契沖と熊本Ⅲ

坂口 慶樹

六、牛方うしかた馬方うまかた騒動

 

慶長十七年(一六一二)六月十四日、徳川幕府から加藤忠広に無事朱印状が下され、忠広は父清正の跡を継ぎ、肥後五十四万石を正式に襲封しゅうほうすることになった。

ところが、それを待つことなく、契沖の祖父下川又左衛門元宣が逝ってしまう。清正の肥後入国以来、長きにわたり「るすのかみ」として、堅牢な銃後の守りを果たしてきた人物であっただけに、十一歳の忠広も藩も大きな支柱を失ってしまった。

この事態を受け幕府は、加藤丹波守(丹後、南関城代、加藤美作の息)、加藤右馬允うまのじょう(正方、八代城代)、加藤大和守(与左衛門、佐敷城代)、並川但馬守(志摩守、一番備頭)、下川又左衛門(熊本城留守居役)という五家老による合議制を指示した。ここで下川又左衛門とは、元宜の嫡男、契沖の伯父元真のことである。

翌慶長十八年(一六一三)、徳川家と加藤家との血縁をさらに深めるべく、家康の三女振姫と会津藩主蒲生がもう秀行(*1)との間に生まれた琴姫を、将軍秀忠の養女として忠広の正室に迎えることが決まった。ちなみに、第五章でも述べたように、忠広の相続と引換えに幕府が破却を命じた宇土城の天守は、熊本城に移築された。琴姫を迎えるという趣旨もあったのだろう。現在私たちが目にする熊本城の天守閣は大天守と小天守の二つからなっているが、当時の小天守は、宇土から移築されたものだったのである(*2)。なお、従来から、熊本城の宇土櫓(国指定重要文化財)は宇土城から移築されたものと言われてきたが、現在では俗説として否定されている。

一方、慶長十九年(一六一四)の大阪冬の陣、慶長二十年(元和元年、一六一五)の夏の陣を経て、豊臣家を滅亡させた徳川幕府は、矢継ぎ早に天下統制策を打ち出していった。まずは同年六月に「一国一城令」を発令。熊本では、すでに清正から忠広への相続時に、熊本城以外の七支城のうち、水俣、宇土、矢部の三城が破却されていたため、残る南関なんかん内牧うちのまき佐敷さじき八代やつしろのうち八代城以外が破却され、例外的に一国二城となった。

同年七月には、「武家諸法度はっと」も発布された。同時に、天皇や公家に向けては「禁中並公家諸法度」が、寺社には「五山十さつ法度」が発布され、すべての武家・公家・寺社に対する統制が強まったのである。

元和げんな二年(一六一六)には、ついに徳川家康が逝去した。二代将軍秀忠は、弟でもある高田藩の松平忠輝(*3)の改易など、諸大名への統制の手綱をさらに引き締めていく。

 

そのような、江戸幕府からの引き締めが一層強くなりつつある状況のなか、熊本の加藤家内では不穏な空気が流れ始めていた。若い藩主忠広の家臣団が、家老の加藤右馬允派(通称、馬方)と加藤美作みまさか(同、牛方)の二つに分かれ、例えば、大阪の陣の際の対応のあら・・捜しをするなど、いがみ合っていたのである。福田正秀氏によれば、この通称「牛方馬方騒動」のことは、当時、小倉藩主であった細川忠興ただおき(*4)の耳にも届いており、熊本のなかだけでは収まらない状況に至っていたようである。

この騒動も、ついに元和四年(一六一八)には、幕府の知る所となる。加藤家の政治顧問であり、幕府から国政監察の役目も与えられていたと思われる棒庵が、幕府に目安(訴状)を上げたのである。この訴状に対しては、牛方の美作・丹後親子から反論があり、その中で、契沖の伯父下川又左衛門元真も、馬方派の一人としてやり玉に挙がっている。幕府は、忠広と、牛方・馬方の主要人物を江戸城に集め、将軍秀忠が双方の言い分を聞いた。結論としては、牛方の負けと裁断され、結果として、家老で牛方派の頭目である加藤美作親子、藩主忠広の伯父玉目丹波など二十六人が他家へ配流御預けとなるなどの処分が下った。十七歳の忠広はまだ若く藩政を執っていなかったとして、無罪、お構いなし。他藩では、似たような状況下で改易となった事案があっただけに、下川又左衛門も大いに肝を冷やしたに違いない。

幕府は、向後、馬方家老の加藤右馬允(正方)を中心に執政に当るよう命じた。それを受けて加藤家内では、家臣団の新体制への刷新が行われた。騒動の論功も行われ、下川又左衛門は、二千九百石あまり加増され一万石の三番家老となった(「加藤家御侍帳」(永青文庫蔵・時習館本))

 

騒動の翌年、元和五年(一六一九)三月には、八代地方に大地震が起きた。当時の記録によれば、「山鳴り、谷こたえ潮ひるがえり水湧き城郭崩壊し……」とあり(「浄信寺興起録」)、平成二十八年(二〇一六)に起きた熊本地震のような感じではなかっただろうか…… 「城郭崩壊」とある通り、熊本の支城で筆頭家老が居城する八代城(当時は、麦島城)が完全崩壊してしまった。右馬允は忠広を通じて再建に動いた。幕府としては「一国一城令」を発していたところに加え、先だっての騒動があったばかり、という状況にも拘わらず、南隣する薩摩島津藩の動向も見据えつつ、対外的な防衛上の要所としても認識していたため、再建を認めることとなった。

一方忠広は、徳川幕府に対してもしっかり汗をかいた。新八代城を着工したばかりの元和六年(一六二〇)、幕府から北国・西国の大名に対して、大阪城の再建につき「天下普請てんかぶしん」の要請が下りた。この工事は、秀吉の築いた旧大阪城の石垣を地中深く埋め、その上に旧城を遥かに上回る規模で新しく石垣を築き、まったく新たな徳川大阪城を完成させるという一大プロジェクトであった(*5)。加藤家は、城の表口となる大手口を担当した。現在のNHK大阪放送局や大阪歴史博物館付近から大阪城公園に入り、大手門より城内に入った正面に、忠広が築いた「大手口升形ますかたの巨石」群を目の当たりにすることができる。なかでも真正面にある「大手見附石」は、表面が約二十九畳敷(約四十八平方メートル)で城内第四位の大きさを誇る(*6)。今やほとんどの観光客は素通りするのみだが、読者の皆さんには、ぜひ近くに寄ってその大きさと重量を体感するとともに、当時の忠広の心持ちにも思いを馳せてみていただきたい。さらに忠広は、その新天守閣の建設も命じられた。竣工は寛永三年(一六二六)、彼にとっては外聞をはばかるような騒動もあったなかで、清正来の「土木の神様」の家系を継ぐ者として、大いに面目躍如するところがあっただろう。

 

七、肥後の国難、極まる

 

寛永九年(一六三二)は、「肥後の国難」が極まる一年となった。

一月、三代将軍徳川家光(*7)を差しおいて幕府の実権を掌握していた「大御所」秀忠が亡くなった。忠広にとって秀忠は、正室の琴姫の父に当る。しかし、その秀忠の大喪により許された熊本への帰国に際し、忠広は、こともあろうに側室の法乗院(玉目丹波の長女)と、その間に生まれていた子ども、藤松と亀姫との三人を江戸藩邸から熊本へ連れ帰ってしまった。「武家諸法度」で大名妻子の江戸居住が規定されるのは、三年後の寛永十二年(一六三五)からとはいえ、すでに広く慣習化している決まりごとであり、幕府からすれば大いなる暴挙と映っても仕方がない行動であった。

さらに四月には、忠広の嫡男の豊後守光正(正室、将軍秀忠の養女琴姫との子)が事件を起こした。ちょうど三代将軍家光が、秀忠の喪中にも拘わらず家康の十七回忌にあたり日光東照宮へ参詣を決めたばかり、という時節であった。

「幕府年寄の土井利勝と加賀藩主の前田利常が結託して謀反を起こすことを将軍家光が知り、誅伐されることになった。先手をとって家光を討たれよ、お見方申し上げる」という趣旨の文書が、旗本の井上新左衛門の屋敷に届けられたのだ。幕府が捜索したところ、届けた者は加藤光正の家来で、主人の指示によると白状した。井上新左衛門は光正の知人であり、光正にしてみれば、ほんの悪戯いたずらのつもりだったようだ。しかしながら、家光にしてみれば、父秀忠の死去を受け、幕藩体制のさらなる強化に向けて将軍としての力を発揮しようとしていた矢先であったし、わけても幕府と肥後藩の間には、忠広への相続時に確約した「この度の将軍家の厚恩を忘れないこと、絶対に将軍家に背くことをしないこと」などを含む「五ケ条の起請文」もあった。

光正は、当時外桜田にあった泉岳寺で謹慎蟄居ちっきょ、熊本にいて幕府からの召喚を受けた忠広は急遽上京、池上本門寺で謹慎し沙汰を待つことになった。福田氏によれば、「幕府は慎重に関係者を取り調べて捜査を進め、諸大名に事件の経緯を事前に知らせ、複数の老中を派遣して忠広父子の言い分も聞き、徳川御三家の意見も聞いた上で処分を決定し」た。

五月二十九日、忠広父子に幕府の沙汰が下りた。光正の罪状は、謀書の件で「御つめのはしを汚し」(「綿孝輯録」巻三十二加藤家旧臣・田中左兵衛差出)たこと。「御つめのはし」とは、光正が母を通じて将軍家の血筋にあることを言っている。処分は、本来「切腹をも仰付られるべき儀」ではあるが「命の儀赦免なされ」飛騨高山の金森重頼(*8)預りとなった。一方、忠広の罪状は、「近年諸事無作法」(*9)に加え、江戸で生まれた子どもとその母を幕府に無断で熊本へかえしたたことが「公儀を軽ろしめ曲事くせごと」と判断された。処分は改易、肥後五十四万石を収公のうえ、出羽庄内の酒井忠勝(*10)預かりとなった。加藤家は、首の皮一枚、というかたちで残されたのである。

ちなみに周囲の諸藩や世評の大方の予想は、父子の切腹断絶であり、幕府にとっては寛大な、加藤家にとっては最悪の事態だけは避けられた処分となったわけである。とはいえ、肥後五十四万石(*11)の領地と清正渾身の名城熊本城が召し上げとなる。加えて、加藤家家臣団は、少なくとも一万人以上が一挙に家禄を奪われ、野に放たれることになった。

 

そのような江戸での処分を受けて、熊本の家臣団はどう動いたのか。幕府からの上使への城明け渡しか? 籠城か? 彼らは、現代の私たちもよく知る、それから約七十年後に播磨赤穂藩で起きた有名な事件と同じような決断を迫られたのである。

幕府の上使は、既に稲葉丹後守など四人が決まっていたところ、備後福山藩主の水野勝成(*12)が追加された。勝成は、当時七十歳手前の、百戦錬磨の戦国武将であり、忠広の公母清浄院(家康の養女として清正と結婚)の実兄でもあった。人脈と、豊富な戦闘経験を踏まえた有事の指揮官として期待された追加措置だったのだろう。

実はこの十三年前、幕府は、安芸広島の福島家改易時の開城に手こずった経験を踏まえ、主君忠広直々の、城を明け渡すようにとの指示を家老の加藤右馬允と下川又左衛門に持たせ、国許へ走らせていた。二人の家老らは、六月二十日過ぎに熊本に到着。まもなく熊本城の明け渡しが決まった。籠城と戦闘は回避された。

一方、上使を含め、関係諸藩の軍勢一万強が、細川藩の小倉港に到着したのは、七月十二日のことであった。さっそく細川忠利から熊本の加藤右馬允と下川又左衛門に対して、「(筆者注;七月)十四・五日の頃、(同;上使と一万強の軍勢は)此の方を御立ち有るべく候間、肥後の内、兵糧・馬のやしないくつ・わらぢ・まき・ぬかくさ、切れ申さずように御申し付け有るべく候」という懇切丁寧な連絡が届いた。契沖の伯父下川又左衛門も、城明け渡し後まで、膨大な残務処理に多忙を極めていたに違いない。

 

さて、他所への配流となった忠広と光正は、その後どうなったのか。

まず、忠広は庄内藩の酒井忠勝預かりとなった。同年六月三日の出立である。同行した者は約五十名、忠広生母の正応院(玉目氏)と側室(「しげ」と推定)の他、二十名の若き士分の者が入っている。その頃に詠まれた忠広自筆の歌日記「塵躰じんたい和歌集」のなかに、こういう歌が遺されている。父清正が愛用していた長い片鎌槍を形見に持参していたのだろう(*13)

たらちねの 父の片鎌 身に添へて ふたたび名をも 覚えける武者

 

そしてこの日記は、寛永十年(一六三三)九月八日の歌で終わっている。

ひとり寝の 寝られぬ秋の 枕には 虫のなく音も なを色々に聴く(*14)

「なを色々に聴く」という結句の言葉をながめていると、庄内から山側に入った丸岡の地で聴いた虫の音は、長く暮らした江戸や熊本で聴いたものとは、随分違っていたようである。

慶安四年(一六五一)、同行していた生母の正応院が亡くなった。

その死から二年後の承応二年(一六五三)、忠広も急逝する。加藤家の断絶であった。

 

一方、光正の一行は、十五人という少人数で、父忠広より一日早い六月二日に江戸を出立し同月中旬頃には高山へ入った。光正は、平安時代創建の古刹天性寺で過ごした。真っ先に行ったのは、祖父清正の位牌作りだった。しかし、彼の高山生活は短く、翌寛永十年(一六三三)七月に同寺で病死したと伝えられている。なお、高山藩主金森重頼が光正の一周忌供養に併せて建立した日蓮宗の菩提寺が、法華寺として今も残っている。そこには光正の位牌が、自作の清正の位牌と並んで祀られている。

 

さて、その光正が亡くなった約二か月後、故郷の肥後を京の都に向けて出立する、旧加藤家家臣の一人の若者がいた。西山宗因である。

 

 

(*1)天正十一年(一五八三)~慶長十七年(一六一二)

(*2)福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション、北野隆「加藤時代の熊本城について」谷川健一編『加藤清正 築城と治水』。

(*3)天正二十年(一五九二)~天和三年(一六八三)

(*4)永禄六年(一五六三)~正保二年(一六四五)。三男の忠利に家督を譲った。

(*5)北川央「怨霊と化した豊臣秀吉・秀頼」『大阪城をめぐる人々』創元社

(*6)現在の大阪城の京橋口から城内に入ったところに、「肥後石」と呼ばれている城内第二位の「京橋口枡形の巨石」があり、従来、加藤清正が運んできたとの伝承があったが、現在では備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれたことが判明している。

(*7)慶長九年(一六〇四)~慶安四年(一六五一)

(*8)慶長元年(一五九六)~慶安三年(一六五〇)

(*9)細川家史料における忠興と忠利の書簡を見ても、忠広について、気が触れたという意味合いの表現が頻出している。忠広の乱行について他藩にまで漏れ聞こえる状況にあったらしい。

(*10)文禄三年(一五九四)~正保四年(一六四七)

(*11)清正代から検地実高は七十三万石、忠広代には拡張が進み九十六万石あったと言われている。

(*12)永禄七年(一五六四)~慶安四年(一六五一)

(*13)清正愛用の片鎌槍をもった銅像を、熊本市西区花園にある本妙寺公園で見ることができる。自動車で直接行くこともできるが、ぜひ、本妙寺の大本堂から清正公の墓所・浄池廟じょうちびょうへと続く「胸突雁木」百七十六段と、その先の三百段の石段を歩いて登っていただきたい。ちなみに、浄池廟は清正の遺言を踏まえて、熊本城に相対し天守閣と同じ高さの地に置かれている。

(*14)徳川黎明会刊「金鯱叢書 史学美術史論文集第二輯」によれば、忠広自筆稿では「ねらぬ秋の……」となっているが、「ねられぬ秋の……」(れ脱)との頭注があり、本稿でもそのように記載した。

 

 

【参考文献】

・福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション

・鳥津亮二「西山宗因と肥後八代・加藤家」、『宗因から芭蕉へ』八木書店

 

(つづく)