素読と直観

有馬 雄祐

小林秀雄に学ぶ塾の姉妹塾である素読塾では、古典を読むのに最も適した方法は素読であるという、小林秀雄先生の教えに倣い素読を続けている。二〇一四年、数人の塾生からベルグソンが読みたいという声があがり、ならば素読でという池田雅延塾頭の教示の下、素読塾は始まった。ベルグソンの『物質と記憶』と『古事記』の素読会が同時に開催され、『古事記』の素読を終えた後の二〇一七年五月からは『源氏物語』の素読を続けている。現在はベルグソンと『源氏物語』の素読会を隔月で開催しており、『源氏物語』の方は謝羽しゃゆうさんに舵をとってもらいながら、私の方はベルグソン素読塾の幹事を担当している。

素読とは、声に出して作品を読むという、言ってみればそれだけの方法である。その特徴をあえて強調すれば、内容の理解は云々せず、リズムを大切にしながら、言葉を肉声にするという点になる。素読という方法はなぜ、古典を読むうえで有効なのだろうか。ここでは、素読の意義について、ベルグソンの著作を通して私が感じているところを書いてみたい。

 

ベルグソンの『物質と記憶』を読み始めた当初の印象は、今でもよく覚えている。ベルグソンの著作、とりわけ『物質と記憶』が難解であるとは一般によく言われるようだが、私にとってもそれはともかく難解であった。例えば、『物質と記憶』を読み始めると、真っ先に「イマージュ」という言葉に出会う。これがもう難しい。何が難しいのかと言えば、分かりやすい定義がどこにも書かれていないのだ。「持続」という、彼の有名な言葉にしても事情は同じである。言葉の定義を頼りにするような方法では、彼の著作を上手に読み進めることは難しいのである。

どうして、ベルグソンの著作にはそうした難解さが生じるのか。それはベルグソンの哲学の対象が、彼が真の哲学の方法と呼んでいる「直観」によってしか捉えられない、生命や精神だからである。彼は、真の哲学の方法を悟った当時を、「言葉による解決を投げ棄てた日である」と回想する。ベルグソンが自身の哲学の方法を論じた『思考と動き』では、「直観についての単純で幾何学的な定義を求めないでもらいたい」と読者に注意を促したうえで、その基本的な意味について次のように説明している。

 

「とはいえ、直観の基本的な意味が一つある。すなわち、直観的に考えるとは持続のなかで考えることである。知性はふつう不動なものから出発し、不動を並置することによって運動をなんとか回復しようとする。しかし直観は運動から出発し、運動を実在そのものとして定立する、というよりはむしろ実在そのものとして知覚するのであって、不動なるものは精神が動きに対して撮ったスナップショットあるいは抽象的瞬間としか見ない。知性はふつう事物を自らに与え、それを安定したものと考え、変化はそこに付加された偶然の出来事であるとする。しかし直観にとっては、変化が本質的なのである。直観の眼からすれば、知性の考えるような事物は、生成のただなかで精神によって切り取られ、全体の代用物に仕立てられたものでしかない。(中略)

(平凡社「思考と動き」,Ⅱ序論(第二部)問題の提起について, 48頁)

 

知性は、事物の安定した側面を切り取って、静的な概念で理解しようと試みる。これは、事物に対して私たちがどう対処すれば有用であるかという、実利的な関心に根差した精神の拭い難い傾向であるとベルグソンは説明する。そうした知性の働きは、物質を扱う場合には多いに有効なものであり、物理学や化学といった物質の科学の成功がこれを証明している。しかし、生物学や心理学といった生命や精神が問題となる領域では、知性は物質を相手にする場合ほど上手くは働かない。それは、生命が変化を本質としているからであり、常に新しい何かを創造し続ける生命を、静的な概念で置き換えることはできないからだ。「直観」とは、絶えず変化する動きにより沿い、安定を求めることなくこれを直知する精神の働きであり、「直観とは精神による精神の直接的な視覚(ヴィジョン)」であると、ベルグソンは述べている。

直観を語るうえで、ベルグソンが頻繁に用いる例えにメロディーがある。あるメロディーが異なるテンポで演奏されたなら、元のメロディーと同じ印象を与えることはないだろう。また、メロディーをいったん停止して、同じ個所から演奏を再開したとしても、それが一連のメロディーと同じ印象を与えることはもはやない。私達の精神は、変化する音と一体となりながら、メロディーをその全体性で感じ取る。音楽を聴く際には自然と体験している、運動そのものを直知する精神の働きが直観なのである。また、ベルグソンの言う「持続」とは、伸縮や分断が許されない、直観において経験される時間を意味しており、私達の精神におけるそうした時間は、物理学が扱う均質な時間とは異なるものである。「直観的に考えるとは持続のなかで考えること」とは、メロディーに耳を傾けるようにして、対象の動きに寄り添い、考えることである。

素読では、音楽作品を味わうかのように、言葉をリズムよく肉声へと変えていく。従って、ベルグソンの言葉を借りるなら、素読とは持続のうちで作品を味わうための方法であると、そう表現してもよいだろう。より平たく言えば、著者の声に耳を傾けながら作品を読む方法が、素読であるわけだが、時間を省かずに言葉と向き合うというのは、意識していなくてはなかなか実践することが難しい。現代を生きる私達は、つい時間を省いて、既に自分の頭の中にある枠組みにとって都合の良い言葉を探しだすかのように、言葉を情報として扱ってしまいがちである。ベルグソンの著作は、そうした安易な理解、観念論や実在論とかいった哲学の既存の枠組みに基づく理解を拒絶するかのように書かれている。と言うより、そうした知的な概念では捉え難い生命の実在を表現しようと紡ぎ出された言葉が、「イマージュ」や「持続」といった言葉であって、直観による素読的な方法だけが、その意味を感じ取る唯一の方法となるのだろう。また、哲学者ベルグソンが対象としているのは生命や意識の問題だが、人生を扱う作品においても同じことが言えるはずである。著者が描き出す人生が、生命の実在に深く触れたものであるほど、読者にはそこで描かれた人生を持続のうちで辿りなおす努力が求められる。そうした直観の努力を求める作品を、私たちは古典と呼んでいるに違いない。ただし、私がいう直観を本能や感情とかいった概念で解釈しないでもらいたいと、ベルグソンは読者に注意を促す。「直観とは熟慮反省である」と彼は言う。絶えず自分自身であるには努力を要するのだ。

 

さて、話は変わるが、読者の中には何と時代遅れな方法を説いた文章だろうかと、怪訝けげんに思われた方がおられるかもしれない。現代では、インターネット上に情報が溢れており、それらを如何に効率的に処理するかが求められる時代である。加えて、これを書いている今まさに、米国の人工知能研究所OpenAIが開発した文章生成AI「ChatGPT」が世界中で話題となっている。ChatGPTは、生身の人間では生涯で扱いきれないほどの大量の文字情報から、文字と文字の統計的な関係性を学習することで、私たちの言語活動を予測し、操作する。ユーザーとの言葉のやりとりを通じた自律的な学習も行われているため、今後その精度は益々向上し続けていくのだろう。ChatGPTのような文章生成AIが、我々の生活や社会に多大な影響を与えていくであろうことは、疑いの余地がない。

しかし、これは私の個人的な予測ではあるが、その精度が今後どれだけ向上しようとも、人工知能が操作する言葉の意味が、あくまで統計的なものであって、ある人物がその言葉に込めた固有の意味合いを感じ取ることはできない、という根本的な事実が覆ることはないだろう。全く同じ言葉であっても、それを発する人が異なれば、その意味合いが違ってくるというのは、私たちの言語活動においては常識である。それは、人間の言語活動は、その言葉を発する人物や、彼が生きてきた経歴という固有な条件と不可分なものだからであり、人工知能にとって、そうした人生の持続に根差した言葉の意味を扱うことは難しい。そんな複雑な議論を経なくとも、ChatGPTを使ってみたことがある人なら誰しも、この人工知能が人物という固有性に関わる情報に関しては息を吐くように嘘をつくことを、既に体験しているはずである。人物の名前の問題は今後に技術的な次元で解決されていくだろうとは思うのだが、生まれたての文章生成AIが人物の名前を苦手としているという事実は、案外に大事なことであるのだろうと私は見ている。

素読とは、まさに文章生成AIが苦手とする類の言葉と向き合うための方法であり、その意義は人工知能時代においてもおそらくは変わらない。文章生成AIという偉大な発明やその影響力を否定したいわけではない。私たちの言語活動にとって、文章生成AIはあくまでも道具であり続けるであろうという、原理的な問題が指摘したいだけである。その事実を改めて認識してみたい方は、ChatGPTに「人生の意味とは何か?」とでも質問してみるとよい。優れた答えが返ってくるはずだが、その答えが今後どれだけ精巧なものになろうとも、私という固有な人生の意味に答えを出すことは原理的に不可能であるのだ。こうした問題については、ちょうど三年前の「好*信*楽」(2020年3・4月号)「生命の創造性」という文章を書いているので、そちらをご覧いただければ幸いである。

 

(了)