令和六年度四月
「オリエンテーション」―この一年、私が得たいもの、考えたいこと

玉井 裕香子

私はお恥ずかしいことに、本にじっくりと向き合い、ひとつひとつの言葉を解釈しながら自分の中で咀嚼して読み進めるという経験をしたことがありません。

小林秀雄先生に関しては、講演の音源をいくつか聞いたことがあるものの、ご著書をきちんと拝読するのは今回購入した本が初めてです。

この塾を通して、皆様との対話を重ねながら学ぶ機会を得、本当の意味での本との向き合い方、学ぶこととは、を考えて参りたいと思っております。

(了)

 

本多 哲也

独りで学ぶことを体得したい。小林秀雄先生の仕事を改めて見返すと、批評した作品や人物の多さに圧倒される。ただ、いわゆる博覧強記とは異なる。どの文章でも、小林秀雄という個性が、真剣に相手にぶつかっていることが伝わるからだ。私は、これこそ独学なのだと感動する。現代で独学と言うと、効率よく知識を入力し、意見を出力する方法論を指すように思うが、そんなことは気にせず、小林先生の生き方から、独学を体得したい。

(了)

 

「歴史の中に生きる」

越尾 淳

入塾以来、何度も読んできたつもりの「本居宣長」は、結局私にとっては昔の碑文のようなもので、読むともなく眺めてきただけとも思える。

ただ、自問自答を繰り返すことで、藤樹、仁斎、徂徠、宣長、そして小林秀雄先生が連なる学問の歴史が確かに存在し、自分もその流れの先端に生きているのだと自覚する。自問自答というのは、歴史の大河に問いかけ、今を生きる自分という存在を捉え直すことなのかもしれない。最後の年も、全力で歴史に体当たりしてみたい。

(了)

 

「美を求める心」

入田丈司

私は「美を求める心」、「物の美しい姿を求める心」を養って少しでも得たいと思います。一体、自分は「美しい姿を求める」ことをしてきたろうか、今のままでは一度の私の人生あまりに勿体ないのでは、という想いがあります。具体的には、小林秀雄先生の著作、普段から好んでいる多様な音楽、日常で目にする花々、この三つを重点に「物の美しい姿を求める心」、美が与える「沈黙の力に堪える経験をよく味わう」ことを養います。

(了)

 

溝口朋芽

「歌は、言葉の粋」であると小林秀雄先生が『本居宣長』本文の中で書かれています。本年度は、この一文の意味を会得できるよう読んでいきたいと考えています。

古代より、人間が言葉を発して、歌となり、文字となる、その歴史を宣長さんと一緒に本文の中で小林先生が辿っている、そのことを私という人間が読みながら辿る、小林先生の言葉で言えば、「思い出す」ことを通じて、この山の上の家の塾で私がこの十年考えてきた事柄を、繋がりをもって捉えることができたら、とてもありがたいと思います。

(了)

 

生亀 充子

これまで池田雅延塾頭、塾生の皆様のお話を通じて、小林秀雄先生の「本居宣長」を何とか読み進める力を頂いてまいりました。

今年一年は、「もののあはれ」や「やまと心」など、古人たちが「まごころ」の有り様を表現するためにどのようなことばを選び、用いてきたのかについて思索を深め、日常生まれては消える心象が、ことばによっていかに助けられ、また姿かたちとなっているのかといった気づきを掬い上げたいと考えております。そして、先人たちの苦心によって紡がれてきたことばをたどることで日本人の心の姿を知り、日常を生きる力(好信楽)になる学ぶ喜びを得たいと考えております。

(了)

 

橋本 明子

この一年で私が得たいもの、考えたいこと、それは心の不思議について、です。令和五年度の塾で、私は「やまと心と漢意からごころ」について自問自答を行いました。いくつか引いた熟視対象の中で、いまの私の心に響いたのは「『わが心ながら、わが心にもまかせぬ物』たるところに、その驚くべき正体があるという、そういうところに、行着いているのが感得される。それが、彼の『物の哀』論の土台を成している」という件です。

心の驚くべき正体、これについて考えを巡らせ、本居宣長の「物の哀」論の土台について理解を始めたい。これが私のこの一年で目指すところです。

(了)