三十七 太安万侶の苦心
前回は、「『古事記』の文体」と題して、元明天皇に「古事記」の撰録を命ぜられた太安万侶が、中国から渡来した漢字を用いて日本語を書き表すという難題を負って苦心する第二十八章の前半を読んだが、その最後には、「宣長は続けて言う」として、次のように言われていた。
――「此記は、もはら古語を伝ふるを旨とせられたる書なれば、中昔の物語文などの如く、皇国の語のまゝに、一もじもたがへず、仮字書にこそせらるべき」、――言ってみれば、そういう性質のものであったし、出来る事なら、そうしたかったのが、撰者の本意でもあったであろう、と宣長は言っている(「文体の事」)。安万侶は、そうはしたかったが、出来なかった。彼はまだ平仮字を知らなかった。簡単にそんな風に言ってみたところで、何を言った事にもならない。この先覚者が、その時、実際に強いられ、味わった国語表記の上の苦労は、まことに面倒なものであった。言うまでもなく、この苦労を、遡って考えれば、漢字以外には文字を知らなかったという、古代日本人の奇怪な言語生活に行き当る。……
前回はここまで読んで一区切りとしたのだが、これに続く第二十八章の後半は、次のように書き継がれている。
――わが国の歴史は、国語の内部から文字が生れて来るのを、待ってはくれず、帰化人に託して、外部から漢字をもたらした。歴史は、言ってみれば、日本語を漢字で書くという、出来ない相談を持込んだわけだが、そういう反省は事後の事で、先ずそういう事件の新しさが、人々を圧倒したであろう。もたらされたものが、漢字である事をはっきり知るよりも、先ず、初めて見る文字というものに驚いたであろう。書く為の道具を渡されたものは、道具のくわしい吟味は後まわしにして、何はともあれ、自家用としてこれを使ってみたであろう。事に黙って巻き込まれてみなければ、事の真相に近づく道は、開かれていなかったに相違ない。……
中国で生まれた漢字が、日本に渡ってきたのは一世紀のことであるらしく、令和六年、西暦2024年の今日からだと一五〇〇年前とも二〇〇〇年前とも言われているようだが、いつしか「古事記」と呼ばれるようになった歴史書の撰録を元明天皇が太安万侶に命じられたのは和同四年(七一一)九月十八日であったと安麻呂は「古事記」の序に記しているから、仮に小林氏が「本居宣長」の第二十八章を書いた昭和四十五年(一九七〇)を起点として一五〇〇年遡ると西暦470年となり、安麻呂が「古事記」の撰録を命じられた和同四年は漢字が日本に渡来してから二四〇年ほど経ってからだったという計算になる。
その二四〇年の間に、日本人は漢字をどう迎え、どう対応したかについて、小林氏は次のように言っている。
――漢語に固有な道具としての漢字の、驚くべき働きが、日本人に次第に明らかになって来るにつれて、国語に固有な国字がない事、持込まれたのは出来ない相談であった事が、いよいよ切実に感じられて来たと考えてよい。と同時に、相談に一たん乗った以上、どうあっても先きに進むより他はない事も、しかと観念したであろう。ここに、わが国上代の敏感な知識人なら、誰もが出会っていた一種特別な言語問題があった。理窟の上で割り切る事は出来ないが、生きて何とか納得しなければならない、誰もがそういう明言し難い悩みに堪えていたであろう。教養あるものの書く正式の文章とは、漢文であるという、いよいよ安定して来た通念も、この悩みを覆い切れるものではなかった。安万侶があからさまに語っているのは、その事である。……
と、小林氏は、「漢字以外には文字を知らなかったという、古代日本人の奇怪な言語生活」を懸命に思い出しながら続ける。
――彼(太安万侶/池田注記)は言う、自分は、謹んで詔旨に随おうと努めた、――「然ルニ上古ノ之時、言意並ニ朴ニシテ、敷キレ文ヲ、構フルコトレ句ヲ、於テレ字ニ即チ難シ、已因テレ訓ニ述ベタル者、詞不レ逮バ心ニ、全ク以テレ音ヲ連ネタル者、事ノ趣更ニ長シ、是ヲ以テ今或ハ一句之中、交ヘ用ヒ二音訓ヲ一、或ハ一事ノ之内、全ク以テレ訓ヲ録ス、即チ辞ノ理叵レ見エ、以テレ注ヲ明スレ意ヲ、況ムヤ易キハレ解リ更ニ非ズレ注セ」。……
これに続けて小林氏は、
――宣長の註には、「上古之時云々、此文を以テ見れば、阿礼が誦る語のいと古かりけむほど知られて貴し」とあり、又「言のみならず、意も朴なりとあるをよく思ふべし」と言う。……
と言って、次のように続ける、小林氏が、安麻呂と宣長の啓示を受けて、日本の古語の何たるかに開眼した、その告白とも言える文である。
――なるほど、よく思えば、安万侶の「言意並ニ朴」と言うのは、古語の表現形式、宣長の言い方では、古語の掛け代えのない「姿」を指して、朴と言っているのだと解るだろう。表現力の豊かな漢文の伝える高度な意味内容に比べれば、わが国の、文字さえわきまえぬ古伝の語るところは、単純素朴なものに過ぎないという卑下した考えを、安万侶は言うのではない。そのような考えに鼓舞されて、漢文を正式の文章とする通念も育って来たのだが、言語の文化が、この一と筋道を、どこまでも進めたわけではなかった。六朝風の書ざまに習熟してみて、安万侶の眼には、国語の独特な構造に密着した言いざまも、はっきりと見えて来たのであり、従って朴とは、朴とでも言うより他はないその味わいだと言っていい。古語は、誰かが保存しようとしたから、保存されたのではない。私達は国語に先立って、どんな言語の範例も知らなかったのだし、私達は知らぬまに、国語の完成された言いざまの内にあり、これに順じて、自分達の思考や感情の動きを調えていた。ここに養われた私達の信頼と満足とが、おのずから言語伝統を形成して、生きつづけたのは、当り前な事だ。宣長は、これを註して「貴し」と言うのである。……
小林氏は、続けて言う、
――こうして生きて来た古語の姿が、そのまま漢字に書き移せるわけがない、そうと知りながら、強行したところに、どんな困難が現れたか。国語を表記するのに、漢字の訓によるのと音によるのと二つの方法があったが、どちらを専用しても、うまくいかない、と安万侶は言う。「已ニ因テレ訓ニ述ベタル者、詞不レ逮バレ心ニ」とは、宣長によれば、「然言こゝろは、世間にある旧記どもの例を見るに、悉く字の訓を以て記せるには、中にいはゆる借字(当て字/池田注記)なるが多くて、其は其ノ字の義、異なるがゆゑに、語の意までは得及び至らずとなり」、そうかと言って、「全ク以テレ音ヲ連ネタル者、事ノ趣更ニ長シ」。「然言こゝろは、全く仮字のみを以テ書るは、字ノ数のこよなく多くなりて、かの因テレ訓ニ述ベたるに比ぶれば、其ノ文更に長しとなり」、そこで、安万侶は「或ハ一句ノ之中、交ヘ二用ヒ音訓ヲ一或ハ―事ノ之内、全ク以テレ訓ヲ録ス」という事で難題を切り抜けた。……
宣長の註解は、要を得ていると思われるので、ここでも、それに従うが、音訓を並用した文の他は、皆訓を以て録したのは何故か、と言えば、――「全く真字書にても、古語と言も意も違フことなきと、又字のまゝに訓めば、語は違へども、意は違はずして、其ノ古語は人皆知リて、訓ミ誤マることあるまじきと、又借字にて、意は違へども、世にあまねく書キなれて、人皆弁へつれば、字には惑ふまじきと、これらは、仮字書は長き故に、簡約なる真字書の方を用ふるなり、一事といひ、一句といへるは、たゞ文をかへたるのみなり」、「凡て此ノ序ノ文、同字を用ることを嫌へり」とある。……
――安万侶の言うところを、その語調通りに素直に受け取れば、(それがまさに宣長の受取り方なのだが)、「全ク以テレ訓ヲ録ス」と言うのが、彼の結論なのは明らかな事である。訓ばかりに頼っては拙いところは、特に音訓を並用もしたが、表記法の基礎となるものは、漢字の和訓であるというのが、彼が本文で実行した考えである。言い代えれば、国語によって、どの程度まで、真字が生かされて現に使われているか、という当時の言語感覚に、訴えた考えである。それでも心配なので、「辞ノ理叵レ見エ、以テレ注ヲ明スレ意ヲ」という事になり、極めて複雑な表記となった。……
――言うまでもなく、「古事記」中には、多数の歌が出て来るが、その表記は一字一音の仮字で統一されている。いわゆる宣命書も、安万侶には親しいものであった。しかし、宣長に言わせれば、歌は「詠むるもの」、祝詞宣命は「唱ふるもの」であり、仮字と言えば、音声の文に結ばれた仮字しか、安万侶の常識にはなかった。阿礼の誦み習う古語を、忠実に伝えるのが「古事記」の目的であるし、それには、宣長が言ったように、理窟の上では、全部仮字書にすればいいのは、安万侶も承知していたであろうが、実際問題としては、空言に過ぎないと、もっとよく承知していただろう。仮りに彼が常識を破って、全く音を以て連ねたならば、事の趣が更に長くなるどころか、後世、誰にも読み解けぬ文章が遺っただけであろう。阿礼の誦んだところは、物語であって歌ではなかった。歌は、物語に登場する人物によって詠まれ、物語の文を成しているので、歌人によって詠まれて、一人立ちしてはいない。宣長なら、「源氏」のように、と言ったであろう。安万侶の表記法を決定したものは、与えられた古語の散文性であったと言っていい。……
第二十八章は、さらに続く……。
(第三十七回 了)