三十八 あやしき言霊のさだまり
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今回は、「本居宣長」第二十八章の結語部だが、次のように書き起されている。
――そういう次第で、宣長は、「古事記」を考える上で、稗田阿礼の「誦習」を、非常に大切な事と見た。「もし語にかゝはらずて、たゞに義理をのみ旨とせむには、記録を作らしめむとして、先ヅ人の口に誦習はし賜はむは、無用ごとならずや」と彼は強い言葉で言う。……
「古事記」の編修を発意された天武天皇は、諸氏族が保有している帝紀(歴代天皇の系譜を主とした記録)や旧辞(神話、伝説、歌謡などを中心とした伝承)を、「人となり聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払れば心に勒す」と評判だった稗田阿礼に「誦み習はしめたまひき」と「古事記」の「序」に記されているが、この稗田阿礼の「誦習」を宣長は非常に大事な事と見た。宣長のこの着眼は何故にであったかを小林氏が言う、
――ここで言われている「義理」とは、何が記されているかという記録の内容の意味で、この内容を旨とする仕事なら、「日本書紀」の場合のように、古記録の編纂で事は足りた筈だが、同じ時期に行われた「古事記」という修史の仕事では、その旨とするところが、内容よりも表現にあったのであり、その為に、阿礼の起用が、どうしても必要になった。宣長の言い方で言えば、阿礼の仕事も、「漢文の旧記に本づいた」のだが、「直に書より書にかきうつしては、本の漢文のふり離れがた」いので、「語のふりを、此間の古語にかへして、口に唱へこゝろみしめ賜へるものぞ」と言うのである。……
「古事記」は、歴史書として史実に忠実であるべきこと、言うまでもないが、それ以上に天武天皇が大事と見たのは、漢字、漢文の渡来と普及で消滅の危機に瀕していた日本古来の話し言葉の保存だった。当時すでに、諸氏族が保有している帝紀や旧辞もその多くが漢字、漢文で記されており、それをそのまま写し取ったのでは漢字、漢文の語意とふりにひきずられて日本の歴史ではなくなってしまう、歴史は須らくその土地の言葉で残されなければならない、そこで天皇は家々から提出させた漢文の帝紀や旧辞を天皇自ら古来の日本語に戻し、さらにそれらを天皇自ら音読して、日本語のふりまでもをそっくりそのまま稗田阿礼に記憶させたのだと宣長は言うのである。
――宣長は、稗田阿礼が天鈿女命の後である事に注意しているが、篤胤のように、阿礼という舎人は「女舎人」である、とは考えなかった。阿礼女性説は、柳田國男氏にあっては、非常に強い主張(「妹の力」稗田阿礼)となっている。稗田氏は、天鈿女命を祖とする語部猿女君の分派であり、代々女性を主とする家柄であった事が、確信を以て説かれる。宣長の言うように(「古事記伝」三十三之巻)、舎人が男でなければならぬ理由はない。「阿礼」は、「有れ」であり、「御生れ」、即ち神の出現の意味だ。「阿礼」という名前からして、神懸りの巫女を指している、と言う。……
稗田家は女系だった、阿礼自身が女性だった、とする柳田國男の説もあるというのである。天鈿女命は天照大神が天の岩屋に隠れたとき、岩屋の前で踊って大神を誘い出した女神である。
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小林氏は、続けて言う、
――折口信夫氏となると、「古事記」を、「口承文芸の台本」(「上世日本の文学」)とまで呼んでいる。語部の力を無視して、わが国の文学の発生や成長は考えられない、という折口氏の文学の思想には、あらがえぬものがあるだろう。少くとも、極く素直な考えで、巧まれた説ではない。折口氏が推し進めたのは、わが国の文学の始まりを考える上で目安になるものは、祝詞と宣命であるという宣長の考えである。……
次いで言う、
――或る纏った詞が、社会の一部の人々の間にでも、伝承され、保持されて行く為には、その詞にそれだけの価値、言わば威力が備っていなければならない。その点で、折口氏も亦、先ず言霊が信じられていなければ、文学の発生など、まるで考えられもしない、と見ているのである。言霊の力が一番強く発揮されるのは、祭儀が必要とする詞に於てであり、毎年の祭にとなえられる一定の呪詞を、失わぬよう、乱さぬよう、口から口へと熱意を以て、守り伝えるというところに、村々の生活秩序のかなめがあった。政治の中心があった。この祭りごとから離れられぬ詞章が、何時からあったか、誰も知るものはなかったが、古代の人々にとって、わが村の初めは、世の初めであったろうし、世の初めとは、という問いに答えるものは、天から神々が降って来て、言葉が下され、これに応じて、神々に申し上げる言葉がとなえられるところにしかなかったであろう。折口氏の説は詳しいが、此処では略して、神から下される詞が祝詞であり、神に申し上げる詞が宣命だ、と言って置けば足りる。この種の呪詞の代唱者として、語部という聖職が生れて来たのは、自然な事であったろうし、彼等によって唱えられ、語られる家の、村の、国の由来のうちにしか、古代の人々には、歴史という考えを育てる処はなかっただろう。……
小林氏の筆致は明快である、したがってこの件も文意をわざわざ解読するには及ぶまいが、一点、注解を加えておきたい文言はある、それは「折口氏の説は詳しいが、此処では略して、神から下される詞が祝詞であり、神に申し上げる詞が宣命だ、と言って置けば足りる。」と言われている中の「祝詞」と「宣命」についてである。今日、一般には「祝詞」は神に向かって唱える言葉、「宣命」は天皇の命を伝える文書、と解されているから、折口氏の説は「祝詞」に関しては逆であり、「宣命」に関しては「天皇の命を伝える」と「神に申し上げる」の違いがある。折口氏がそこを取り違えたとは考えられず、では小林氏が読み違えたかと推量してみても落ち着かない、ならばと小林氏が示している原典、折口氏の「上世日本の文学」にあたってみると、――上代文学史として取り扱う祝詞、すなわち口頭の古い祝詞について言うと、祝詞に対して寿詞があり、祝詞は神が天降って「お前たちにかくかくの事を聞かせるぞ、承れ」というものであり、「承知いたしました、貴方さまもどうぞご健康で」と言うのが寿詞であるが、祭事の場での祝詞と寿詞の掛け合いから物語が発生し、発達し、そのうち寿詞という言葉は忘れ去られて寿詞も祝詞ということになった、……と言われていて、そこから祝詞は「神に向かって唱える言葉」という、本来は寿詞の意味合で定着したらしいのである。
そして宣命だが、「宣命」という漢字は「のりと」という日本語に宛てたもので、宣命も実は「のりと」に含まれていたが、否むしろ「のりと」の本体であったが、そういう「のりと」から「宣命」「祝詞」の二つの熟語が出来たと見るべきであると折口氏は言っている。だとすれば「宣命」も「寿詞」の語感を帯び、神に申し上げる詞となって定着したのだろう。
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今一度、引用を繰り返すが、小林氏は、
――折口氏の説は詳しいが、此処では略して、神から下される詞が祝詞であり、神に申し上げる詞が宣命だ、と言って置けば足りる。この種の呪詞の代唱者として、語部という聖職が生れて来たのは、自然な事であったろうし、彼等によって唱えられ、語られる家の、村の、国の由来のうちにしか、古代の人々には、歴史という考えを育てる処はなかっただろう。……
と言った後に、
――「昔の人の考え方で行くと、歴史は、人々の生活を保証してくれるもので、其歴史を語り、伝承を続けて行くと、村の生活が正しく、良くなって行くのであった。其語り伝えられた歴史の中で、最よく人々の間に守り続けられて行ったのは、神の歴史を説いたものである。現在残って居るもので、一番神の歴史に近いのは、祝詞及び宣命である」(「上世日本の文学」)と折口氏は言う。……
と言い、続けて、
――宣長は、祝詞の研究では、「出雲国造神寿後釈」「大祓詞後釈」と「後釈」の名があるように、真淵の仕事を受けて、これを整備し、発展させたのだが、宣命の研究は、宣長に始まるので、これが、晩年の「続紀歴朝詔詞解」の名著になって、完成した。だが、既に書いたように、宣長が宣命に着目したのは大変早いので、「古事記伝」の仕事の準備中、真淵に書送っていた質疑が、「万葉再問」を終え、直ちに「続紀宣命」の質疑に移ったのは、明和五年の事であった。奈良朝以前の古言を現した文詞は、延喜式にのった祝詞の古いものを除いては、「続紀」が伝える宣命の他にはない、と宣長は見ていたのだが、「万葉」では、歌の句調にはばまれ、「記紀」では、漢文のふりに制せられて、現れ難かった助辞が、祝詞、宣命には、はっきりと現れている、という宣長の発見が、真淵を驚かした。宣長の研究の眼目は、初めから助辞の問題にあった。「詞の玉緒」で、「万葉」の古言から「新古今」の雅言にわたり、広く詠歌の作例が検討されて、「てにをは」には、係り結びに関する法則的な「とゝのへ」、或は「格」と言うべきものがある事が、説かれたについても、既に書いた。
宣長は、これを、「いともあやしき言霊のさだまり」と呼んだ。国語に、この独特の基本的構造があればこそ、国語はこれに乗じて、われわれの間を結び、「いきほひ」を得、「はたらき」を得て生きるのである、宣長はそう考えていた。「古事記伝」の「訓法の事」のなかには、本文中にある助字の種類が悉くあげられ、くわしく説かれているが、漢文風の文体のうちに埋没した助字を、どう訓むかは、古言の世界に入る鍵であった。それにつけても、助辞を考えて得た、この「あやしき言霊のさだまり」が、文字を知らぬ上代の人々の口頭によって、口頭によってのみ、伝えられた事についての宣長の関心には、まことに深いものがあった。「歴朝詔詞解」から引こうか、――「そもそもこれらのみは、漢文にはしるさで、然カ語のまゝにしるしける故は、歌はさらにもいはず、祝詞も、神に申し、宣命も、百官天ノ下ノ公民に、宣聞しむる物にしあれば、神又人の聞て、心にしめて感くべく、其詞に文をなして、美麗く作れるものにして、一もじも、読ミたがへては有ルべからざるが故に、尋常の事のごとく、漢文ざまには書キがたければ也」――文字を知らぬ昔の人々が、唱え言葉や語り言葉のうちに、どのような情操を、長い時をかけ、細心にはぐくんで来たか。そういう事について、文字に馴れ切って了った教養人達は、どうして、こうも鈍感に無関心なのであろうか。宣長は、この感情を隠してはいないのである。……
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今回は、ここまでとする。私は今回、
――宣長は、「古事記」を考える上で、稗田阿礼の「誦習」を、非常に大切な事と見た。「もし語にかゝはらずて、たゞに義理をのみ旨とせむには、記録を作らしめむとして、先ヅ人の口に誦習はし賜はむは、無用ごとならずや」と彼は強い言葉で言う。……
という小林氏の文章の引用から始めたが、最後が、
――それにつけても、助辞を考えて得た、この「あやしき言霊のさだまり」が、文字を知らぬ上代の人々の口頭によって、口頭によってのみ、伝えられた事についての宣長の関心には、まことに深いものがあった。……
という引用で終えることになるとは思っていなかった。しかしこうしていざ終ろうとしている今、ある種の感慨を覚えてもいる。私は当初、「いともあやしき言霊のさだまり」を今回の表題として第二十四章にも遡り、宣長のテニヲハ研究にわずかなりとも立ち入るつもりでいた。ところが、第二十八章の終盤に至って「いともあやしき言霊のさだまり」という言葉に再会したとき、宣長は三十五歳の年から毎日「古事記」と向き合ったが、テニヲハ研究の書「詞の玉緒」は四十二歳の年までに成ったと言われるから、その頃以後の宣長は、毎日「古事記」に見入って「いともあやしき言霊のさだまり」と何度も呟いたのではないだろうかという思いに駆られたのだ。だからこそ宣長は、稗田阿礼の「誦習」をいっそう大事な事と見たにちがいないと思ったのである。
(了)