『本居宣長』を手におしゃべりする四人の男女。今日は第二十六章の終りの方が話題のようだ。
元気のいい娘(以下「娘」) 第二十六章の最後に「契沖にひどく同感した宣長にしてみれば、(筆者注;北条)時頼の遺偈の姿が、『さとりがましき』と見えたのなら、(筆者注;在原)業平の歌は、『さとり』の姿をとっていると見えたであろう」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集297頁)と書かれてるけど、さとりがましいって、どういうことかな。
凡庸な男(以下「男」) 何々がまいしという言い方は、何かネガティブな印象があるよね。
生意気な青年(以下「青年」) 差し出がましいと言えば、出しゃばりにもほどがあるという不快な感じだし、未練がましいといえば、未練たらたらで鼻につく嫌な感じだね。
男 晴れがましいなんて言い方もあるから、ネガティブ一辺倒ではないと思うけど、これも、単に晴れやかというだけでなくて、なんとなく何かを強調してるみたいだよね。
娘 じゃあ、時頼は、さとりすぎちゃってたわけ?
青年 それは違うだろう。宣長さんは「かかるさとりがましきいつはり言する」と言っている。さとったことを誇示するかのような表現に偽りを見出し、腹を立てている。
娘 じゃあ、宣長さん、業平がさとりを開いたって思っていたのかな?
江戸紫の似合う女(以下「女」) そうではないの。宣長さんは、そもそも、さとりがどうのこうのということに、関心はないのじゃないかしら。
男 「ほうしがましい」のは嫌いってことかな
女 さあ、どうかしら。仏さまへの信心は篤かったのかもしれないわ。でも、時頼の遺偈みたいなのは、漢ごころのなせる偽りだと思っていた。
青年 それに対し、業平の歌に偽りはない。さとりを開いたかの如く、それらしいうわべを見せかけるのではない。自分の自然の感情を素直に現した、ということだね。
男 でも、誰もがみんな、死を目前にして、業平みたいな歌が詠めるわけではないよね。多くの人は、時頼みたいな偽りの人生を送ったことにされちゃうのかな。
女 いや、別に、時頼の人生と業平の人生のランク付けをしているわけではないわ。
男 閻魔様じゃあるまいしね。
女 あくまで表現の話だわ、小林先生も、宣長さんは「古文の姿については、驚くほどの眼を持っていた」と書いていらっしゃる(同頁)。
娘 時頼と業平では、文学的才能が段違いということ?
女 宣長さんや小林秀雄先生が問題にしているのは、ちょっと違うことなの。
娘 というと?
女 時頼の遺偈は、「吾妻鑑」に出て来る。「吾妻鏡」は知ってるわね。
娘 名前くらいはね。鎌倉時代の歴史書だけど、北条氏が自己正当化のために作ったんでしょう。
女 そういわれているわね。ということは、時頼の遺偈も、時頼を称えるためのもの。時頼本人が本当に作ったにせよ、「吾妻鑑」の編纂者が書いたにせよ、こういう遺偈を残すのは素晴らしいことで、後世の人もそう思って時頼を偉いと思うに違いない、と思っていたわけよね。
男 なるほど。そういう、やましい下心が見て取れるから、宣長さんが嫌うわけだね。
女 ええと、どうかしら、やましいということではなくて。
娘 えっ。いまわの際にまで見栄を張ろうなんて、ゲスそのものじゃん。
男 そうかな。死を目前にして信心を深めようとするのは、よいこと、立派なことかもしれないね。
娘 宗教なんて、そもそも馬鹿じゃん?
女 確かに、私たちは、技術万能で、物欲が全開の世俗化した世の中にいるから、信仰なんて、「馬鹿じゃん」って言いたくなるのは分かるわ。でも、中世にまでさかのぼれば、人知も、人力もたかが知れていて、来世とか地獄とか、もっとリアルだったはずよね。
娘 それは昔のことでしょ。
女 過去の遺物というわけね。でも、世俗化した世界にいる私たちだって、良心なるものを持ってるつもりでしょう。金がすべて、金銭的に評価できない価値など無意味って割り切ってるお方も、なかにはいるかもしれない。でも、そうでない人、真、善、美といった無形の価値の存在を認めている人も多いのじゃないかしら。
男 すくなくとも、小林先生の読者はそうだね。
女 みんな、よりよい生き方というものがありえて、自分はそれを目指したいと思っている。その点では、悟りを求めた時頼も、変わりはないのだと思うの。出発点は、やましいことではないかもしれない。
青年 でも、時頼のは、結局、見栄っ張りに陥ったわけでしょう?
女 それだって、私たちと、それほど違った振舞かしら。私たちは、いまさら辞世なんて詠まないけれど、いろいろな場面での思考や発言で、良心的であろうとする。でも、第三者が冷静に観察すれば、良心的に見えるように、自分の外側にある何かに縛られているのかもしれないわ。
青年 「良心がましい」とでもいいたいわけ?
娘 えー、なんかわかんないよ。
女 時頼だって、何も初めから、さとりを偽装しようなんて思ってはいないはずだわ。でもいざ遺偈を残すとなると、知らず知らずにうわべを飾ってしまう。その点は、私たちだって同じだと思うの。何かを話したり、書いたり、もっと言えば内心の独り言だって、良心的に見えるようにしよう、少なくとも良心的でないように見えないようにしようという、内心のアクセルやブレーキが作動しているのじゃないかしら。そういうのと無関係に、自然体で語るなんてとてもむずかしいことだわ。
娘 自然体って、業平みたいにということ?
女 そう。宣長さんが、時頼の遺偈が「いつわり」だというのも、時頼の生き方を断罪しているのではなくて、遺偈の表現に、立派な人物だとみられたいという底意が見て取れる、つまり、時頼の人となりをありのままに表してはいない、ということなんだわ。
男 それで、「時頼の言葉は死んでいる」、なんとなれば「遺偈は、時頼という人間の姿をしていない」と断じたわけだね(同上)。
女 時頼の遺偈は、宣長さんによって「読まれるより先きに、そのあやしげな姿が見て取られていた」(同上)ということね。文の姿が問題なの。
男 でも、そういうのは、遺偈とか、和歌とか、かなり特殊な世界の話じゃないの?
女 そうでもないの。 さっき「吾妻鑑」の話が出たわね。小林先生に『実朝』という作品があるでしょう(同第14集191頁)。そこで小林先生は、「吾妻鑑」を素材にいろいろ論じていらっしゃる。「文章というものは、妙な言い方だが、読もうとばかりしないで眺めていると、いろいろな事を気付かせるものである。書いた人の意図なぞとは、全く関係ない意味合いを沢山持って生き死にしている事がわかる」(同上193頁)
娘 あっ、読んだ読んだ。その上で、「(筆者注;源)実朝の心事なぞには凡そ無関心なこの素朴な文章が、なんと実朝の心について沢山な事を語ってくれるだろう」(同上199頁)と書かれている。
女 そうね。筆者の表向きの執筆意図や内心の願望なんかとは無関係に、残された文の姿から、色んなものが読み取れるのよ。
青年 僕らが日常生活で、淡々と事実を記録しているつもりでも、知らず知らず見栄を張っているかもしれないというわけか。
娘 そういえば、実朝は「万葉ぶり」の歌人だって高校の先生が言ってたけど、実朝の歌って、万葉の姿をしてるわけ?
女 学校の先生のそういう言い方にも、同じような落とし穴があるの。
娘 同じような?
女 文を書くときに気づかぬうちに見栄を張ってしまうのと同じようなことが、文を読むときにも起きるんだわ。
男 なんだって?
女 私たちは、「(筆者注;賀茂)真淵によって主張され、子規によって拍車をかけられた、『万葉』による実朝の自己発見とうい周知の仮説」(同上198頁)に捕らわれているから、そういう仮説に沿うように実朝の歌を「解釈」してしまう。でもそれは、実朝の歌の姿に見入ってるのではなくて、補強証拠を集めて「仮説」を反復しているだけだと思うの。
青年 そういうやり方では、実朝という人間の姿にはたどり着けないということだね。
女 結局、歴史学者や文学関係者たちは、自分たちの考え方の枠組みを持ち込んで、その枠組みの中に実朝を取り込むというやり方なのよね、自分たちが考えたいように考え、感じたいように感じているに過ぎないのだわ。
娘 でもそれは、学者さんたちのような、頭でっかちの人たちの話でしょう。
女 そうでもないのよ。実朝という歌人は何百年も前に非業の死を遂げ、その歌が残った。長い年月が過ぎても、歌の姿は動じることはない。でも、私たちは、実朝の歌の姿に素直に向かい合うことはできない。どうしても、実朝の歌をこちらに引き付けて、自分の感情や気分にどう影響を与えたかというふうに、自分を基準に読んでいるのじゃないかしら。
男 そうかなあ。作者の心理とか、作歌の背景とかにも思いを巡らしているつもりだけど。
女 そういう「心理」とか「背景」とかいうものも、現代人が理解し、共感できる限りで採用されるわけでしょう。ほんの二百年もさかのぼれば、何が正しいかの基準が常に過去にあり、たとえば身分というものが疑いようのない秩序として厳然と存在していた社会が存在していた。でもそういう世界で生きていた人の心持ちとか人間関係なんて、私たちには容易に想像できないのよ。
娘 どうすればいいのかなあ?
女 難しいわね。わたしなんかが言うのはおこがましいけれど、まずは、小林先生が、古人とどのように向き合っていらっしゃるか、その様子をご著書から見てとることじゃないかしら。
男 うーん、なんか説教がましいね。
女 あら、今日は一本取られたことにしておくわ。
四人のおしゃべりは、とりとめもなく続いていくのであった。
(了)