今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。いつもの男女四人の対話は、元禄期の三代文豪の一人である近松門左衛門の人形浄瑠璃「曾根崎心中」を観てきた、江戸紫の似合う女が口火を切る。彼女によれば、太夫と三味線と人形遣いが一体となって魅せる浄瑠璃の演目もさることながら、近松が遺した辞世がまた面白いのだという。はたして、何がいいのか? そこに、「本居宣長」を熟読中の四人は何を思ったのか?
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「『本居宣長』自問自答」には、松広一良さん、越尾淳さん、森本ゆかりさん、そして入田丈司さんが寄稿された。
松広さんは、中江藤樹の学問に向かう態度に関する熊沢蕃山の言葉を受けて、小林秀雄先生が書いている「書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である」という言葉を熟視した。そのうえで、「心法」、「読む」という言葉について、それぞれ、小林先生の他の作品とも向き合い、先生がその一文に込めている深意をくみ取ることに努めた。その成果がここにある、じっくりと味読いただきたい。
越尾さんは、伊藤仁斎、荻生徂徠、本居宣長といった学問上の「豪傑」たちのことを思い続けるにつけて、彼らが世界を席巻しているK-POP(韓国のポピュラー音楽)グループのような「かっこいい」存在に感じられてきた、と言う。彼らは、なぜかっこいいのか。その理由は、「豪傑」たちの、当時の「常識」をはるかに超越した学問上の態度にあった。はたして、その態度とは? 越尾さんの語るところに耳を傾けてみよう。
前号に続き寄稿された森本さんの自問自答は、宣長が「模俲される手本と模俲する自己との対立」をどのように受け入れ、自分のものにしたのだろうか、という疑問から始まった。事前に相談をした池田雅延塾頭からは、「対立とは何か」をしっかり押さえること、本文中の抽象的な言葉も、具体的な言葉に落とし込み、著者のいいたいことの肝心要を自得すること、というアドバイスを得た。それは、自身の読書も含め、日常生活上のヒントにもなったようだ。
入田さんが熟視しているのは、「誠に『物のあはれ』を知っていた式部は、決してその『本意』を押し通そうとはしなかった。通そうとする賢しらな『我執』が、無心無垢にも通ずる『本意』を台なしにして了うからである」という小林先生の言葉である。さらに先生は、宣長が言うところの「よろずの事にふれて、おのずから心が感」いた経験を「高次な経験に豊かに育成する道はある」と言っている。新たな自問が生まれた、「高次な経験」とは何か?
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ここで、今号の「『本居宣長』自問自答」に寄稿された皆さんが、主として熟視された言葉を、今一度振り返ってみたい。松広さんは「心法」と「読む」、越尾さんは「豪傑」、森本さんは「対立」、そして入田さんは「高次の経験」という言葉である。それぞれの言葉に向き合った皆さんの文章を読んでいると、その一言一言に、小林先生がどれだけ心血を注ぎ、深意を込めたのかが、肌感覚として伝わってくるようだ。もちろん、そこに到るまでに、寄稿者の皆さんがじっくりと向き合った、長い時間があったことは、言うまでもない。
そんなことを思っていると、小林先生が、読書について、このように述べている件を思い出した。
「読書百遍という言葉は、科学上の書物に関して言われたのではない。正確に表現する事が全く不可能な、又それ故に価値ある人間的な真実が、工夫を凝した言葉で書かれている書物に関する言葉です。そういう場合、一遍の読書とは殆ど意味をなさぬ事でしょう。そういう種類の書物がある。文学上の著作は、勿論、そういう種類のものだから、読者の忍耐ある協力を希っているのです。作品とは自分の生命の刻印ならば、作者は、どうして作品の批判やら解説やらを希う筈があろうか。愛読者を求めているだけだ。生命の刻印を愛してくれる人を期待しているだけだと思います。忍耐力のない愛などというものを私は考える事が出来ませぬ」(「読書週間」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第21集所収)。
私たち「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生による、「本居宣長」精読十二年計画も最終年度に入り、いよいよ年度としての第二コーナーを回ったところまで来た。残すところ、あと六か月である。ここで改めて、小林先生が言うところの忍耐力のある愛読者として、「本居宣長」という作品に、そこに登場する「豪傑」たちに、そして小林秀雄という大先達に向き合い、最終ゴールのテープを切るまで、集中力を保ち力強く走り続けることを、ここで改めて誓い合いたい。
(了)