小林秀雄氏は、「本居宣長」について、講演で、「宣長という人は、非常に論理的で、実証的な精神をもった学者であったが、それに反してしまいには狂信家になってしまった、と言う人たちがいる、……そんなばかなことはない、宣長さんという人は一人しかいないんだ、最後は狂信家になったというのもそう言っている人たちの目にはそう見えているというだけのことで、僕らが宣長さんの文章を一所懸命に読めば、きっとその一人しかいない宣長さんが現れて来るに違いない……、そう思って僕は僕自身が宣長さんの文章を一所懸命に読み、後にも先にも一人しかいない宣長さんとしっかり巡り合うまでのいきさつを本に書いたのです」(新潮CD「小林秀雄講演」第三巻『本居宣長』)と、話している。
その「いきさつ」の始めとして、小林氏は、折口信夫氏の大森のお宅を訪ねた時のことを、
「今、こうして、自ら浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである。やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これを廻って、分析しにくい感情が動揺しているようだ。物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない。私が、ここで試みるのは、相も変らず、やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企てである」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.26)
と、「分析しにくい動揺する感情」で振り返り、それを書こうという、成功するかしないか見当のつき兼ねる「企て」を試みる、と宣言する。
そして、その「書く」ということは、「宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいという希いと、どうやら区別し難いのであり」(同第27集p.40)と、「宣長の思想の一貫性を信ずる事」でもあると、小林氏は言う。そして、第二章の最後では、
「要するに、私は簡明な考えしか持っていない。或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった」。「宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う」(同第27集p.40)。
そう言って、「湊入りの 葦別け小舟 障り多み 我が思ふ君に 逢はぬころかも」(「万葉集」巻第十一)と「『万葉』に、『障り多み』と詠まれた川に乗り出した小舟」(同第27集p.41)さながらに、宣長の演じた思想劇を辿り始めたのである。だとすれば、その「いきさつ」を追い、一所懸命に小林氏の文章を読めば、今はまだ、宣長さんに「逢はぬころ」の読者にも、「宣長の思想の一貫性」が見えて来るに違いないし、宣長さんはきっと一人になって現れて来るだろう。それが、氏の「希い」ではないかと思う。
山の上の家の塾では、塾生が自問自答を行うスタイルを続けている。今年度は、いよいよ、それが十二年目となり、小林氏が、「本居宣長」を書くのに費やした年数になった。毎年、思想劇を辿り、いろいろな.自問自答を聞くことは、思いがけない気づきや刺激の連続ではあるが、本居宣長が荻生徂徠から大きな影響を受けていたこと、「彼(宣長)が『物』と呼んだ、その経験的所与の概念」(同第28集p.41)について教えてくれたのは、第三十四章周辺での小林氏による自問自答だ。宣長の「物」の概念というより、むしろ「『物』の経験とはどういうものであったか」(同第28集p.42)は、小林氏の「いきさつ」を追ううえで避けては通れないと思うので、ここにも引用しておきたい。これは、宣長が儒学者である市川匡の問いに答えている箇所である。
「余が本書(『直毘霊』)に、目に見えたるまゝにてといへるは、月日火水などは、目に見ゆる物なる故に、その一端につきていへる也、此外も、目には見えね共、声ある物は耳に聞え、香ある物は鼻に嗅れ、又目にも耳にも鼻にも触れざれ共、風などは身にふれてこれをしる、其外何にてもみな、触るところ有て知る事也、又心などと云物は、他へは触ざれども、思念といふ事有てこれをしる、諸の神も同じことにて、神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目に見えたる物也、其中に天照大御神などは、今も諸人の目に見え給ふ、又今も神代も目に見えぬ神もあれ共、それもおのおのその所為ありて、人に触る故に、それと知ル事也、又夜見ノ国も、神代に既に伊邪那岐ノ大神又須佐之男ノ大神などの罷ましし事ノ跡あれば、其国あること明らか也(「くず花」下つ巻)」(同第28集p.42)。
その「物」について、小林氏の別の自問自答は、「私達が理解している『意識』という言葉と、宣長が使った意味合での『物』という言葉とを使って、こう言ってみてもよさそうだ、歌とは、意識が出会う最初の物だ、と」(同第27集p.263)と言い、それと一緒に、「悲しみを、悲しみとして受取る、素直な心さえ持っている人なら、全世界が自分一人の悲しみと化するような、深い感情の経験は、誰にでもあるだろう。詞は、『あはれにたへぬところより、ほころび出』る、という時に考えられているのは、心の動揺に、これ以上堪えられぬという意識の取る、動揺の自発的な処置であり、この手続きは、詞を手段として行われる」(同第28集p.58)という、「言辞の道」を教えてくれた。
荒唐無稽に見える「古事記」を受け入れることは、決してやさしいことではないし、「本居宣長」を一所懸命に読んでも、なかなか「一人の宣長さんが現れて来る」ものでもない。しかし、様々な自問自答に触れ、第五十章を繰り返し読んで、おぼろげに見えて来たのは、「世をわたらう上での安心という問題は、『生死の安心』に極まる」(同28集p.194)こと、死こそ、極めつけの「『物』の経験」をさせる「可畏き物」ではないか、ということだった。それなら、「古事記」にある「神世七代」の物語も、やはり、「言辞の道」の先にある「物」だと言えるのである。
死という「『可畏き物』に向い、どういう態度を取り、これをどう迎えようかという想いで、一ぱいだった」(同第28集p.201)古人たちが、「事物に即して、創り出し、言葉に出して来た、そういう真面目な、純粋な精神活動」(同第28集p.208)をしてきたことについて、小林氏は、次のように言っている。
「宣長は、『雲隠れの巻』の解で、『あはれ』の嘆きの、『深さ、あささ』を言っているが、彼の言い方に従えば、『物のあはれをしる情の感き』は、『うき事、かなしき事』に向い、『こゝろにかなはぬすぢ』に添うて行けば、自然と深まるものだ。無理なく意識化、或いは精神化が行われる道を辿るものだ、と言う。そういう情のおのずからな傾向の極まるところで、私達は、死の観念と出会う、と宣長は見るのである」(同第28集p.198)。
「そういう人々の意識は、悲しみの極まるところで、いよいよ鋭い形を取ったであろう。それが、無内容とも見えるほど純化した時、生ま身の人間の限りない果敢無さ、弱さが、内容として露わにならざるを得なかった。宣長は、そのように見た。『源氏』論に用意されていた思想の、当然の帰結であった、と見ていい」(同第28集p.201)。
「其処に、彼は、先に言ったように、人々が、その限りない弱さを、神々の目に曝すのを見たわけだが、そういう、何一つ隠しも飾りも出来ない状態に堪えている情の、退っ引きならぬ動きを、誰もが持って生まれて来た情の、有りの儘の現れと解して、何の差支えがあろうか。とすれば、人々が、めいめいの天与の『まごころ』を持ち寄り、共同生活を、精神の上で秩序附け、これを思想の上で維持しようが為に、神々について真剣に語り合いを続けた、そのうちで、残るものが残ったのが、『神世七代』の物語に他ならぬ、そういう事になるではないか」(同第28集p.202)。
そして、そのような古人達の「精神活動」の性質を明らめるのには、
「この活動と合体し、彼等が生きて知った、その知り方が、そのまま学問上の思惟の緊張として、意識出来なければならない。そう、宣長は見ていた。そういう次第なら、彼の古学を貫いていたものは、徹底した一種の精神主義だったと言ってよかろう。むしろ、言った方がいい。観念論とか、唯物論とかいう現代語が、全く宣長には無縁であった事を、現代の風潮のうちにあって、しっかりと理解する事は、決してやさしい事ではないからだ。宣長は、あるがままの人の『情』の働きを、極めれば足りるとした」(同第28集p.209)、と結論するのである。
そういう次第なら、「一人の宣長さん」に逢うのに、彼とは無縁の「観念論とか、唯物論とかいう」傍観的な現代語は役に立たないだろう。宣長は、作者達の精神「活動と合体し」、「あるがままの人の『情』の働きを、極め」た。それなら、私たち読者も同じように、小林氏の「企て」と合体し、生ま身の人間として、あるがままの読者の「情」の働きを、極めれば、「一人だけの宣長さん」に逢うのに足りるはずである。小林氏も、そうして、宣長と一体になったに違いないからだ。
(了)