荻生徂徠の「物」と「心」

小島 奈菜子

物質である体に、なぜ心があるのか、物と心とはどのような関係にあるのか。人の死を目の当たりにして、体はあるのに心が無くなった状態を見たら誰もが考えることだろう。実際に死を体験してみることは当然ながら不可能なので、古来から無数の人々が知恵を絞って考えてきたにもかかわらず、未だに万人が納得できる答えの存在しない、古くて新しい難問だ。小林秀雄は、生涯に渡り様々な著作の中でこの問いに対峙し考え続けた。畢生の大作『本居宣長』では、西洋の思想を排し、我々の生きる東洋においてこの問いがどのように表れてきたのかを詳細に描いている。物と心との関係を考えることは、言語について考えることに通じる。言語は心の動きを体であらわすことで生み出される、両者の接点だからだ。同書では、言語について「物に付けられた単なる記号ではない」、「単なる伝達のための道具ではない」と、通念が繰り返し否定されている。どんな道具や技術においても便利さと危うさとは表裏一体だが、ことに言語はあまりにも身近なので、伝達道具としての便利さばかりに注意が偏る傾向が強い。この頑固な通念を徹底的に振り払って初めて見えてくる本来のあり方として、我が国に生きていた古代の人達の言語経験が、本居宣長という傑出した人物によって奇跡的に蘇り『古事記伝』となった、その経緯や曲折が丹念に描かれている。

主に第三十四章以降で書かれているように、古人達にとって言葉は、声に「あや」をして身振りとともに発する表現行為だった。文字のように、行為から離れて固定された不変のものではなく、声の抑揚や強弱といった「あや」こそが、言葉の本来のあり方であり、文中で言われている言葉の「かたち」は、この行為全体のことを指している。この表現行為としての言葉は、「物」に出会って「心」が動き、動揺する己の「心」の動きを知ろうと努力することで初めて生まれ出たという。

本居宣長は、体や心にそれぞれ独特のかたちで触れ、動きをもたらす事物を指して「物」と言った。この「物」という語には、現代とは異なるニュアンスがあり、質量のある物質だけを指しているのではない。小林秀雄は、宣長自身の言葉からかにその意味合いをつかんで欲しいと、長い文章を引用する。

 

宣長にとって、「物」の経験とはどういうものであったか。(中略)

「余が本書(「直毘霊なおびのみたま」)に、目に見えたるまゝにてといへるは、月日火水などは、目に見ゆる物なる故に、その一端につきていへる也、此外も、目には見えねども、声ある物は耳に聞え、香ある物は鼻にカガれ、又目にも耳にも鼻にもフレざれ共、風などは身にふれてこれをしる、其外何にてもみな、フルるところ有て知る事也、又心などと云物は、他へはフレざれども、思念オモフといふ事有てこれをしる、諸の神も同じことにて、神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物也、其中に天照大御神あまてらすおほみかみなどは、今も諸人の目に見え給ふ、又今も神代も目に見えぬ神もあれ共、それもおのゝゝその所為シワザありて、人にフルる故に、それと知ル事也、又夜見ヨミ国も、神代に既に伊邪那岐いざなぎノ大神又須佐之男すさのおノ大神などのマカリまししコトアトあれば、其国あること明らか也」(「くず花」下つ巻)(中略)

宣長は議論などしているのではなかった。物のたしかな感知という事で、自分に一番痛切な経験をさせたのは、「古事記」という書物であった、と端的に語っているのだ。更に言えば、この「古ヘの伝説ツタヘゴト」に関する「古語物コトドヒモノ」が提供している、言葉で作られた「物」の感知が、自分にはどんなに豊かな経験であったか、これを明らめようとすると、学問の道は、もうその外には無い、という一と筋に、おのずからつながって了った、それが皆んなに解って欲しかったのである。(「本居宣長」第三十四章 新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集 p.42 4行目~)

 

引かれているのは、『古事記伝』の一部である『直毘霊なおびのみたま』に対して、当時の学者から「夜見ヨミ国が目に見えていたとは何事か、そんなはずがあるものか」と難じられ、反論として書いた「くず花」の文章だ。なんらかの「物」に触れたからこそ「夜見ヨミ国」という言葉があるのだから、あるに決まっているではないか、と宣長は言う。

小林秀雄が「言葉で作られた『物』」と言っているのは、言葉も人の心を動かすから「物」である、という単純なことではない。この文章がある第三十四章の一文目には、「徂徠が、『六経りくけい』という『物』の『キタる』のを待ったように、宣長は、『古事記』という物を『むかへ』に行った」(同p.39 8行目~)とある。荻生徂徠の「物」の考え方が、本居宣長に受け継がれているということだ。荻生徂徠の言語観について精しく書かれている第三十三章によれば、彼の生きていた江戸時代にすでに、この「物」である言葉という考え方は、わかりにくくなっていたという。学問は、説明を目的とする言葉によって「義」(意味)がわかればよく、「理」(理屈)が通ればそれでよい、とする考え方、具体的には朱子学に代表されるような、「理」をきわめんとする「理学」が主流になっていたのだ。

 

徂徠は、「レ人言ヘバスナハサトリ、言ハザレバ則チ喩ラズ」という言い方で言っているが、言語の説明による事物の理解が、認識の常道のように思われているが、これは、事物のはっきりした義の伝達と理解という言語の実用的な働きが、私達の実生活を、広く領しているからである。当今の理学の方法は、この全く在り来りの言語観の延長の上に、立つもので、この、言語に対する一種の軽信が、真の学問の道を妨害している、と徂徠は見る。「言ヒテサトラバ、人以テ其ノ義是レニ止マルト為シ、タ其ノ余ヲ思ハザル也。是レ其ノ害ハ、人ヲシテ思ハザラシムルニ在ルノミ」と言う。おくに任せて物の義を定めれば、物の義は尽されたとして、物はててしまう、義は物を離れて孤行し、「義ノ論説」という形で、空言巧言への道を開く。これが、学問でたっとぶ思惟の道をさまたげる。徂徠は、黙してるという処を、思いて識る、と言ってもよかったのである。

ケダシ先王ハ、言語ヲ以テ、人ヲ教フルニ足ラザルヲ知ル、故ニ礼楽ヲ作リテ、以テ之ヲ教フ」とある、―その言語とは、この空言巧言の意味であり、先王は言語を軽んじていた、などと言っているのではない。むしろ逆なので、空言への鋭敏が、その言語認識の深さを示す、と言いたいのだ。(「本居宣長」第三十三章 同、第28集 p.27 16行目~太字は引用者)

 

太字部分で言われているように、言葉による説明で「理解した」と思ったら、人はそれ以上を求めようとはしない。「其のあまり」、言葉で言い尽くせないところに思いを馳せることもない。「さとる」、つまり頭だけで理解するのではなく、心を動かして「思ふ」ことが必要なのだ。人間のこうした性質をかんがみて、中国古代の先王達は「空言くうげん巧言こうげん」、つまり言葉による説明や理屈から学ぶことはできないとし、「礼楽」という行為の規範を作った。「物」からかにしか、人は学ぶことができない、そういう風にできているのだ、と。

しかし、「物」であると言われている「古事記」も言葉で出来ている。これは「空言巧言」とどのように違うのか。わかるようでわからず、私は長い間混乱していたが、小林秀雄が『本居宣長』執筆の前に徂徠の学問について書いた『考えるヒント』の、「物」と題する文章を再読することで、腑に落ちるところがあった。

 

彼が、「物トハ教ヘノ条件ナリ」という発想を必要としたのは、心は教えの条件であるという当時の抜き難い通念を深く疑ったからだ。学者達は、皆、心を如何いかに操り、如何に治めんかと心の工夫に専念し、本心とか良心とか聖人の心は明鏡止水めいきょうしすいの如しとか空漠たる事を言っているが、これは「人身じんしん主宰しゅさい」という心の一面だけをたっとび、心が始末に悪い「動ク物」である一面を知らないからだ。心を操ろうとしても、操るものはやはり心なのである。「心自ラ心ヲ操ル。ソノ勢、ク久シカランヤ」「我ガ心ヲ以テ、我ガ心ヲ治ム。タトヘバ狂者自ラソノ狂ヲ治ムルガ如シ」、これは人間に出来ない事だ。

どうしても「格物かくぶつ」という事、物が来たり、至るという事が、心には必要だ。「大学」の「格物かくぶつ致知ちち」の解に学者が困惑するのも、「君子ハ心ヲエキシ、小人セウジンハ形ヲ伇ス」が、心を重んじ物を軽んずる風に、いつの間にか通念化し、格物は物来たるであるという大事な古訓を率直に受納うけいれる事が出来なくなったからだ、と徂徠は考える。心にかに近付く道はない。心は常に物を手がかりとして働いているという尋常な現実を尊重すれば足りるのだ。物を経験しなければ知はないと言うのが、「格物致知」なので、「物トハ教ヘノ条件ナリ」とは、我れに来たる物を収めて、我が有とする、その仕方を教えるのが教えだという意味だ。徂徠は、道を学ぶ方法は、基本的には六芸を学ぶのと少しも変りはないと考えていた。(同、第24集 p.227 19行目~)

 

心は「人身じんしん主宰しゅさい」、つまり身体を司り行動を「主宰」しているように見えるが、そのような理解は表層的でしかなく、心は自ずと動いてしまうものだから、自分の心を自分の心で治めるなどということは、人間に出来ることではない。できそうに見えてしまうのは、どうとでもなる「空言巧言」、つまり「理」による説明が学問である、という通念によるという。それは「物」の経験と、その結果生まれる「義」(意味)とを離すことができるという「理」の学問の流布による誤解なのだ。「理」を作るのに「心」を動かす必要はないので、「物」がなくても作ることができる。古人達によって生み出されたとき、言葉は肉声を発する行為であり、「物」に命名するという一つの表現行為のうちで、肉声の「あや」と「義」とが、同時に表れては消え、義だけが「物を離れて孤行」(前出「本居宣長」第三十三章)することはなかった。言葉を真に学ぶためには、その行為そのものを模倣すること、「学ぶ」の原義である「まねぶ」(真似る)ことが必要なのだ。先に引いた『本居宣長』第三十三章の続きに、そのことが書かれている。

 

言語に、「義ノ論説」を見ている人々には、思い及ばぬ事になったとしても、古人には、言語活動が、先ず何を置いても、己れの感動を現わす行為であったのは、自明な事であろう。比喩的な意味で、行為と言うのではない。誰も、内の感動を、思わず知らず、身体の動きによって、外に現わさざるを得ないとすれば、言語が生れて来る基盤は、其処そこにある。感動に伴う態度なり動作なりの全体を、一つの行為と感得し、これを意識化し、規制するというその事が、言語による自己表現に他ならないという考えは、ごく自然なものであろう。これは、徂徠風に言えば、「言に物有る事」と、「行ひに格有る事」とは、不離なものだという事になろう。

「詩書礼楽」を学ぶ者は、そういう古人の行為のあとを、古人の身になって、みずから辿ってみる他はないだろう。「詩書礼楽」という、古人ののこした「物」の歴史的個性を会得えとくするには、作った人の制作の経験を、自分の心中で、そのまま経験してみる他に、道はあるまい。(第三十三章 同、第28集 p.30 7行目~)

 

「古人の行為のあとを、古人の身になって、みずから辿ってみる」こと、「制作の経験を、自分の心中で、そのまま経験してみる」こと、それだけが学問であり、具体的な行為としての言語を徂徠は「物」と呼んだ。行為の模倣が当人の「心」を動かし、「物」を身に得ることをかなわせるのだ。だからこそ「礼楽」と同様に「詩書」も「物」であるし、また我が国の古人達が神々に出会って感動し、その「感動に伴う態度なり動作なりの全体を、一つの行為と感得し、これを意識化し、規制」しようと努力した行為の記録である「古事記」もまた「物」なのだ。上の文章の少し前には次のように書かれている。

 

「教フルニ物ヲ以テスル者ハ、必ズ事ヲ事トスルコト有リ。教フルニ理ヲ以テスル者ハ、言語ツマビラカ也」と言う。徂徠のよく使う「物」という言葉は、時には「事」とも使われるが、「理」に対する「物」というところは、はっきりしているので、「理ハ形無シ、故ニ準無シ」というのだから、形有り準有るものが、物に違いない。従って、物を明らめる学問で、「必ズ事ヲ事トスルコト有リ」と言うのは、それぞれ特殊な、具体的な形に即して、それぞれに固有な意味なり価値なりを現している、そういう、物を見定めるという事になろう。古言の表現、少くとも、孔子が教えの条件として取上げた言語表現は、それ自身の動かせぬ定式定準をそなえていた、と徂徠は見るのだが、この間の消息を、次のようにも説いている。「えき」には、「言ニ物有リテ、行ヒニツネ有リ」とあるし、「礼記」には、「言ニ物有リテ、行ヒニ格有リ」とあるように、そういう言い方は、古人の言語観をよく示しているので、古い時代には、君子は、古言をしょうするというのが、普通の事であった。古言を記憶すること、あたかも胸中に物を蔵するが如くであり、勝手な説明や解釈を、この物に代えるというような事はしなかったものである。(第三十三章 同、第28集 p.29 1行目~)

 

徂徠の言う「物」が「事」でもある、というのは、いずれも行為としての言葉を違う側面から見た言い換えであり、行為することが言葉にある「物」を迎え入れるために必要なのだ。思い通りになる「理」とは違い、定まりある行為の「形」を、そのままこちらが虚心に迎え入れなければならない、「物」としての言葉―そう言われてみて、ここで引かれている徂徠自身の文章を見てみようと思い、読み下し文ではあるが、「弁名」を書き写して辿ってみた。それから小林秀雄の文章に立ち返ることで、気づくところが多かったので、一部になるが引用したい。

 

たみを生じてより以来、物有れば名有り。名あるが故に常人の名づくる者有り。是れ物の形有る者に名づくるのみ。物の形亡き者に至りては、すなはち常人のることあたはざる所の者にして、聖人立てて名づく。然る後に常人といへども見てこれるべきなり。之を名教めいきょうふ。故に名とは教の存する所にして、君子はこれつつしむ。孔子曰く、「名正しからざれば則ち言したがはず」と。けだし一物も紕繆ひびゅうすれば、民其の所を得ざる者有り。慎まざるべけんや。孔子既にぼっして百家坌涌ふんようし、各々其の見る所を以てして以て之に名づけ、物始めてたがふ。独り七十の徒のみ其の師説をつつしみまもりて以て之を伝ふ。(中略)

聖人の道を求めんと欲する者は、必ず諸を六経りくけいに求めて以て其の物をり、諸を秦・漢以前の書に求めて以て其の名を識り、名と物とたがはずして、而る後聖人の道得て言ふべきのみ。故に弁名を作る。(河出書房新社刊『荻生徂徠全集』第一巻「弁名」上 p.32〜33 旧字体漢字は一部置き換え)

 

形のある物に名を付けることは誰でもできたので、聖人を待つ必要はなかったが、形のない物の名前を発明したのが聖人だった。発明された名を使ってみれば、普通の人々にもその意味するところがわかる。これが名教である。形のない物に付けられた名、それ自体が教えなのだ。名が正しく付けられていなければ、言葉をきちんと使うことはできない。孔子亡きあと、勝手に名を作って語る人々(百家)が増え、物と名とが合わなくなってしまった。あらためて本来の意味を伝える必要があるから「弁名」を書く、という徂徠の意図が記されているのがこの序文である。

続けて「弁名」下巻の最後から二つ目、『本居宣長』に多数引用されている「物」という文章を写す。字面を目で追っているだけでは難しいが、一字ずつ自分の手で書き写すうちに、朧げながら彼が何を言わんとしているのかが見えてきた。

 

物 一則

物とは教の条件なり。いにしえの人、学びて以て徳を己に成さんことを求む。故に人に教ふる者は教ふるに条件を以てす。学者も亦条件を以て之を守る。きょうの三物、しゃの五物の如きは是なり。けだし六芸は皆之有り。徳を成すの節度なり。其の事に習󠄁ふこと之を久しうして、守る所の者成る。是れ「物きたる」とふ。

其の始めて教を受くるにあたりて、物なお我に有らず。これを彼に有りて来らざるにたと其の成るに及びて物は我がゆうる。これを彼より来り至るにたとふ。其の力をれざるを謂ふなり。故に「物格る」と曰ふ。格とは来なり。教の条件の我に得るときは、則ち知は自然に明らかなり。是を知至ると謂ふ。また力を容れざるを謂ふなり。

鄭玄じょうげん、大学を解して、格を訓じて来と為す。古訓の尚存する者しかりと為す。朱子解して理をきわむと為す。理を窮むるは聖人の事、あに之を学者に望むべけんや。且つ其の解に曰く、「物の理にきわめいたる」と。是れ格物に窮理を加へて、而る後義始めて成る。文外に意を生ずと謂べし。あに妄に非ずや。且ついにしえ所謂いわゆる知至るとは、これを身に得て、而る後、知始めて明らかなるを謂ふなり。而るに朱子は外に在る者を窮めて、吾が知を致さんと欲す。強と謂ふべきのみ。且つ中庸ちゅうように、「己を成すは仁なり、物を成すは知なり」と曰ふが如きも、亦学問の道を謂ふなり。(中略)

其の臆にまかせて肆言しげんせず、必ず古言を誦して以て其の意をあらわすを言ふのみ。古言、相伝はりて宇宙の間に存す。人は古言を記憶して其の胸中に在ること、猶物有るが如く然り故に之を物と謂ふ。し臆に任せて肆言しげんするときは、則ち胸中に記憶する所有ることく、一物有ること莫し。是れ物無きなり。「おこないきたすこと有り」と曰ふ者は、言は格すを待たずして、いたずらに古言を記憶して之を言ふのみ。行に至りては、則ち必ずこれを身に得んことを求む。故に行にきたすこと有りと曰ふ。格すときは則ちつねに久し。故に又「行に恒有り」と曰ふ。其の義は一なり。(同、第一巻 「弁名」下 p.124~125 改行・太字は引用者)

 

古言を記憶することは、胸の中に物があるようなもの、まるで彼方にあってここにない物が手元にやって来るように―主に太字部分で言われているこの「たとえ」を、さまざまな例を挙げて繰り返し語る徂徠の言い方に慣れていくうちに、彼が伝えんとする「物」が、私のところにやってくるように感じた。そうしてみると、私の何十倍も精しく徂徠から「物」を受け取った小林秀雄の『本居宣長』の文章が、いかに正確にこの「物」を語っていることか、と驚いた。

 

物を以てする学問の方法は、物に習熟して、物と合体する事である。物の内部に入込んで、その物に固有な性質と一致する事を目指す道だ。理を以てする教えとなると、その理解は、物と共感し一致する確実性には、到底達し得ない。物の周りを取りかこむ観察の観点を、どんなに増やしても、従ってこれにる分析的な記述的な言語が、どんなにくわしくなっても、習熟の末、おのずから自得する者の安心は得られない。「礼楽言ハズ、何ヲ以テ言語ノ人ヲ教フルニ勝ルヤ。化スルガ故也。習ヒテ以テ之ニ熟スレバ、未ダ喩ラズトイヘドモ、其ノ心志身体既ニヒソカニ之ト化スツヒニ喩ラザランヤ」、―と徂徠は言う。「其ノ心志身体既ニ潜ニ之ト化ス」とは面白い言い方だが、言うまでもなく、これは、教うるに理を以てする者、あるいは言語を以てする者の弱点を突いたものだ。そういう「心ヲルコトノ鋭ナル」人達は、どうしても知的な意識に頼り、意識に上らぬ心身のひそかな働きを軽んずる。「徳ハ身ニ得ル也」という言い方は、古言では普通なのだが、朱子のような学者には、心に得ると言わないで、身に得るというのが浅薄と映る。―「古言ヲ知ラザルノ失ノミ。古ヘハ身ト心トヲ以テ対言スル者無シ。オヨソ身ト言フ者ハ皆己レヲフ也。己レナレバアニ心ヲ外ニセンヤ(「本居宣長」第三十三章 同、第28集 p.31 8行目~太字は引用者)

 

徂徠は「弁名」の「礼」のなかで、「習ひて熟す」ことによって体が「化す」と言い、「礼は物なり」とも言っている。心と体とをついの概念として考えることが習慣化している現代人にはわかりにくいが、古代人にはそのような分別は必要なかった。「身」という言い方をすれば「心」もその一部に含まれており、己を「化す」には、体を「化す」以外の方法はないのだ。

また、言葉には言葉自体の自律した生きざまがある、という意味でも言葉は「物」であるという。再び『考えるヒント』から、「考えるという事」という文章を引きたい。

 

宣長の言う「物」には、勿論もちろん、精神に対する物質というような面倒な意味合いはないので、あの名高い「物のあはれ」の「物」である。宣長もまた徂徠の言う「世ハ言ヲ載セテ以テウツル」という事について、非常に鋭い感覚を持っていた。宣長は「下心」という言葉をよく使うが、言葉の生命は人が言葉を使っているのか、言葉が人を使っているのか定かではないままに転じて行く。これが言葉に隠れた「下ごころ」であり、これを見抜くのが言語の研究の基本であり、言葉の表面の意味は二の次だ、という考えである。

宣長の、物という名の、弁名にれば、「物のあはれ」という風な語法は、言うを物言う、語るを物語るというたぐいで、「あはれといふ物」から転化したものである。「あはれ」という言葉は、もともと「心の感じ出る、なげきの声」で、人の世に、先ず言とも声ともつかぬ「あはれ」という言葉が発生したとするところに、宣長は、この言葉の絶対的な意味をつかんだのだが、人は、「あはれ」という言葉を発明すると、言葉の動きという「下心」によって、「あはれを知る」とか「あはれを見す」とかと使われるようになる。「あはれ」という情の動きが固定され、「あはれ」と感ぜらるるさまを名づけて、あわれという物にして言う事が、おのずから行われる。それだけの話だ。それだけの話だが、こういう宣長の考えを心に止めて置くのは、彼の学問の方法を何んと名づけようかと急ぐより、よほど大事な事と思われる。宣長にとって、「物」とは、考えるという行為に必須な条件なので、「物」という言葉は、そのように働けば、それで充分な言葉なのである。前に言ったように、「考える」とは、何かをむかえる行為であり、その何かが「物」なのだ。徂徠が、「物トハ教ヘノ条件ナリ」と言う時も、同じ事を言っているのである。(『小林秀雄全作品』第24集 p.59 11行目~「考えるという事」)

 

言葉は「下心」をもっており、それが言葉を使う人に「あはれ」という「物」を教える、そうやって言葉と人とのあいだで「物」が行き交い、言葉は意味を転じていく。個々の人間よりも永い時間を生きている言語から、人は学ぶばかりではなく、使役されたり貢献したりしているというのだ。言葉の「下心」については宣長の考えであるので、機会を改めて考えたい。

また、『本居宣長』第三十四章以降で言われている、命名行為の渦中にある人の「心」の中の様子についても、徂徠を離れて宣長の文章を見る必要がある。中国の歴史はあまりに古いので、聖人達の胸の内までは伝わっていないのか、あるいは当時の人々には当たり前のことだったので語り伝える必要がなかったのか。一方、「古事記」を「物」として我が身に迎え入れた宣長は、命名行為の只中ただなかにある古人の心中まで描き出している。古来から、「古事記」を読んだ人は大勢いた。そのなかでたった一人、宣長だけが「古事記」の言葉を、行為として我が身に再生し「物」として受け取った。荻生徂徠の「物」から学ぶ道を、さらに深く進んだ本居宣長は、そのときの「心」の様子まで文章に著した、最初で最後の人ではないだろうか。

(了)