それも、イタコの語りをメモしているような感じの指揮はつまらない。自分の口でしゃべっているようでなくてはならない。本番ではそれを目指します。
なるほど面白い例えだ。指揮者や演奏家は、作曲家の魂を表現するという意味では、死者の「口寄せ」をする青森のイタコのような存在である。そう指揮者が言うのであれば、自分だってイタコの語りを第三者的にメモする感じではなく、直かに全身で演奏を受けとめよう、そう決意して席に着いたことも奏功したのかも知れない。いや、まさにこういう聴き方こそ、小林先生が勧めていたものではなかっただろうか……
そこでこう決意した。今年もまた何事においても、そのような態度で作者達に向き合っていこう。
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連載稿のうち、三浦武さんの「ヴァイオリニストの系譜――パガニニの亡霊を追って」及び、池田雅延塾頭の「小林秀雄『本居宣長』全景」は、筆者の都合によりやむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、筆者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。
(了)