八、肥後牢人の「肥後道記」
西山宗因とは、第二章でも触れた通り、ともに元禄の文豪とも呼ばれた松尾芭蕉や井原西鶴が敬愛した、肥後生まれの連歌師であり俳諧師である。宗因(諱は豊一)は、加藤清正の家臣、西山次郎左衛門の子として、慶長十年(一六〇五)に熊本で生まれた。慶長十年と言えば、関ヶ原の戦いも終結して五年、清正も、天草など一部を除く肥後全土を領有し、「肥後守」の官途も得て順風満帆、熊本にも平穏が訪れていた頃である。
その後、慶長十六年(一六一一)に清正が没し、翌年には息子の虎藤が加藤忠広として正式な相続を許された。ほぼ時を同じくして、契沖の祖父下川又左衛門とともに、清正と忠広を支えてきた加藤右馬允正方が、阿蘇内牧城代から八代城代に異動した。その約七年後の元和五年(一六一九)、十五歳の宗因は正方の側近として仕えることになる。
肥後の国難の極みともいえる、加藤家の改易の処分が下されたのが、それから十三年後の寛永九年(一六三二)である。同年五月には、忠広と正方は江戸に召喚された。宗因は、熊本に引き返して城を受け取る幕府上使を迎える準備を担当した正方に同行し、慌ただしい時間を過ごしたものと思われる。城の明け渡し後も、ただちに正方に従って上洛、さらに江戸に下ったあと、翌十年(一六三三)の七月頃に京都へ戻った。
しかし、「猶、住みな(慣)れし国の事はわすれ(忘)れがたく、親はらから(同胞)恋しき人おほ(多)くて」(以下()は坂口注)、城主も替わってしまった熊本に帰郷する。しかし、家族と再会を果たしても、前年からの一連の出来事について、交わす言葉も見つからなかった…… 老親や旧友には慰留されたものの、「行末とてもさだ(定)めたる事もなけれど」、京都では人目をはばかることもなかろうと、ついに宗因は、故郷を出て再上京することを決意、九月下旬に出発した。
その道中を記した紀行文が遺されている。「肥後道記」(*1、以下「道記」)である。「道記」については、専門書や論文のなかでは一部を抜粋するかたちで紹介されているものの、一般書でその内容や注釈を概括的に目にする機会はほとんどないため、ここでは少し詳しく本文を見て行きたい。少々長くなるが、読者の皆さんには、ぜひ当時の宗因の心持ちになって、もしくは宗因の旅に同行する立場で、ともに読み進めていただければと思う。
まず、冒頭は「飛鳥川の渕瀬常ならぬ世は、今更おどろくべきにしもあらねど」という前置きから始まる。この文章は、「古今和歌集」(以下、「古今集」)の以下の歌が背景にあるようだ。
世の中は なにか常なる あすか川 昨日の淵ぞ 今日は瀬となる
(よみ人しらず 巻第十八、雑歌下 九三三)
飛鳥川は河道が不安定なため、常ならぬことを現すものとして歌われてきたように、宗因にとっても、今般の改易の事態はあまりにも急襲であった。それは、寛永九年五月二十九日に改易決定、六月四日には配流の地、庄内に向けて出立した主君の忠広にとっては、なおさらのことであり、他の事案と比べても「かかるとみ(頓)の事はな(無)くやありけむ」(こんなに急なことは例がないだろう)と宗因は嘆いている。
そして前述の通り、苦渋の決断の末、家族や友人からの慰留を断ち京都へ向かった。彼はその時の心持ちを、このように記している。
「道すがらも涙にくれまど(暗れ惑)ひて、かへり(顧)みる宿の梢もいとどしく、朝霧ひまなく立ち渡りて……」
ここにある「宿の梢」という表現は、太宰府への左遷が決定した菅原道真が、道中、山崎という場所で出家した後、都に残してきた妻に向けて詠んだ歌にも使われていた言葉である。
君が住む 宿の梢を ゆくゆくと 隠るるまでも 返り見しはや
(「大鏡」)
道真は、出立後の道すがら、妻が住む家の梢が隠れて見えなくなるまで、何度も振り返り見た。それでは宗因は、何を返り見たのか? 熊本の城である。
「此城郭をきづ(築)きて、玉の台にみが(磨)きしつらひ給ひし時は、いつの世までも我御すゑのみとこそおぼし置けめど、わづか二代にしてかく引かへうつろひ行さま、夢とやいはむ、うつつとやいはむ」。
「古今集」にある、壬生忠岑の歌が思い出される。
あひ知れりける人の見罷りにける時によめる
寝るがうちに 見るをのみやは 夢と言はむ はかなき世をも 現とは見ず
(巻第十六、哀傷歌、八三五)
正方の側近として見聞きしてきた、華やか行事の数々も脳裏をよぎる。
「そのかみ、栄花のさか(盛)りにいまして、春秋の時につけたる遊興などまのあたり見聞きし事どもなれば、なみだもをさへがたし」。
続けて、こういう歌を詠んだ。
思出る 見し世の花は 目の前の 木の葉ともろき なみだなりけり
古人が詠んだ、こういう歌もあった。
木の葉散る しぐれ(時雨)やまが(紛)ふ わが袖に もろき涙の 色とみるまで
(右衛門督通具「新古今和歌集」、五六〇)
あの栄花は、今や紅涙となって、わが袖を濡らしている……
思いがけず自身を急襲した境遇の辛さに耐えられず、もう一首詠んだ。
か(掛)けざりし 今のつらさに さだめなき 世は又たの(恃)む 行末のそら
懐かしい八代城も最後に一目と思ったが、精進してきた歌の道も、まだ一人前ではない身で、うろうろしている様を人に見られるのも憚られ、引き返した。
「八代の城は、としごろ(年頃)たの(恃)みしかげにてすみなれたる所なれば、名残りに見にまかりたくは侍れど、さすがに時にあひはな(華)やかなるふるま(振舞)ひこそせざりしかど、あたりちかくつか(仕)へ、こと更つらね歌の道にまつ(纏)はされたる身の、おとろへものげな(物気無)きあしもとにて、さまよひみ(見)られんよりもとおもひ返す。ことにおもひ出るは、ゆふば川、悟真寺、白木社の御前の山也。
春の山 秋のもみぢに しめゆひ(染木綿)し かげしも今は たれならすらん」。
鳥津亮二氏によれば、ここで「八代の城」とは正方が築城した八代城(松江城)、「ゆうは(夕葉)川」は球磨川、「悟真寺」は征西将軍懐良親王(後醍醐天皇の皇子)を供養する曹洞宗の名刹、「白木社」は妙見信仰と華やかな祭礼で有名な妙見社(現八代神社)、その「御前の山」とはかつて相良氏時代の八代城(古麓城)が築かれた山々を指しており、いずれも八代の自然と歴史を象徴する景観である(「西山宗因と肥後八代・加藤家」、「宗因から芭蕉へ」所収、八木書店)。
九月二十五日の夜には、肥後の最北、筑後との国境に位置する南関に着いた。以前訪れた、水都、筑後柳川の町のことが思い出された。
「柳川と云所に、さることありて二度三たびまかりかよひし時は、里のおさなどこよろぎの(小余綾の、「いそぎ」にかかる枕詞)いそ(急)ぎありきて、あるじまうけ(饗設)などとりまかなひ、さまざま興有しことども、今のやうにおぼえて、
いで我を 関の関守 とがむなよ むかしをしのぶ 袖の涙ぞ」
野間光辰氏によれば、文中にある「さること」とは、容易ならざる「こと」であった。元和六年(一六二〇)八月、筑後の領主田中忠政が逝去、後嗣がないため領地没収となった。この時、隣境する佐賀・熊本両藩は番勢を差し遣わすよう命ぜられ、加藤家からは正方が、相当の人数を具して出張したのである(「宗因と正方」、「談林叢談」所収、岩波書店)。宗因もその一員となったようだが、正方の側近となって二年目の出来事であり、記憶も鮮明だったのだろう。
二十七日の夜には、筑前の飯塚の宿で粗食をとり、歌を詠んだ。
ふるさとを こふるなみだに ほとび(潤)けり 椎の葉にもる いゐづか(飯塚)の宿
飯塚という地名に掛詞の着想を得たのだろう。「伊勢物語」の九段、有名な三河八橋の件にある、「みな人かれいひ(乾飯)の上に涙落してほとびにけり」という表現を使っている。ちなみに、「椎の葉にもる」という表現は、皇太子中大兄皇子らにより謀反の濡れ衣を着せられた有間皇子が、囚われ紀伊に護送される途中に詠んだ歌にある。
家なれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
(「万葉集」巻二、挽歌、一四二)
有間皇子ではないが、道中の宗因は眠れぬ夜を過ごした。
「夜更けぬれば、時雨あらあら(荒々)しうして、いとどしくね(寝)られぬままに、き(来)し方行さきおもひつづくる中にも、とし老たる親のことを思ひて、さらぬわかれはなくもがなと、諸天にあふぎて、
人の子の いのるよはひ(齢)や 霜の松
住みなれし 草のいほりを 思出る おりあはれなる 小夜時雨かな
親の次に思い出したのは、幼児の頃から和歌の手ほどきを受けた、熊本釈将寺の豪信僧都の面影だった。
「釈将寺豪信僧都は、吾あげまき(総角)のころよりなにはづ(難波津、幼児が手習の初めに学んだ歌、*2)のことの葉をもをしへ給ひて、師弟のむつ(睦)び年久しく侍れば、別の時も、後会頼りがたしとおもへるけしき(気色)のわす(忘)れがたくて、
老いぬれば 是やかぎりと 歎きける 人の別れぞ ことにかなしき」。
野間氏によれば、慶長十七年(一六一二)、宗因は、八歳入学の古例に従って、釈将寺に寺入りして、僧都から和歌を学んだものと思われる。岩立山一乗院釈将寺は、天台宗比叡山正覚院の末寺、法印権大阿闍梨豪信大和尚(寛永十二年寂)が開山、その後明治にいたって廃寺となった。現在の、熊本市西区京町台地にある九州森林管理局(旧、熊本営林局)の辺りと推定される。近くには、幼い宗因が息を切らしつつ登ったであろう細い坂道があって、今や、釈将寺坂という名称だけが当時の名残を感じさせる(*3)。
二十九日には、関門海峡を渡り、赤間関に着いた。これからは海路となるため、順風を待つこと二、三日。その時間を使って、源氏と平家の壇ノ浦の戦いに敗れ、平清盛の妻、二位殿とともに入水した幼帝安徳天皇が祀られた阿弥陀寺(現、赤間神宮)を参拝した。「雲上の龍、下って海底の魚とならせ給ふ」という「平家物語」(巻第十一、早鞆)の一節を思い出し、「感涙肝に銘じ、つたなき詞をつづりて、いともかしこき御前に廻向し奉る。
あら(荒)かりし 波のさはぎや 聞人の 代々のなみだの 海と成らん
散失ぬ 名を聞あとの もみぢかな」。
なんとか順風到来、十月三日に船出ができた。
「神無月三日、船人、はや舟にのれ、順風なりといへば、のりて行に、こなたの山のふもとに社頭あり。……四日、にはか(俄)に風おこり、波あれたり。五日、六日、同じ風なれば、おなじみなと(湊)にあり」。
陸に降りてみると、松の木陰にこじんまりとした小庵がある。菊やりんどうが植えてあり、趣きがある。年老いた法師が住んでいて、案内されるがまま中にお邪魔した。「五柳先生(陶淵明)の閑居のようですね」と申し上げると、「そうではありません。花々を仏さまに差し上げたいだけで……」というふうに語り合った。「和歌や連歌を嗜まれるなら、忘れ形見にひとつ」と所望されたので、こう詠んだ。
よりてこそ それとしら菊 磯の波
翌日は天候もよく出帆となった。老僧は、おぼつかない足どりで海辺まで出てきてくれて、船が遠ざかるまで、しっかりと見送ってくれた。その時の心持ちを、宗因はこのように述懐している。かの老人はどんな経緯があって、このような場所で世捨て人として暮らしているのだろうか……立ち寄ってみたからこそ、思いもかけず、渚に近い小庵で美しい白菊を眼にすることができた。もちろん、その花を丹精込めて育てている老法師にも。
七日の昼頃、釣り船があったので、釣り人の爺さんに声をかけ、釣果を見せてもらった。見たことのない魚ばかりで、あれやこれや言っていると、爺さんは代金を支払うのが遅いことに腹を立て、「もう買ってもらわなくてもいい!」などと怒っている。そこでこう詠んだ。
釣人よ ま(待)て事問わん みなか(皆買)はば いか計せん 魚のあたひ(値)ぞ
その後、三原から尾道を通る。当時も酒蔵が多い場所だったようだ。波穏やかな海域でもあり、宗因の気持ちも少しは緩んだのだろうか。
をの道や 三原の酒旗の 風吹けば 口によだり(涎)を ながす舟人
同夜には、当時から「潮待ちの湊」として栄えていた鞆の浦に着き、順風を待つ。
「観音堂の鐘の声、泉水島の松風、心すごくきこえて、ねられぬままにおきゐつつみれば、あま(海人)のいさ(漁)り火しろ(白)う霜は天に満て、楓橋の夜泊おもひやらるる夜のさま也。
波をやく 漁火寒き 入江かな」
夜更けに微睡んでいると、夢中なのか、故郷のことを見ているような心持になった。
「時雨の苫打音におどろかされて名残かなしく、ものをつくづくとおもふに、故郷に母あり、秋風涙といふ旧詩をふと思出て、なみだも時雨とともにふりまさりて、
故郷に とま打つ雨は ならひ(冬季に吹く寒風)にき いたくなか(掛)けそ あら磯のなみ
さらぬだに 旅はねぬ夜の 時雨哉」
ここで「秋風涙といふ旧詩」とは、我が国に漂着した迂陵島(鬱陵島)の異国人に代わり、源為憲(*4)が作ったという漢詩で、故鄕有母秋風涙(故郷に母有り秋風(しうふう)の涙)という文言がある。
夜中に船出し、朝になると、あちこちの岩に松が生えていて、絵師に見せたいほどの光景が広がった。
「浦の苫屋より、煙のほそ(細)う立のぼりたるもおかし。釣の翁、あまの子どもの何事にかあらん、聞もしらぬことさへづりて、かいつもの(貝つ物)ひろ(拾)ひて行帰るさまも、所に(似)つけたる見もの也。う(憂)き中にも、旅こそは又心なぐさ(慰)む事はおほかれ」。
欲を言えば、こんなときこそ同行の友がいてくれたら、とも思う。
松を見ば 霜のしら洲の 渚哉
そういう人たちがいてくれたら、この発句に脇句を考えてくれ、とか、第三句もぜひ……などと言い合うところなのだが、仕方がないので、自ら脇句と第三を付けた。
なみの立居に 千鳥なく声
あま衣 うら風さむみ 舟よせて
ちなみに、連歌や俳諧では、連句の場合、発端の句を五・七・五で詠み「発句」と呼ぶ。その発句に連ねて七・七で詠むのが「脇句」であり、体言の漢字留めとすることが多い。さらに発句と脇句に連ねるのが「第三」であり、第四句以降の「平句」につながるよう助詞留めがよいとされている(ここでは「て留め」)。なお、俳諧では、その後の発展に伴い、この三句の付け方の違いが変化していったり、発句だけが独立して詠まれることも多くなる。
九日には、室の津の湊に着いた。美しい月に促されるように、明神(賀茂神社)に参詣すると、拝殿のそばに旅人らしい法師がいた。
「いづくよりいづくへ行人ぞとと(問)はれしかば、
人とはば そもそも是は 九州の 肥後牢人の わぶ(侘)と答えん
とおもへど、はじめたる人に歌よみかけんもいかがにて、ただにし(西)国より京へのぼる也とこたふ」。
今度は、こちらから「あなた様はどちらへ」と聞いてみると、自分は山法師で因幡に下ったのち、都に戻るところだと答えた。仮に自分(宗因)が歌で答えていたとしたら、このような返歌が欲しかったところだと、心のうちで詠んだ。
立別 いなば(因幡・去なばを掛ける)の山の 畑におふる ひえ(稗・日枝を掛ける)坂もとと きかばたづねん
十日は、播磨灘を東へ進む。高砂を過ぎると、明石の浦が見えてきた。さすがに名の通った磯の風情の見事さは、言語に絶する。柿本人麻呂が詠んだ光景そのものだった。
ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れゆく 船をしぞ思う
(巻第九、羇旅歌、四〇九)
ここまで来ると、「源氏物語」に描かれた情景も眼に浮かぶ。明石の入道が、高潮を恐れて、娘を住まわせていた「岡部の宿」もあの辺りにあったのかと想像をふくらませてみた。
「かの入道のおこなひつとめたるすみかも、かの見ゆる岡べにやと、さまざま心とまる浦のけしき也。若紫の巻に、はりま(播磨)のあかしのうら(明石の浦)こそ猶ことに侍れ、なにのいたりふかきくま(至り深き隈)はなけれども、ただ海のおもて(面)を見わたしたるほど、こと(異)所にに(似)ずゆほびかなる所に侍るとかける紫式部が筆の海に、あまの小舟うかびたるをみて、
目にさはる 物こそなけれ あかし潟 あまの釣する 小舟ならでは
月の時に みぬをあかしの うらみ哉」。
続いて、須磨を通過する。この場所で、都から遠ざかっていた在原業平や、十五夜の宵に都を思う源氏の君によって詠われた歌を思い出し、袖を濡らしてしまった。
田村の御時に、事にあたりて、摂津国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮の内につかわしける
わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ
(在原業平朝臣、巻第十八、雑歌下、九六二)
見るほどぞ しばしなぐさむ めぐりあはむ 月の都は 遥かなれども
(「須磨」、「源氏物語」)
敦盛塚が近づいてきた。ここは、十七歳の平敦盛が、熊谷次郎直実によって御首掻かれた場所である(「平家物語」巻第九「一の谷」)。直実はこれに発心し、出家したと言われている。わずかに卒塔婆だけが見える。
「さしも優なる若武者の、此渚に身をを(終)はりけるよと、哀もすくなからず。まことや、直実がたけきもののふごころ(猛き武士心)に、たちまち悪念をひるがへして讃仏乗の因となせる、有がたき道心かなと、結縁もせまほしくて、
苔の下の 霜にうづまぬ なぎさ哉」。
十二日には、ようやく難波に着いた。
「入江に舟よせておりぬ。江村夕照を打ながめて、心ある人に見せまほしく、沢のほとりをうそぶきありくに、西行法しの夢なれやといひし、あしのかれ葉のなみよるを見て、
ながめすてて 夢と成りにし ことのはを なにはのあしに 残すうら風」。
西行は、こう詠んでいた。
津の国の 難波の春は 夢なれや あしの枯れ葉に 風渡るなり
(「新古今和歌集」冬)
十四日、夜が明けてから、川船で江口、鳥飼という付近を遡行する。
「紀貫之、土左の任のは(果)ててのぼる道の日記に、よこ(横)ほれる山の見ゆるとかけるもあの山にや、とながめやりて行に、ほどなく男山のふもとを過る」。
ここで宗因は、貫之と同じように淀川を遡行しており、「土佐日記」の記述を思い出している。いや、私には、この「道記」そのものが、「土佐日記」をまざまざと想起させる。まず「土佐日記」は、五十五日分の記事が日付順に収められており、「形態的には日次記である漢文日記を踏まえたもの」(*5)と言われているが、「道記」も同様である。第二に、日記文学と歌が一体化している「旅日記風の歌語り」(*6)という点でも共通している。第三に、十月三日の段に「船人、はや舟にのれ、順風なりといへば、のりて行に、……」という記述があるが、「土佐日記」にある「楫取りもののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば、はやくいなむとて、『潮満ちぬ。風も吹きぬべし』と騒げば、船に乗りなむとす」という語勢と共鳴する。第四に、これが最も重要なことであるが、作品の背景にある作者の心持ちに思いを致してみたい。
貫之は、任地の土佐で、連れて行った女児を亡くした。さらにはその任期中、最大の庇護者であった藤原兼輔(紫式部の曽祖父)、「古今集」の編纂を命じられた醍醐天皇、兼輔の母、歌合せで世話になった宇多天皇、そして、もう一人の庇護者であった藤原定方を立て続けに亡くしていた。さらには、帰京後の官途も定まっていないという、大きな人生の不如意に直面する中で「土佐日記」を書き上げたのである(*7)。一方、宗因については、言わずもがなであろう。
少々脇道にそれたので、終幕に近づいてきた宗因の旅に戻って先に進めよう。
十四日には、京都に入った。
「かくてとしごろたのみたる人、今は世の望もなし、年の残りもいくばくならじとて、かざりをもおろし、しもつかたの堀河法花三昧おこなふ寺あり。その寺の林下にやぶれたる風の庵りをむすばれしに、予も又かたはらちかき夕顔の小家をしつらひて、ゑみの眉ひらけぬ有さまにてぞ侍る也」。
「としごろたのみたる人」とは、長年仕えた加藤正方、改め加藤風庵のことである。風庵は、一足はやく京都堀河六条の本圀寺の塔頭了覚院に隠棲していた。ちなみに「ゑみの眉ひらけぬ」というのは、「源氏物語」の「夕顔」の中で、源氏の君が訪問先の隣家の夕顔の花に見とれている場面で、「白き花ぞ、おのれひとり笑の眉ひらけたる」(真白い花がわれひとり快(こころよ)げに咲き匂っている)(*8)と言う言葉を逆手に取ったものだ。心配事ばかりで心休まらぬと言いたいのである。
続けて、宗因はこのように言う。
「世中はいづくかさしてといへる古歌に、よくもかな(適)へる身かな。
くり返し おもへば世やは う(憂)かるべき 身はもとよりの しづのをだ巻(倭文の苧環)」
ここで「世中はいづくかさしてといへる古歌」とは、「古今集」にある次の歌である。
世の中は いづれかさして わがならむ 行き止まるをぞ 宿と定むる
(よみ人知らず、巻第十八、雑歌下、九八七)
たとえ野であれ山であれ、行きどまった所をわが住処と定めよう、という心境を、宗因も自らのものとしていたのであろう。
一方「倭文の苧環」とは、古代の質素な倭文織りの糸巻のことを言い、繰り返し糸を巻き付けることから、「繰返し」「賤し」などと縁の深い言葉である。あの忌まわしい事件が起きてからというもの、非情な世の中を何度憂いてみたことか、いや、所詮賤しい身であればこそ、何度でも立ち上がってみせよう。
私は、彼が道記の最後に詠んだ歌に、弱気に傾きがちな自らを奮起させるような、秘めた強い思いを感得せざるをえなかった。
(*1)「西山宗因全集」第四巻所収、八木書店。小宮豊隆氏は「道記」を「飛鳥川」と呼んでいる(「宗因の『飛鳥川』に就いて」、「芭蕉の研究」(岩波書店)所収)
(*2)王仁(わに)が仁徳天皇に奉ったと伝わる、「古今集」仮名序にある「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」という歌。
(*3)昭和三十四年に発表された野間氏の論文(「西山宗因」、「談林叢談」所収、岩波書店)によれば、郷土史家の豊田幸吉氏の調査によって判明したこととして、営林局の敷地の南北済に歴代住持の墓碑が残存するとのことだが、現時点では確認できていない。
(*4)?~寛弘八年(一〇一一)
(*5)西山秀人「土佐日記」解説、角川ソフィア文庫
(*6)木村正中「土佐日記 貫之集」解説、新潮日本古典集成
(*7)坂口慶樹「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅱ――紀貫之の『実験』」、本誌2024年冬号所収
(*8)円地文子訳「源氏物語」巻一、新潮文庫
【参考文献】
・「古今和歌集」(「新潮日本古典集成」、奥村恆哉校注)
・柿衛文庫、八代市立博物館未来の森ミュージアム、日本書道美術館編「宗因から芭蕉へ ――西山宗因生誕四百年記念」八木書店
・野間光辰「談林叢談」岩波書店
・伊藤博「萬葉集注釈」集英社
(つづく)