契沖と熊本Ⅴ

坂口 慶樹

九、西山宗因「肥後道記」を振り返る

 

前章では、二十九歳で歩むべき道を断たれた「肥後牢人」西山宗因が、強い決意をもって故郷の熊本を出立し、京都に到着するまでの旅路について記した「肥後道記」(以下、「道記」)を詳しく見た。ここで章を改め、この旅が、そしてその経験を紀行文として仕上げたことが、彼に何をもたらしたのかについて振り返ってみたい。

第一は、旅が進むにつれて、宗因の心境の変化、心の成長のありようが見て取れることである。当初は、彼を急襲した主家改易という事態への恨みや、残して来た家族や故郷への断ち切れない思いが前面に出ていたが、旅も半ばを過ぎた頃から、穏やかな心持ち、ユーモアを表現できる心の余裕が顔を出してくる。例えば十月七日のこと、釣人のお爺さんに声をかけて釣果ちょうかを見せてもらい、どの魚を売ってもらおうかとしばし迷っていると、お爺さんは決めるのが遅いと怒り出してしまった。そこで「釣人よ ま(待)て事問わん みなか(皆買)はば いかばかりせん 魚のあたひ(値)ぞ」と詠んだ。これは、「古今和歌集」(巻第九、羇旅歌、四)や「伊勢物語」(第九段)にある、「名にしおはば いざ言問はむ みやこ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」という有名な歌をもじったようだ。釣り人を「水のうへに遊びつついをを食ふ」都鳥に見立て、「そんなに怒らなくても……」と、ほくそ笑みながら詠んだのであろう。

その後、三原から尾道を通るときにも、当時から酒蔵が多い場所だったのか、「をの道や 三原の酒旗の 風吹けば 口によだり(涎)を ながす舟人」と詠んでおり、宗因の少し緩んだような心持ちが感じられる。

ちなみに、この「道記」を「飛鳥川」という名で世に紹介された小宮豊隆氏が次のように述べていることにも、留意しておきたい。「最も悲痛な運命に置かれ、また最も悲痛な情感を基調とする旅の記述の中に、折折滑稽な、俳諧歌が出て来るといふ事実、然もその事実は、宗因に悲痛な運命を十分悲痛に受けとるだけの、人生に対する誠実な純粋な感情があつたといふ事を説明するとともに、一方では宗因に、苛烈な運命を最後には押し返して、それを超越しようとする意志があつたといふ事を証明するものであるといふ事は、後年の宗因の、談林の俳諧の本質を理解する上に、貴重な鍵を提供する」(*1)

 

旅先ならではの、人との交流もあった。周防灘すおうなだ上関かみのせきを過ぎたところで、荒天による待機となった折、松かげの小庵に住む老師がいた。所望されて、まがきに品よく植えられていた菊を念頭に一句捧げた。宗因は、「道記」のなかでこう独白している―う(憂)き中にも、旅こそは又心なぐさむ事はおほかれ。

第二は、宗因の心を慰めたものは、旅先で日々経験したことだけではなく、それを紀行文という散文のかたちに仕上げて行ったことのなかにもあったのではなかろうか、ということである。それまで和歌や連歌の修行に明け暮れていたなかで、われ知らず散文をしたためることになり、その過程そのものが、自らの心を和らげてくれた。これは、同様に和歌や漢文に専念してきた紀貫之が「土佐日記」で試した、小林秀雄先生が言うところの「自分には大変親しい日常の経験を、ただ伝えるのではなく、統一ある文章に仕立て上げてみるという」「和文制作の実験」(「本居宣長」)を通じて体感した功徳くどくと同種のものであったに違いない(*2)

さらに、彼は後年、大名諸侯の求めに応じて日本各地を旅し、津山、奥州、筑紫太宰府などで多くの紀行文を記すことになるが、この「道記」を通じて得られた功徳がそれらの原体験になった面もあったのではあるまいか。

第三は、宗因は、単に全国を旅して紀行文を残したというだけではなく、人生いかに生きるべきかという処世上の態度として、居所を定めない生き方を貫き、最期の死所も不明というように「『一生旅程雲水』のごとき」(*3)生涯を閉じた、ということである。かれは「道記」の最後に、この我が身は、「古今和歌集」所収の「世の中は いづれかさして わがならむ 行き止まるをぞ 宿と定むる」(よみ人知らず、巻第十八、雑歌下、九八七)という歌そのままだ、と述懐しつつ一首詠んでいた。

くり返し おもへば世やは う(憂)かるべき 身はもとよりの しづのをだ巻(倭文の苧環)

「しづのをだ巻」の「しづ」は麻などで織った古代の布、「をだ巻」は織物を織るために麻などを球状に巻いたものを言い、そこから「しづのをだ巻」は「くり返し」や「賤しい」という言葉の序詞として使われることが多いが、ここでは自分はもともと賤しい身だ、その自分が「くり返しおもって(思って)みれば」と言っていて、歌意は、賤しい身の上だが、いや、だからこそ、気が滅入ることばかりの世の中でも、何度でも出直してやろう、である。私は前章で、「弱気に傾きがちな自らを奮起させるような、秘めた強い思いを感得せざるをなかった」と書いたが、まさにこの上洛の旅と執筆の経験こそが、その後の彼の生き方を決定付けた力強い原動力の一つとなったのではないだろうか。

最後に、宗因は、紀貫之はもちろん、柿本人麻呂ら「万葉集」の歌人、壬生忠岑みぶのただみねら「古今集」の歌人、そして菅原道真や紫式部などの歌や物語を踏まえて「道記」を書き上げている。それは、先達が味わってきた哀しみを、わが哀しみとして深く体感し追体験することである。宗因のその後の連歌修行と大阪天満宮連歌所の宗匠就任、さらには一世を風靡した俳諧活動の展開のなかにおいて、この「道記」を書いた経験が、古人との繋がりをまざまざと実感させ、彼が「人生いかに生きるべきか」と新たな道を切り拓いて行くうえで、豊かな糧とならなかったわけはないように思う。

 

 

十、連歌所宗匠 西山宗因

 

さて、寛永十年(一六三三)十月半ば、上洛した西山宗因は、旧主風庵(正方)が隠棲している京都堀河六条、本圀寺ほんこくじ塔頭たっちゅう近くの「夕顔の小家」に住んだ。しかし、京都の地は宗因にとって馴染みがない場所ではなかった。元和五年(一六一九)、十五歳で正方に仕え始めた彼は、元和八年(一六二二)に初上洛し、伏見肥後殿橋にあった加藤家伏見屋敷で公務に就く傍ら、里村南家に出入りし師昌琢しょうたく(*4)から連歌の指導を受けていたのである。里村家は、毎年正月の幕府御連歌始に宗匠として第一の連衆を務め、徳川三百年にわたり連歌界の頂点に君臨していた家柄であった。それから約八年間、宗因は京都で昌琢出座の連歌の席に連なるなど研鑽を積んでいたのである。

そして再上洛し連歌の席に交わることになったが、その約半分は、風庵の相手を勤めたりするなど、風庵に随って出座している(*3)。若い頃から何かと目をかけてきてくれた風庵への思慕の念は強かった。また、寛永十七年(一六四〇)から十八年頃には伏見に転居し、妻帯して長子伊之助(後の宗春)も生まれている。

ところが、正保元年(一六四四)八月、正方に対し、京都から追放し広島の松平(浅野)安芸守光晟みつあきら預りとする幕命が下った。再就職のつてを求めていた風庵の動きを、幕府が嫌ったものと思われる。それでも宗因は、しばしば広島を訪れて、風庵の消沈した気持ちを慰めた。その後、正保四年(一六四七)九月、宗因は里村家の推挙を得て、摂津南中島天満宮(大阪天満宮)連歌所宗匠に就任した。そこでまず宗因に与えられた使命は、長年にわたり中断していた月次つきなみ連歌の再興であった。しかしその翌年(慶安元年)、広島の風庵が発病し、九月にはこの世を去ってしまう。宗因は、度重なる広島往復などで慌ただしかったようで、月次連歌の再開は、翌慶安二年(一六五三)の正月にずれ込んだ。気付けば宗因も、四十五歳を迎えていた。

同年九月には、風庵の一周忌が営まれ、宗因は追善の千句を捧げた(「風庵懐旧千句」)。その冒頭でこのように述べている。

「……ことわり(理)のよわひ(齢)なれど、我身にとりては、たの(頼)む木陰の枯れは(果)つる心ち(地)ぞし侍る。志学のころ(頃)ほひより、ことに情をかけてめぐ(恵)みたて給し心ざしの程、いへばおろか也。されば、世俗のつたな(拙)きことの葉をひるがへして、ねがはくは其恩をむく(報)ふるはしにもなれ、……」

そして、自らを守り育ててくれた大木のような存在であった師の仏前に、こんな句を供えた。

つゐにゆく 月日は今日や 去年こぞの秋
きけば時雨に 露もろき袖……

 

明暦二年(一六五八)九月には、天満宮内の仮寓有芳庵から向栄庵に移居した。ちなみに現在は、大阪天満宮の大門の向かって右手に「西山宗因向栄庵跡」という石碑が立てられていて、天満宮の社殿などの風情とともに、当時の様子を偲ぶことができる。

さて、宗因の大阪やその周辺での活躍が進むにつれて、その舞台はさらに大きく広がって行く。大名諸侯の要請に応じて、全国各地を訪れる機会が増えた。前章でも触れたように「津山紀行」「奥州紀行」「筑紫太宰府記」「明石山庄記」などの紀行文は、その賜物である。わけても深い交流が続いたのは、岩城平の内藤左京亮義概よしむね風虎ふうこ、豊前小倉の小笠原右近将監忠真ただざね、播州明石の松平日向守信之という面々であった。

例えば、寛文五年(一六六五)二月、小笠原忠真公の七十賀を祝して、小倉城で興行された「小倉千句」(*5)がある。

寛文五年二月吉祥日

第一

花之何 十七日

とし毎の 若葉ぞためし 千世の春
忠真
子日ねのひの松を ことの葉の種
長真
うぐいすの 野べのあけぼのつけぞめて
光真
雪はちりつつ 霞たつ空
御内上
打出る 氷のひまの 滝つ浪
惣御代
さほの音する 末の川船
宗因
月はまだ 竹のしげみに へだたりて
 
軒の雫に のこるゆふ霧
 

 

連歌の第一句目である発句ほっくは忠真が詠み、その発句に連ねる脇(句)に嫡男長真、以下小笠原一門が続き、六句目からを宗因が詠んでいる。ただ実際には、下書きの存在から、宗因がすべてを代作したものと見られている。このように「今や宗因は、大阪天満宮の連歌所宗匠たるにとどまらない。天下諸侯の崇敬をあつめ、その扶持を受ける身」(*6)となっていたのである。

 

一方、実生活においては、必ずしも順風満帆というわけには行かなかった。寛文二年(一六六二)には、奥州行の間に長女を亡くした。旅先での又聞きであった。彼は、その時の状況をこう記していた。

「やつがれ(吾)がむすめ、文月のころ(失)せにけるとぶら(訪)ひをきくに、ともかくもおもひわかず、今までつげざりし故郷人もおぼつかなく、夢にやあらん、いつは(偽)りにもやと、よろづにおもひうるかたなし。

声をだに きかぬを聞きし 人づ(伝)ては さながら夢の わかれなりけり

いに(去)し春、老のわかれこそ心ぼぞ(細)うおもひしに、かくさかさま(逆様)なる愁にしづむは、返す返すつれなき命にこそ。……」(「奥州紀行 陸奥行脚記」)

さらに、「つれなき命」は長女だけではなかった。寛文六年(一六六六)には、次男も亡くした。翌同七年十月十八日には、親交の深かった小倉の小笠原忠真公が亡くなり、その二日後には妻(狩野探幽の女(むすめ)と言われている)までも喪ってしまった。このように、立て続く不幸に遭遇した彼の心境は、察するに余りあるものがある。

そんな宗因は、寛文十年(一六七〇)二月十五日、仏涅槃会ねはんえの日を選び、小倉の福聚寺二世法雲禅師のもと、従来から持ち続けていた出家遁世のねがいを遂げる。さらにその翌年には、連歌所宗匠職を長男の宗春に譲った。六十七歳になっていた。「家を出て世を捨て、一切を放下ほうげした宗因は、今や全く身も心も軽くなった。後年、談林一流の俳諧にまで発展した宗因の俳諧活動が、この出家遁世を境として俄然活気を呈してきた」(*6)のである。

 

十一、俳諧師 西山宗因

 

宗因による俳諧は、彼が五十歳になろうとする頃、すなわち承応二年(一六四九)頃から始まっている。例えば次の一句は、万治元年(一六五八)刊の「牛飼」に初めて出したものである。

ながむとて 花にもいたし 首の骨   梅翁(宗因)

上・中二句は「眺むとて 花にも いたく馴れぬれば 散る別れこそ 悲しかりけれ」という西行の歌(「新古今和歌集」巻二春下)が念頭にあり、下句の日常語と組み合わせて、花を眺めすぎて首がいたくなってしまったよ、というおかしみも込めて表現した句である。

もう一つ、延宝二年(一六七四)刊の「宗因蚊柱かばしら百句」には、こういう箇所がある。

月もしれ 源氏のながれの 女なり

青暖簾あおのうれんの きりつぼのうち

一葉ちる宿は 餅ありだんご有

 

しかしこれが、当時広く受け入れられていた、松永貞徳ていとく(*7)を中心とする貞門俳諧の人々から強い非難を受けた。なかでも匿名のさる法師という人物は、目の前に現れた蚊柱を追い払うべく「渋団しぶうちわ」を出版して宗因を非難した。いったい何が非難されたのか? ここで「源氏のながれの女」とは、源氏の血を継いでいる女という意だが、次の「青暖簾」という言葉が、遊里の部屋にかかる暖簾を意味するため、その女が遊女を連想させ、それと光源氏の亡母桐壺更衣とを一緒にされたことに、去法師は「下劣の沙汰」「放埓ほうらつ至極也」と噛み付いた。貞徳は、俳諧を連歌の余興とはいえ、なるべく連歌や和歌の方に引き上げようと連歌の式目に準じた規則の整備などを行ってきていたため、門人にとっても、宗因が見せた自由奔放と破格は断じて許せないものだったのだ。

一方宗因にとってみれば、そもそも第一線を退いた後の七十歳の年寄りの余技に過ぎぬじゃないか、という気持ちもあったし、だからこそ余生は、それまで従ってきた連歌の諸制約や社会的な立場から解き放たれて、俳諧特有の滑稽こっけい諧謔かいぎゃくを自由に発揮、謳歌したいと思っていたのであろう。そんな心持ちで、非難の応酬に時間を費やすのは無益と感じたのか、彼自身が「渋団」に対してすぐに反論した様子は見られない。実は、それから六年後に刊行された俳諧集で次のように本音を漏らしている。「古風・当風・中昔、上手は上手、下手は下手、いづれをわきまへず、すいた事してあそぶにはしかじ。夢幻ゆめまぼろし戯言げげん也。谷三つとんで火をまねく、皆是あだしのの草の上の露」(「阿蘭陀丸二番船」)

ところが、むしろ宗因の支持者が黙ってはいなかった。その一人である岡西惟中いちゅう(*8)は、さっそく「渋団返答」を書いて師の擁護の先頭に立った。

さらに、その支持者の一人として、突如表舞台に現われた人物がいた。井原鶴永、のちの西鶴(*9)である。寛文十三年(一六七三)春、大阪生玉いくたま神社で万句俳諧が興行され、同六月末には、鶴永の処女撰書「生玉万句」として刊行された。江本裕氏によれば、宗因はもちろん、宗因との関係の深い人物も出句している(*10)。最後の三句を紹介しよう。

さく花や 懐紙かいしあはせて 四百本
井原鶴永
水引壱青柳の糸
南方由
春風を おさむるへぎ(片木)に 熨斗のし添へて
西山西翁

宗因も、鶴永による興行の成就を祝しているようである。

なお、同年(延宝元年に改元)冬、鶴永は、宗因の姓から一字いただき西鶴と改号した。彼の喜ぶ「鶴の一声」が聞こえてきそうだ。ともあれ、このとき彼は三十二歳、宗因に学んだ誹諧も存分に糧としたうえで、「豊富な古典的知識と艶麗の天稟てんぴんと雄偉の文章をもって」(*11)浮世草子として著名な処女作「好色一代男」を書き上げ、時代の寵児ちょうじとなるのは、この九年後のことである(*12)

 

さて、この延宝元年から延宝二年(一六七四)にかけて、「西山宗因千句」「西山宗因後五百韻」「西山宗因蚊柱百句」「宗因五百句」「西山宗因釈教誹諧」というように、宗因の名を冠した俳書が立て続けに刊行されている。これは、宗因の個人的人気に便乗した当時の書肆(書店)が積極的に出版したものである。しかしながら、これらの出版に関し、どこまで宗因の息がかかっていたかは、先に見た「渋団」に沈黙を通した彼の態度などを勘案すれば、はなはだ疑問である。しかしながら、乾裕幸氏の指摘の通り「『西山宗因』の四字は、いまやすこぶる効率の高い引札として世間に通用した」のであり、商業出版界の興隆と時を同じくするかたちで、本人の意思とは別にして、宗因の人気はうなぎ登りとなっていった(*13)

 

(*1)小宮豊隆「宗因の『飛鳥川』に就いて」、「芭蕉の研究」岩波書店

(*2)「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅱ―紀貫之の「実験」、「好*信*楽」2024年冬号、

(*3)野間光辰「連歌師宗因」、「談林叢談」岩波書店

(*4)天正二年(一五七四)~寛永十三年(一六三六)。昌叱の子。

(*5)千句とは、発句から脇(句)、第三と続け、最後の挙句までの百句を百韻とし、それを十巻千句にまとめたもの。

(*6)野間光辰「西山宗因」、同上書

(*7)元亀二年(一五七一)~承応二年(一六五三)。里村北家の紹巴(じょうは)から連歌を、九条稙通(たねみち)・細川幽斎に和歌・歌学を学ぶ。

(*8)寛永十六年(一六三九)~正徳元年(一七一一)。

(*9)寛永十九年(一六四二)~元禄六年(一六九三)。

(*10)江本裕「俳諧師 西鶴」、「西鶴への招待」岩波セミナーブックス49

(*11)保田與重郎「芭蕉」講談社学術文庫

(*12)例えば、熊本生まれの言論人、徳富蘇峰は、西鶴を次のように評している―彼が宗因門下の俳諧師としての生立ちは、浮世草子の作者としての彼に、多大の感化を与えた。その句法においては、発句(ほっく)式に、なるべく少なき文字にて、多くの意味を言い現さんとし、その章法においては、連歌式に、聯想(れんそう)によりて一話頭から、他の話題に飛び越す慣用手段を取らしめた。而(しこう)して両者は、時としては彼が文章の長技となり、時としては短所となったが、しかも彼の特色は、全くこれによりて発揮せられた。(「近世日本国民史 元禄時代世相篇」講談社学術文庫)

(*13)乾裕幸「俳諧師西鶴 考証と論」、「前田国文選書1」

 

【参考文献】

・柿衛文庫、八代市立博物館未来の森ミュージアム、日本書道美術館編「宗因から芭蕉へ ―西山宗因生誕四百年記念」八木書店

 

(つづく)