【はじめに】
小林秀雄と丸山眞男と言えば、それぞれ「無常という事」、「『である』ことと『する』こと」という高校で学ぶ国語の定番教材の筆者であり、近代日本を代表すると言える人物である。と、つまらない紹介から始めても仕方がないのだが、実のところ私が両氏を知ったのは、高校時代の国語の授業だった。ちょうど十年前のことである。大学受験を目指す多くの高校生の一人として、さまざまな文章を読み、知識の詰め込みに勤しんでいた青年の脳に、この二作は、明らかに異質な刺激をもたらした。それは一言で言えば、感動の体験だったということだが、それならば私は何に感動したのか。ここで、あの表現が素晴らしかった、とか、あの論理に感嘆した、とか、言おうと思えば言えるのだろうが、それを言って何になるのか、という思いが、余計な言語化をためらわせる。要は、単に次のように言ってしまいたい。ただ、読むというより見つめるように作品に触れ、文章の姿に圧倒された体験があった。そういう体験が、小林秀雄と丸山眞男によって与えられたのである。
私は、小林秀雄に学ぶ塾、その中でも山の上の家の塾に入って二年が経った。池田雅延塾頭が主宰される「本居宣長」精読十二年計画は、途中からではあるが参加させていただき、いよいよ令和六年度の一年間を残すのみとなった。塾生として、「本居宣長」の精読、熟読はこれからも欠かせない。しかし、塾での学びとは別に、小林先生と丸山眞男氏の二人について、まとまった論考を書きたいという思いが強まった。なぜこの二人を引き合わせるか。それは、後に引用する「考えるヒント」の一節が契機になっている。両氏の思索のあり方には、それぞれ力強い個性がある。この二つの個性と同時に向き合うことは、難しいに違いないが、精一杯挑戦してみたい。小林先生は、偉大な日本の先人として、本居宣長を見たが、契沖や荻生徂徠や賀茂真淵らも生き生きと登場させることで、「本居宣長」という思想劇を書き上げた。私は、当然その仕事の足元にすら及ばないとしても、小林秀雄と丸山眞男という先人たちの、生きた思索の姿を描き出すことができればと願っている。それが本論考の動機である。もちろん、小林、丸山両氏の全てを包括するような、論考を企図しているわけではない。あくまで、山の上の家塾同様、具体的な文章の熟視、そこから生まれる自問自答によって、筆を進めていきたい。
【問い 懐に入り込むとは】
小林秀雄先生は「考えるヒント」連載の一つである「哲学」の中で次のように言っている。
――丸山真男氏の、「日本政治思想史研究」はよく知られた本で、社会的イデオロギイの構造の歴史的推移として、朱子学の合理主義が、古学古文辞学の非合理主義へ転じて行く必然性がよく語られている。仁斎や徂徠の学問が、思想の形の解体過程として扱われている仕事の性質上、氏の論述は、ディアレクティックというよりむしろアナリティックな性質の勝ったものであり、その限り曖昧はなく、特に徂徠に関して、私は、いろいろ教えられる点があったが、私としては、ただ徂徠という人の懐にもっと入り込む道もあるかと考えている。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集p.173-4)
ここで挙げられている丸山眞男氏の「日本政治思想史研究」は三つの論文を単行本としてまとめたもので、論文の内訳を示すと「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」「近世日本政治思想における『自然』と『作為』――制度観の対立としての――」「国民主義の『前期的』形成」の三つである。とりわけ、荻生徂徠について述べられているのは、前二者(それぞれ「第一論文」「第二論文」と以下では表記する)であるから、小林先生が言及しているのはこの二篇と推定できる。また、この二篇は、朱子学の批判者として現れた徂徠の姿を追った後に、本居宣長が国学者の立場から何を言っていたかについても細かく言及がなされる点で共通している。このことを念頭に論を進めていく。
先の「哲学」の一節に対して、私が問いたいのは、「徂徠という人の懐にもっと入り込む」とはどういうことか、である。小林先生は、丸山氏の論文を読んだ上で、もっと徂徠の懐に入り込む道を行った。この道について考えることは、同時に、私が、小林先生や丸山氏の懐に入り込む実践にもなるのではないか、そういう期待で、自問自答していきたい。
それではまず、小林先生が読んだ丸山氏の仕事について、見ていこう。
【研究の性質について】
丸山氏は、「第一論文」の中で、自らの論文の課題を、表面的な言説の分析ではなく、「思惟方法」の研究であることを明確にしている。
――(近世日本における:本多注)朱子学派・陽明学派の成立、さらに宋学を排して直接原始儒教へ復帰せんとする古学派の興起といふ近世儒教の発展過程は、宋における朱子学、明における陽明学、清における考証学の成立過程と現象的には類似してゐる。しかしその思想的な意味は全く異る。それは儒教の内部発展を通じて儒教思想自体が分解して行き、まさに全く異質な要素を自己の中から芽ぐんで行く過程なのである。たしかに日本儒教の狭義の政治思想は近世を通じて上述した様な封建的制約を終始脱出しなかつた。かヽる制約は儒教のみならず、それに対立する国学についてもいはれる。しかし変革は表面的な政治論の奥深く思惟方法そのもののうちに目立たずしかし着々と進行してゐたのである。われわれの課題はなによりまづこの過程を徂徠学にまで辿ることによつて、それが、徂徠学における思惟方法を継受しながら之を全く転換せしめた宣長学の成立を如何に準備したかを窺ふことにある。(東京大学出版会刊『日本政治思想史研究』p.14)
思想は外的な「現象」だけでは判断できないとして、「表面的な」言説の「奥深く」にある「思惟方法」に目を向けようとする丸山氏の研究方法は、たとえば小林先生の以下のような文章と並べてみると、その性質がわかりやすくなろう。
――文化現象を一応客観的対象と見なし、これを分析的に研究する一定の方法を見出す、それはよい。それが学問の進歩なのである。だが、文化現象は、誰も知る如く、形ある物であるとともに形のない意味でもあるのだから、研究上の客観的な方法は、飽くまでも遠慮勝ちなものである筈なのだが、文化を論ずるものは、知らず識らずの間に、自ら使役する方法に吾が身が呑まれて了う。客観的態度という言葉を弄しているうちに、考えてみれば、客観的態度というような、文化に対し、普通、人間が取れもしない態度が身に付いて了うものらしい。(「天という言葉」、「小林秀雄全作品」第24集p.148)
ここで使われる「文化」の語を「思想」に置き換えてみれば、ここで小林先生が批判している、研究の方法に呑まれてしまった学者のうちに、少なくとも先述の表明をしている丸山氏は入らないことが推察できる。それどころか、思惟方法すなわち学者の内部と向き合おうとする丸山氏は、思想現象すなわち学者の外部にあるものだけを「客観的」に分析することの限界に自覚的だったという点で、小林先生と問題意識を共にしているとさえ言えまいか。「第一論文」より以前に書かれた、「政治学に於ける国家の概念」で丸山氏は次のように言っている。
――しかしまず第一に私は政治的思惟が結局はあらゆる社会的思惟に付着している存在被拘束性をば只最も濃厚に帯びているからとて、その科学性に疑問を投げかけようとは思わない。何故なら社会的思惟に於て本質上不可分な主体と客体とを引き離し、一方、研究者をば社会的地盤を無視した「意識一般」に迄高め、他方対象の歴史性を抽象的普遍化により抹殺する思惟方法自体が一定の歴史的産物であり、現今その限界を露呈しつつあるものに他ならぬからである。寧ろ私は政治的思惟の不可避的な歴史的制約を率直に承認することから出発する。(岩波書店刊『丸山眞男集』第1巻p.7)
ここに引用した「何故なら」以降で述べられている思惟方法、すなわち社会的思惟における本来分離不可能な主体と客体を分離し、およびその双方を「一般化」ないし「抽象的普遍化」する思惟方法について、丸山氏ははっきりと「限界」を感じている。その代替となる研究方法は、研究対象についても研究者たる自身についても、社会的や歴史的な制約があることを率直に認めることから始まる、というのが丸山氏の考えであり、これはほとんどこれ以降の研究の所信表明とも言える。このことを踏まえて、先の第一論文の言葉を読み直し、また小林先生の「天という言葉」の一節を読み直すとき、両氏に共通するものとして、一つの手法に過ぎない客観性とか一般性とか普遍性といった言葉に惑わされずに学問をする姿勢が浮かび上がってくる。
同時に、両氏の相違にも目が向く。丸山氏が、政治学ないし政治思想史において「科学」であると考えているのは、「その科学性に疑問を投げかけようとは思わない」という表現から明らかである。一方で、小林先生は、科学として批評活動をしていたわけではない。すでに確認したように、両氏の学問において土台となる姿勢、視座には共通するものがありうるとは言え、それが彼らの仕事が類似したものであることを示す根拠には全くならないことは、現時点で一言付け加えたいと思う。
【丸山眞男の二つの論文の構成】
さて、ここからは、丸山氏が徂徠についてどのような考察をしたかを細かく見ていこう。そのために、第一論文、第二論文の構成目次を見る。
「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」(第一論文)
第一節 まへがき――近世儒教の成立
第二節 朱子学的思惟様式とその解体
第三節 徂徠学の特質
第四節 国学とくに宣長学との関連
第五節 むすび
「近世日本政治思想における『自然』と『作為』――制度観の対立としての――」
(第二論文)
第一節 本稿の課題
第二節 朱子学と自然的秩序思想
第三節 徂徠学における旋回
第四節 「自然」より「作為」への推移の歴史的意義
第五節 昌益と宣長による「作為」の論理の継承
第六節 幕末における展開と停滞
両論文の構成目次だけを見ても明らかなように、丸山氏の筋道は、前提としての朱子学、その批判者としての徂徠、さらにその継承者としての宣長、という一本線が見えやすくなっている。徂徠を述べるにあたって、前提としての朱子学とその帰結としての思想構造を述べる第一論文の第二節、第二論文の第二節。次いで徂徠はその批判者として位置付けられる第一論文の第三節、第二論文の第三節と第四節。その徂徠の思惟方法が、特に宣長についてどう継承されているかの確認が続く第一論文の第四節、第二論文の第五節。以下では、この両論文に共通するこの筋道に沿って、朱子学、徂徠学、宣長学の特質を、両論文を合わせて吟味していきたい。
それに先立ち、一点留意したい。先の概略を述べるにあたり、便宜上、私は、徂徠を「批判者」としたが、その急所は、徂徠の朱子学への批判がどのような性質であったかということである。ここを見落とすと丸山氏の論文の意義が全く失われると言ってよい。すでに引用した箇所からも窺える通り、徂徠による批判は、朱子学の見解に対する表面的な批判ではなく、そもそものより根本的な思惟方法に変革をもたらすような批判であったということが、丸山氏の強調するところなのである。このことは常に忘れず筆を進めよう。
【丸山論文に沿って その一 朱子学について】
まず徂徠の批判の矛先であった朱子学について、丸山氏は第一論文の第二節で次のように要約している。
――かくてわれわれは厖大な朱子学体系を蒸溜してそこに、道学的合理主義、リゴリズムを内包せる自然主義、連続的思惟、静的=観照的傾向といふ如き諸特性を検出し、かうした諸特性を貫く性格としてオプティミズムを挙げた。(東京大学出版会刊『日本政治思想史研究』p.29)
ここで使われているいかにも概念的な用語については、丸山氏がこれより以前の部分で詳しく書いているが、ここで一つひとつを追い直す余裕はない。とは言え、列挙された概念は相互に結びついているので、それぞれ独立したものとして確認することにそもそも意味はない。むしろ、そのうちのいくつかに絞って再検討をすることで、丸山氏が描こうとした朱子学の特性全体の適切な要約を書き得ると考えられる。そこで、「連続的思惟」と「オプティミズム」に絞って、その意味されるところを確認する。
――かうした道徳性の優位にも拘らず、道理は同時に物理であることによつて、換言せば倫理が自然と連続してゐることによつて、朱子学の人性論は当為的=理想主義的構成をとらずむしろそこでは自然主義的なオプティミズムが支配的となる。(同p.27)
あるいは次の箇所も参照しよう。
――人性論におけるオプティミスティックな構成はこの様に規範が自然と連続してゐる事に胚胎してゐた。ところでこの連続的思惟といふことがまた朱子哲学の大きな特色である。われわれが宇宙論において見た「理」の超越即内在、実体即原理の関係もかヽる連続的思惟の表現である。(同p.28)
丸山氏が「連続」と言って特に述べているのは、倫理ないし規範と自然の連続のことである。オプティミズムすなわち楽観主義とは、この連続性を疑わない思惟方法を指している。この連続性を保証しているのは「理」である。これを踏まえて、第二論文の第二節の中にある次の文章、
――天地万物は現象形態に於て千差万別であるが、それは畢竟一理の分殊したものにほかならぬ。自然界の理(天理)は即ち人間に宿つてはその先天的本性(本然の性)となり、それはまた同時に社会関係(五倫)を律する根本規範(五常)でもある。
まとめれば、理によって自然と人間を連続的・統一的に説明しようというのが朱子学の体系の底にある思惟方法であり、その連続性が楽観的に疑いなく認められる限りにおいて、朱子学は成立している、というのが丸山氏の見立てなのである。
(つづく)