小林秀雄「本居宣長」全景(三十九)

池田 雅延

第二十九章 漢字を迎えた日本人

 

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今回は、第二十九章である、次のように書き出されている。

―「神代史の新しい研究」(大正二年)に始まった、津田左右そうきち氏の「記紀」研究は、「記紀」の所伝に関して、今までにない、およそ徹底した所謂いわゆる科学的批判が行われたという事で、名高いものである。「記紀」は、六世紀前後の大和朝廷が、皇室の日本統治を正当化しようが為の、基本的構想に従って、書かれたもので、勿論もちろん、日本民族の歴史というようなものではない。この結論に行きつく為になされた、「記紀」の歴史史料としての価値の吟味は、今日の古代史研究家達に、大きく影響し、言わば、その仕事の土台を提供したと言ってもよいのであろうか。……

津田左右吉は、明治六年(一八七三)、岐阜県に生れた歴史学者で、早稲田大学の教授であった大正七年から昭和一五年にかけての時期を中心として日本の思想史、中国の思想史、そして記紀(『古事記』『日本書紀』)の本文批判に基づく古代史研究に従事したが、小林氏が言っている「科学的批判」の「批判」も基本的には「本文批判」であり、「本文批判」とは古典の写本を作品ごとに比較し、検討し、それぞれの作品について大本おおもとの原本に最も近いと思われる本文形態を定めようとする学術作業である。

今日のような印刷技術はなかった時代の作品や歌集は、いずれも手書きの写本で伝わった。「萬葉集」であれ「源氏物語」であれ相次いで書写され、こうして生まれた写本もまた書写され書写されしていったが、そういう書写の過程で写し間違いや写し落しが起ってもそうとは気づかれないまま写され続けた箇所も少なくなく、そのうち本来の「萬葉集」や「源氏物語」はどうであったかがわからなくなってしまうという事態に至った。原本がどこかに保存されている作品や歌集であれば原本と照合することもできたが、原本はもはや行方知れずとなっている作品は写本を幾種類も集めてきて突き合わせ、これらをどう接合すれば本来の本文により近くなるかを追究する必要が生まれてそれが古典研究の基礎作業となり、こうした古典研究の基礎作業が「本文批判」と呼ばれたのである。

 

「批判」という言葉を聞くと、ふつう私たちは、たとえば『大辞林』に「誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと」と言われている「批判」をまず思い浮かべるが、『大辞林』にはこれより先に「物事の可否に検討を加え、評価・判定すること」という語義が挙げられていて、古典研究のための「本文批判」はこちらの「批判」であり、津田左右吉の「記紀」研究も、こういう意味合での「科学的批判」で声価を得たのだが、小林氏は、津田左右吉が得た声価はもう一方の「批判」、すなわち「本居宣長『古事記伝』批判」に立って得られたということを第二十九章で詳しく言い、その津田左右吉の宣長批判をてことして「古事記」に関わる宣長の洞察を目の当たりにさせるのである。

 

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小林氏はまず言う。

―津田氏は、「宣長が古事記伝を書いてから、古事記の由来について、一種の僻見へきけんが行われている」という事を言っている。これが、氏の長い研究を通じて変らない意見であった事は、言うまでもないが、この一種の僻見とは、宣長のどういう考えに発しているかというと、「古事記」は、の「誦習ヨミナラヒ」、つまり阿礼が、漢文で書かれた古書を、国語にみ直して、書物を離れて、これを暗誦あんしょうしたところに成り立ったとする考えだ。安万侶やすまろの「古事記序」を、宣長は、そう読みたかったから、そう読んだに過ぎず、正しく読めば、そのような意味の事は、序には書かれていない、と津田氏は言うのである。その意見は、ほぼ次のようなものだ。……

「阿礼」は稗田阿礼ひえだのあれ、「安万侶」は太安万侶おおのやすまろで、「古事記」はこの二人の才覚と献身で成ったのだが、以下、小林氏を介して津田左右吉の言うところを聞こう。

―宣長は、阿礼を、大変な暗記力を持った人物と受け取っているようだが、「人とり聡明にして、目にワタれば口にみ、耳にフルれば心にシルす」とは、極く普通に、博覧強記はくらんきょうきの学者と解すればいいわけで、特に暗誦に長じた人と取る理由はない。その気で読んでいるから、序に使われている「辞」という言葉も、耳に聞く言語という意味に読むので、成心なく読めば、帝紀と本辞旧辞という風に、対照して使われているのだから、当然、目に見る文字に写された物語という意味に読んでいい筈である。阿礼が手掛けた古記録の類の多くは、「古事記」の書きざまと大差のないものだったであろう。漢字で国語を写すという無理が、勝手な工夫で行われて来たのだろうから、古記録は、当時はもう極めて難解なものとなっていたに違いない。そこで、阿礼という聡明な学者がやった事は、せんがくが「万葉」をみ、宣長自身が「古事記」を訓んだと同じ性質のものだと考えていいわけで、誦むは訓む、誦習は解読の意と解するのが正しい。阿礼の口誦こうしょうという事を信じた宣長は、上代には、書物以外にも、伝誦されていた物語があったように考えているらしいが、そのような形跡は、ごうも文献の上に認める事が出来ないし、便利な漢字を用いて、記録として、世に伝えられているのに、何を苦しんで、ことさらに、口うつしの伝誦などする必要があったろうか。要するに、このような宣長の誤解は、「古事記」に現れた国語表現というものを、重く考え過ぎたところから起ったとせざるを得ない、と津田氏は言う。……

「仙覚」は鎌倉時代の天台宗の僧で、「萬葉集」が奈良時代の末期に編まれて以来四百年、全二十巻、総計約四千五百首のすべてが漢字で書かれていたため誰にもほとんど読めなくなっていた「萬葉集」の本文批判を初めて本格的に行い、百数十首に新たな訓みを試みて日本の古典研究の基礎を確立したと言われている人物である。「萬葉集」の本文批判、訓読と言えば江戸時代の契沖がよく知られているが、仙覚の『萬葉集註釈』は契沖の『萬葉代匠記』の先蹤だったのである。

しかし、一方、と小林氏は続ける、津田氏は、

―「古事記伝」という宣長の学問の成績を、無視する事は出来ないわけで、これについては、実に感嘆のほかはないと言っているのである。すると、宣長の学問は、僻見から出発しなければ、あれほどの成績のあがらないものであったか。無論、揚げ足を取る積りなど少しもないので、こんな事を言い出すのも、やはり歴史というものは難かしいものだ、と思わせるものが、其処そこに見えて来るからだ。問う人の問い方に応じて、平気で、いろいろに答えもするところに、歴史というものの本質的な難解性があるのであろうか。現代風の歴史学の方法で照明されると、宣長の古学は、僻見から出発している姿に見える、そういうところに、歴史の奥行とでも言うべきものが、おのずから現れて来るのが感じられて、面白く思うのである。……

小林氏の文章は、こうしてここまでは津田左右吉の言わば「難本居宣長『古事記伝』」の観望である。「難」は「批難」の意で、古文献で時折見かける言葉だが、津田左右吉がこの語を用いているわけではない。しかし、ここから先は小林氏の「難津田左右吉の記紀研究」とも言える宣長弁護論、と言うより宣長の仮説正当論が展開され、これによっていっそう峻嶮の度が増す「宣長の『古事記』」と「津田左右吉の『古事記』」との対峙を確と見て取るために私池田が敢えて用いてみたのである。この対峙は、第二章で言われていた「思想の劇」を、それこそ劇的に思い起させるのである。

―或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥はんぱつしたりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。……

江戸時代の中期、本居宣長が主役となって幕を開けた「思想の劇」は、宣長亡き後の大正七年、津田左右吉というしたたかな敵役かたきやくの登場で最後の山場にかかったのである。

 

3

 

小林氏の筆鋒は、一語一語、一行一行、研ぎ澄まされていく、氏は、宣長の身になって津田左右吉を難じるのである、私たちは小林氏の身になって氏の言うところを聞こう。

―宣長が、「古事記」の研究を、「これぞ大御国の学問モノマナビの本なりける」と書いているのを読んで、彼の激しい喜びが感じられないようでは、仕方がないであろう。彼にとって、「古事記」とは、吟味すべき単なる史料でもなかったし、何かに導き、何かを証する文献でもなかった。そっくりそのままが、古人の語りかけてくるのが直かに感じられる、その古人の「言語モノイヒのさま」であった。耳を澄まし、しっかりと聞こうとする宣長の張りつめた期待に、「古事記序」の文が応じたのであった。従って、津田氏の指摘する「辞」という言葉にしても、文章と読者との間の、そのような尋常な人間関係のうちで、読まれていたのであり、これを離れて、「辞」という言葉の定義が求められていたのではない。阿礼が、ちょくを奉じて誦み習ったのは、「帝紀及び本辞」であったと「序」は言う。津田氏は、「書紀」の天武紀に、川嶋皇子等にみことのりして、「令定帝紀及上古諸事」とあるのを引き、「本辞」とは「上古諸事」、即ち旧事の記録の意味と解するが、宣長となると、これが逆になり、「書紀」から同じ川嶋皇子の修撰しゅうせんの条を引き、「古事記」の場合、「旧事といはずして、本辞旧辞と云ヘる」は、古語や口誦との関係を思っての事だと解する。更に、「帝紀及び本辞」という言い方が、「帝皇つぎ及び先代旧辞」となり、「旧辞の誤りと先紀のあやまり」となり、遂に、「阿礼が誦む所の勅語の旧辞」だけになる、そういう文の文脈、語勢が、「辞」という言葉の意味を決定する、と宣長は見た。津田氏は、「辞」を「事」とする考えを動かさぬから、「勅語の旧辞」というような表現は許せないわけで、まるで意味をなさぬという事になろう。……

小林氏は畳み掛ける、

―津田氏の考えは、「辞」の字義の分析の上に立つ全く理詰めのものなのに対し、宣長の考えは、「序」を信ずる読者の鋭敏性から、決して離れようとしない。阿礼という人間にしても、安万侶の語り口を見れば、ただ有能なフビトと受取るわけにはいかないというのだ。語部かたりべという事は言われていないが、何かそういう含みのある人間と感じ取られている事は明らかで、それに順じて、「誦習ヨミナラヒ」という言葉も、大変微妙な含みで使われている事は、「古事記伝」を注意して読む者にははっきりした事だ。宣長にしてみれば、誦習とは解読の意味だ、と簡単に問題を片附けてしまう事は、到底出来なかったのである。……

続けて言う、

―古書は、普通、漢文のサマに書かれて来たとは、改めて言うまでもない解り切った事である、と誰も考えている。凡そ読み書きを覚えるという道は、漢文の書籍に習熟するより他に、開けていなかったという、わが国の上代の人達が経験していた、言語生活上の、どうにもならぬ条件に、深く思いを致す者がない。それが、宣長が切り開いた考えだ。そして、この考えに彼を導いたのは、「古事記」というただ一つの書であった。……

この引用文中の、特に次のくだりに留意されたい。

―凡そ読み書きを覚えるという道は、漢文の書籍に習熟するより他に、開けていなかったという、わが国の上代の人達が経験していた、言語生活上の、どうにもならぬ条件に、深く思いを致す者がない。それが、宣長が切り開いた考えだ。……

「小林秀雄『本居宣長』全景」と題して続けているこの小文の今回、標題を第二十九章の中ほどで言われている「漢字を迎えた日本人が、漢字に備った強い表意性に、先ず動かされた事は考えられるが、……」から採って「漢字を迎えた日本人」としたが、その「漢字を迎えた日本人」への小林氏の想像力駆使は、たったいま引いた「凡そ読み書きを覚えるという道は、漢文の書籍に習熟するより他に、開けていなかったという、わが国の上代の人達が経験していた、言語生活上の、どうにもならぬ条件」、ここからである。ここから始めて小林氏は「漢字を迎えた日本人」の悪戦苦闘、すなわち、日本人の誰もがありったけの智慧を絞って漢字の一字一字と対決し、そうすることで漢字漢文、延いては先進国中国の文化文明を我が物としようとした奮励努力に思いを致して第二十九章を書き継ぐのである。

 

4

 

以下、第二十九章を読み進めてそこに「漢字を迎えた日本人」が登場するたび小林氏の文章を引用していくが、その二番手はつい先ほど引いた「古書は、普通、漢文のサマに書かれて来たとは……」と言われていたくだりに続く次の条である。これらの引用文中、私がわけても注目する条に下線を引いていく。

―「奈良の御代のころに至るまでも、物に書るかぎりは、此間ココの語のママなるは、をさをさ見えず、万葉などは、歌のフミなるすら、端辞ハシノコトバなど、みな漢文なるを見てもしるべし」と言う。この「書るかぎりは」とは散文の意であり、彼の言い方に従えば、「かならず詞をアヤなさずても有ルべきかぎりは、みな漢文にぞ書りける」となる。この宣長の考えは、大変はっきりしたもので、仮字かなによって、古語フルコトのままに書くという国語の表記法は、詞のアヤを重んずる韻文いんぶんに関してだけ発達したと見た。ここで「詞のアヤ」と言うのは、無論、文字を知らなかった日本人が育て上げた、国語の音声上のアヤを言うので、これは漢訳がかない。固有名詞とは、このアヤの価値が極端になった場合と見て置いてよかろう。国語は先ず歌として生れたというのが、宣長の考えであったが、言うまでもなく、これは国語界の全く内輪の話であり、国語の漢字による表記という事になれば、まるで違った問題になる。……

漢字を迎えた日本人が、漢字に備った強い表意性に、先ず動かされた事は考えられるが、表音性に関しては、極めて効率の悪い漢字を借りて、詞のアヤを写そうという考えが、先ず自然に浮んだとは思えない。これには、不便を忍んでも、何とかして写したい、という意識的な要求が熟して来なければならない事だし、当然、これは、詞のアヤを命とする韻文というものの性質についての、はっきりした自覚の成熟と見合うだろう。歌うだけでは不足で、歌のフミが編みたくなる、そういう時期が到来すると、仮字による歌の表記の工夫は、一応の整備を見るのだが、それでも同じフミの中で、まるでこれに抗するような姿で、「かならず詞をアヤなさずても有ルべきかぎりは」漢文のサマに書かれている異様な有様は、古学者たるものが、しっかりと着目しなければならぬところだ、と宣長は言いたいのである。……

―「大御国にもと文字はなかりしかば、上ツ代の古事フルコトどもも何も、タダに人の口に言ヒ伝へ、耳にキキ伝はり来ぬるを、やゝ後に、外国トツクニより書籍フミと云フ物渡リ参来マヰキて、其を此間ココの言もて読ミならひ、その義理ココロをもわきまへさとりてぞ、其ノ文字を用ひ、その書籍フミコトバカリて、此間ココの事をも書記カキシルすことにはなりぬる」。又しても、こんな引用を、「古事記伝」からしたくなるのも、誰もこの歴史事実を知識としては知っているが、「書籍フミと云フ物渡リ参来て」幾百年の間、何とかして漢字で日本語を表現しようとした上代日本人の努力、悪戦苦闘と言っていいような経験を想い描こうとはしない、想い描こうにも、そんな力を、私達現代人は、ほとんど失って了っている事を思うからだ。これを想い描くという事が、宣長にとっては、「古事記伝」を書くというその事であった。彼は、上代人のこの言語経験が、上代文化の本質を成し、その最も豊かな鮮明な産物が「古事記」であると見ていた。その複雑な「文体カキザマ」を分析して、その「訓法ヨミザマ」を判定する仕事は、上代人の努力の内部に入込む道を行って、上代文化に直かに推参するという事に他ならない、そう考えられていた。……

―ところで、この努力の出発点は、右の引用にあるように、「書籍フミと云フ物」を、「此間ココの言もて読ミなら」う、というところにあった、即ち、訓読というものが、漢字による国語表現の基礎となった、と宣長は言う。わかり切った事と他人事のようには言うまい。漢字漢文を、訓読によって受止めて、遂にこれを自国語のうちに消化して了うという、鋭敏で、執拗な知慧は、恐らく漢語に関して、日本人だけが働かしたものであった。……

―例えば、上代朝鮮人もまた、自国の文字も知らずに、格段の文化を背景に持つ漢語を受取ったが、その自国語への適用は、遂に成功せず、棒読みに音読される漢語によって、教養の中心部は制圧されて了った。諺文おんもんの発明にしても、ずっと後の事であるし、日本の仮名のように、漢字から直接に生み出されたものではない。和訓の発明とは、はっきりと一字で一語を表わす漢字が、形として視覚に訴えて来る著しい性質を、素早く捕えて、これに同じ意味合を表す日本語を連結する事だった。これが為に漢字は、わが国に渡来して、文字としてのその本来の性格を変えて了った。漢字の形は保存しながら、実質的には、日本文字と化したのである。この事は先ず、語の実質を成している体言と用言の語幹との上に行われ、やがて語の文法的構造の表記を、漢字の表音性の利用で補う、そういう道を行く事になる。これは非常に長い時間を要する仕事であった。言うまでもなく、計画や理論でどうなる仕事ではなかった。時間だけが解決し得た難題を抱いて、日本人は実に長い道を歩いた、と言った方がよかろう。それというのも、仕事は、和訓の発明という、一種のはなわざとでも言っていいものから始まっているからだ。……

―「古事記伝」から引いてみようか、「かの皇天とある字を、アメノカミとよめるは、皇天にては、古意にかなはず、かならず天神とあるべきトコロなることをわきまへたるなれば、此ノ訓はよろし、されど此ノ訓によりて、皇天即チ天神と心得むは、ひがことなり、すべて書紀をむには、つねに此ノケヂメをよく思ふべき物ぞ、よくせずば漢意に奪はれぬべし」云々。放れ業なら、その意味合をはっきり判じようとすれば、一向はっきりしなくもなるだろう。それは、この短文を一見しただけでも、解る筈である。何故かというと、妙な言い方になるが、では、天をアメと訓むのは宜しいが、此の訓によって、アメ即ち天と心得むは、ひがごとか、そういう事になるからだ。「アメ」という訓は、「天」という漢字の意味に対応する邦訳語だと、私達には苦もなく言えるとしても、「天」の他に文字というものを知らなかった上代人にしてみれば、訓とは、「天」という漢字の形によって、「アメ」という日本語を捕え直す、その働き、まことに不安定な働きを意味したろう。従って、「アメ」即ち「テン」という簡単な事にはならない。「天」は「アメ」を現す文字として日本語のうちに組入れられても、形がそのまま保存されている以上、漢字としての表意性は消えはしないだろう。それなら、「アメ」と「天」は、むしろ一種の対抗関係にある。対抗しているからこそ、両者は微妙に釣合もする。そういう生きた釣合を保持して行くのが、訓読の働きだったと言えよう。……

―それにしても、話される言葉しか知らなかった世界を出て、書かれた言葉を扱う世界に這入る、そこに起った上代人の言語生活上の異変は、大変なものだったであろう。これは、考えて行けば、切りのない問題であろうが、ともかく、頭にだけは入れて置かないと、訓読の話が続けられない。言ってみるなら、実際に話し相手が居なければ、尋常な言語経験など考えてもみられなかった人が、話し相手なしに話す事を求められるとは、異変に違いないので、これに堪える為には、話し相手を仮想して、これと話し合っている積りになるより他に道はあるまい。読書に習熟するとは、耳を使わずに話を聞く事であり、文字を書くとは、声を出さずに語る事である。それなら、文字の扱いに慣れるのは、黙して自問自答が出来るという道を、開いて行く事だと言えよう。……

言語がなかったら、誰も考える事も出来まいが、読み書きにより文字の扱いに通じるようにならなければ、考えの正確は期し得まい。動き易く、消え易い、個人々々の生活感情にあまり密着し過ぎた音声言語を、無声の文字で固定し、整理し、保管するという事が行われなければ、概念的思考の発達は望まれまい。ところが、日本人は、この所謂いわゆる文明への第一歩を踏み出すに当って、表音の為の仮名を、自分で生み出す事もなかったし、他国から受取った漢字という文字は、アルファベット文字ではなかった。図形と言語とが結合して生れた典型的な象形文字であった。この事が、問題をわかりにくいものにした。……

漢語の言霊は、一つ一つの精緻な字形のうちに宿り、蓄積された豊かな文化の意味を語っていた。日本人が、自国語のシンタックスを捨てられぬままに、この漢字独特の性格に随順したところに、訓読という、これも亦独特な書物の読み方が生れた。書物が訓読されたとは、尋常な意味合では、音読も黙読もされなかったという意味だ。原文の持つ音声なぞ、初めから問題ではなかったからだ。眼前の漢字漢文の形を、眼で追うことが、その邦訳語邦訳文を、其処に想い描く事になる、そういう読み方をしたのである。これは、外国語の自然な受入れ方とは言えまいし、勿論、まともな外国語の学習でもない。このような変則的な仕事を許したのが、漢字独特の性格だったにせよ、何の必要あって、日本人がこのような作業を、進んで行ったかを思うなら、それは、やはり彼我ひがの文明の水準の大きな違いを思わざるを得ない。……

向うの優れた文物の輸入という、実際的な目的に従って、漢文も先ず受取られたに相違なく、それには、漢文によって何が伝達されたのか、その内容を理解して、応用の利く智識として吸収しなければならぬ。その為には、宣長が言ったように、「書籍フミと云フ物」を、「此間ココの言もて読ミなら」う事が捷径しょうけいだった、というわけである。無論、捷径とはっきり知って選んだ道だったとは言えない。やはり何と言っても、漢字の持つ厳しい顔には、圧倒的なものがあり、何時いつの間にか、これに屈従していたという事だったであろう。屈従するとは、圧倒的に豊富な語彙ごいが、そっくりそのままの形で、流れ込んで来るに任せるという事だったであろう。それなら、それぞれの語彙に見合う、凡その意味を定めて、早速理解のうちに整理しようと努力しなければ、どうなるものでもない。この、極めて意識的な、知的な作業が、漢文訓読による漢文学習というものであった。これが、わが国上代の教養人というものを仕立てあげ、その教養の質を決めた。そして又これが、日本の文明は、漢文明の模倣で始まった、と誰も口先きだけで言っている言葉の中身を成すものであった。……

 

5

 

「小林秀雄『本居宣長』全景」の今回、「漢字を迎えた日本人」と題した第二十九章の読みを、私はほとんど本文の引用で繋いでいる。これには、理由わけがある。

先ほど、小林氏が本居宣長の生涯を「思想の劇」と呼ぶに関して「思想の劇とは何か」を直に言っている条を「本居宣長」の第二章から引いたが、小林氏はその第二章で続けてこう言っている。

―宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造をき出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。……

私は小林氏のこの言葉に準じているのである。私の「小林秀雄『本居宣長』全景」も、小林氏の言わんとするところを抽象的に並べ立てるのではなく、自分はこのように考えるという小林氏の肉声に添って書こうと思うから引用文も多くなるのである。

そこでさて、まずはその引用文ということだが、小林氏は私にこう言われた、

―批評は引用に尽きるのだよ、誰かの文章を読んで、「ここだ!」と思える箇所が適格に引用できたら、もう評者の評言などは一言も要らないのだよ。……

小林氏のこの言葉は私の記憶に強く残り、以来、私は、編集者として他人の文章に批評や感想を求められるときに備えて「ここだ!」という一か所に意識的に行き会おうとするようにもなったが、今回の「漢字を迎えた日本人」のように、小林氏が過去の、それも遠い遠い過去の出来事や人々に思いを馳せている文章の場合は氏の「歴史は思い出だ」という言葉が甦り、私も小林氏の「思い出」に浸ろう、浸りきろうとするのである。

思い出という言葉は、一般的には自分自身の過去、次いでは肉親との過去、そして恩師恩人や知友との過去、というふうに、自分自身と直接の接点がある過去を記憶に蘇らせる行為をさして言われるが、小林氏はそこに留まらず、歴史上のすべての時代、すべての人々を対象としてそれぞれに思いを馳せる、思いを致す、言い換えれば想像力の限りを尽くして歴史上のどの時代へも推参し、どの時代の人とでも親密になってその人の心中を推し量る、そういう思いの馳せ方すべてを「思い出す」と言い、そうして得られた過去もすべて氏は「思い出」と呼んで、歴史とはこういう思い出をこそ言うのだ、僕らはそういう思い出という歴史から人生の生き方を学ぶのだ、史料という名の証拠品がなければ歴史とは言えないなどと言う現代の実証主義一辺倒の歴史学が扱っている歴史は単なる年表に過ぎない、と言っていた。

私は今回、第二十九章を何度目かで読んでいるうち、ふと、小林氏は「漢字を迎えた日本人」という氏の「思い出」を語っているのだと思い、そうであるなら引用は省けない、一行も省けない、ましてや要約などは論外だ、漢字伝来という風雲急を告げた歴史劇の全篇を小林氏の口ぶりで聴きとってもらうのでなければ第二十九章は抜け殻になる、とにもかくにもその一心で氏の「思い出」を書き写していった結果が今回の多量引用となったのだが、最後に、なかでも極めつきと言えるであろう小林氏の「思い出語り」を第二十九章の終盤からお聴きいただく。

―漢字漢文の模倣は、自信を持って、徹底的に行われた。言ってみれば、模倣は発明の母というまともな道が、実に、辛抱強く歩かれた。知識人達は、一般生活人達に親しい、自国の口頭言語の曖昧な力から、思い切りよく離脱して、視力と頭脳による漢字漢文の模倣という、自己に課した知的訓練とも言うべき道を、遅疑ちぎなく、真っすぐに行った。そして遂に、模倣の上で自在を得て、漢文の文体カキザマにも熟達し、正式な文章と言えば、漢文の事と、誰もが思うような事になる。其処までやってみて、知識人の反省的意識に、初めて自国語の姿が、はっきり映じて来るという事が起ったのであった。……

―知識人は、自国の口頭言語の伝統から、意識して一応離れてはみたのだが、伝統の方で、彼を離さなかったというわけである。日本語を書くのに、漢字を使ってみるという一種の実験が行われた、と簡単にも言えない。何故なら、文字と言えば、漢字の他に考えられなかった日本人にとっては、恐らくこれは、漢字によってわが身が実験されるという事でもあったからだ。従って、実験を重ね、漢字の扱いに熟練するというその事が、漢字は日本語を書く為に作られた文字ではない、という意識をぐ事でもあった。口誦のうちに生きていた古語が、漢字で捕えられて、漢文のサマに書かれると、変質して死んで了うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか。……

―この日本語に関する、日本人の最初の反省が「古事記」を書かせた。日本の歴史は、外国文明の模倣によって始まったのではない、模倣の意味を問い、その答えを見附けたところに始まった、「古事記」はそれを証している、言ってみれば、宣長は、そう見ていた。従って、序で語られている天武天皇の「古事記」撰録の理由、「帝紀及本辞、既正実、多フト虚偽、当テ二之時ニ一、不バレメ二ヲ一、未ダレバクノヲモ一其旨欲ムトス」にしても、天皇の意は「古語」の問題にあった。「古語」が失われれば、それと一緒に「古のマコトのありさま」も失われるという問題にあった、宣長は、そう直ちに見て取った。……

もはや言うまでもない、これが小林氏の津田左右吉に対する最終告知である。

(第三十九回了)