小林秀雄先生は「本居宣長」の冒頭で、次のように言っている。
――本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。戦争中の事だが、「古事記」をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思い、読んだ事がある。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.25)
そうして小林先生は、「古事記伝」について、宣長について、折口信夫氏と語った際、氏から「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」という言葉を受け取ったという。この話から始まる「本居宣長」は、宣長の遺書が示され、宣長の生い立ち、宣長に至るまでの近世学者たちの「学脈」、そして折口氏の言葉通り、「源氏物語」へと、話題が進んでいく。そうした経緯ののち、小林先生の中で、「古事記」について語る機がおのずと熟したのだろうか、第二十八章に至り、
――宣長は、「源氏」の本質を、「源氏」の原文のうちに、直かに摑んだが、その素早い端的な摑み方は、「古事記」の場合でも、全く同じであった。(同第27集p.310)
という書き出しで、「古事記」と、宣長の「古事記伝」についての本格的な記述が始まるのである。
その「古事記伝」について、第三十章で、小林先生は次のように言っている。
――なるほど古言に関しては、その語彙、文法、音韻などが、古文献に照して、精細に調査され、それが、宣長の仕事の土台をなしたのだが、土台さえあれば、誰でも宣長のように、その上に立つ事が出来たとは言えない。宣長が、「古言のふり」とか「古言の調」とか呼んだところは、観察され、実証された資料を、凡て寄せ集めてみたところで、その姿が現ずるというものではあるまい。「訓法の事」は、「古事記伝」の土台であり、宣長の努力の集中したところだが、彼が、「古言のふり」を知ったという事には、古い言い方で、実証の終るところに、内証が熟したとでも言うのが適切なものがあったと見るべきで、これは勿論修正など利くものではない。(同第27集p.344)
今回の自問自答では、この一節を熟視対象として、「実証の終るところに、内証が熟した」とはどういうことか、思索を深めたいと思う。
そもそも「古事記」とは、日本現存最古の歴史書であり、稗田阿礼が口誦したものを、太安万侶が書き写したと言われている。重要なのは、この「書き写した」というのが、現代日本の私たちの言語感覚に基づく口述筆記、すなわち話し言葉をそのまま文字に書き表すこととは、遠くかけ離れたものであったということだ。どういうことか。
――「古事記」の散文としての姿、宣長に言わすと、その地の文の「文体」は、「仮名書キの処」、「宣命書の如くなるところ」、「漢文ながら、古語ノ格ともはら同じき」処、「又漢文に引カれて、古語のさまにたがへる処」、そうかと思うと、「ひたぶるの漢文にして、さらに古語にかなはず」という個所も交って、乱脈を極めているが、それはどうあっても阿礼の口誦を、文に移したいという撰者の願いの、そっくりそのままの姿だ。
(同第27集p.342)
ここで「乱脈を極めている」と言われているのは、「古事記」の表記の複雑さである。「古事記」原文は、全て漢字で記されており、一見すると漢文、すなわち上代の中国語の文章だと誤解されうるが、そうではない。たしかに文字は漢字のみなのだが、それはいわゆる漢文調の訓読で済ませてよい文章ではないのである。漢字しか文字を知らない状況にあって、それでも何とかして「阿礼の口誦」という、純然たる話し言葉としての日本語を「文に移したい」という安万侶の願いが、一見奇妙な「文体」を生んだ。そうであるならば、「古事記」の読者には、その願いに応えることが、求められてくる。
――漢文で書かれた序文の方は、読者が、それぞれの力量に応じて、勝手に、これを訓読するのが普通だっただろうが、本文の方は、訓読を読者に要求していた。それも純粋な国語の訓法に従う、宣長の所謂「厳重」な訓読を求めていた。だが、勿論、安万侶には、訓読の基準を定め、後世の人にもわかるように、これを明示して置くというような事が出来たわけはなかった。(同第27集p.342~3)
「古事記」の「序」は、純粋な漢文である。だから、現代の漢文学習に従った言い方をすれば、レ点や一二点などの返り点を補う必要がある者はそれらを付して読めば良いし、漢文読解の熟達者であれば、いわゆる白文のまま、意味を取ることもできよう。「読者が、それぞれの力量に応じて」、訓読して構わない。(ただし、この「序」も軽率に読んでよいわけではもちろんなく、宣長はそこから「安万侶の肉声」を感じ取るように読んだ、ということが「本居宣長」の第二十八章には書かれている。それについては読者諸賢各人でお読みいただきたい)しかし、「古事記」の本文は、先述の通り、そもそも漢文ではないのであり、漢文読解の常套の手法は通用しないばかりか、それに従って読んではいけない。安万侶の願いに応えようとこれを訓むには「厳重な訓読」以外、方法はないのである。かと言って、書き記した当の本人である安万侶が、どう訓むべきかを明確に記し残してくれたわけでもない。そこで、である。宣長はどうしたか。ここからいよいよ「実証」と「内証」の問題に深く立ち入っていきたい。
――従って、撰者の要求に応じようとすれば、仕事は、「古事記」に類する、同時代のあらゆる国語資料に当ってみて、先ず「古語のふり」を知り、撰者の不備な表記を助け、補わなければならないという、妙な形のものになった。宣長は言う、「此記は、彼ノ阿礼が口に誦習へるを録したる物なる中に、いと上ツ代のままに伝はれりと聞ゆる語も多く、又当時の語つきとおぼしき処もおほければ、悉く上ツ代の語には訓ミがたし、さればなべての地を、阿礼が語と定めて、その代のこころばへをもて訓べきなり」(「古事記伝」訓法の事)と。(同第27集p.343)
「古事記」を訓むには、まず「同時代のあらゆる国語資料に当って」みる、これが宣長のしたことである。先の熟視対象ではより具体的に、「語彙、文法、音韻などが、古文献に照して、精細に調査され」と書かれていた。この文献参照、調査が「実証」であるとひとまず言えそうであるが、ここで現代的な通念に気をつけて読みたい。私たちは、日常で実証的という言葉を使うとき、それは科学的とか客観的といった語と近い意味合いだろう。しかし、宣長の学問は、いわゆる客観的ということとは程遠いものである。「資料に当る」というのは、客観的な証拠集めではなく、「古語のふり」を知ること、すなわち「直知する」「我が物とする」ことを主眼とするからである。その時に、空想や妄念を交えず、目はまっすぐ眼前の資料にのみ向けられている、その姿、仕事ぶりを指して、宣長の仕事は「実証」であったと言うことができる。
では、実証を進める宣長の心中には何があったか、このことについて、改めて熟視対象に戻ってみてさらに考えよう。「土台さえあれば、誰でも宣長のように、その上に立つ事が出来たとは言えない」という言い方がされている。客観的な証拠を集めれば、誰でもそこから正しく結論を出せるというような浅薄な考えは、宣長の仕事と何ら関係がない。
――すると、又ここで繰返したくなるのだが、先ず「なべての地を、阿礼が語と定めて」、仕事は始まったのである。言うまでもなく、これは、「阿礼が語」を「漢のふりの厠らぬ、清らかなる古語」と定めて、という意味だ。安万侶の表記が、今日となってはもう謎めいた符号に見えようとも、その背後には、そのまま古人の「心ばへ」であると言っていい古言の「ふり」がある、文句の附けようのなく明白な、生きた「言霊」の働きという実体が在る、それを確信する事によって、宣長の仕事は始まった。其処に到達出来るという確信、或は到達しようとする意志、そういうものが基本となっていると見做さないと、宣長の学問の「ふり」というものは、考えにくいのである。そういうものが、厳密な研究のうちにも、言わば、自主独往の道をつけているという事があるのだ。(同第27集p.348)
宣長の心中にあるのは、確信である。その確信とは、「古事記」を「なべての地を、阿礼が語と定め」たうえで、他の国語資料に当たる中で体得していった「古言のふり」をもって「古事記」本文と向き合えば、おのずと阿礼の肉声が聞こえ、「古語」は自らの心中に蘇るであろう、それに従えば「古事記」の「訓法」を決定できるだろうという確信のことだ。それが実証の仕事をする時に、常に宣長の心から離れない、確信はますます深まっていった、それが「内証が熟する」ということではないだろうか。
整理すると、「実証の終るところに、内証が熟した」というのは、「古事記」を読み、「古事記伝」を書くにあたって、宣長は、「古言のふり」を体得したいという強い意志、直観があり、それがどんな資料にあたる際にも学問の中心から外れない、それゆえに、膨大な資料を集めて調査するという「実証」は、宣長の心中で「古言のふり」、より具体的には阿礼の肉声が、より鮮明に疑いない姿となって再び命を得る、すなわち「内証が熟する」ことと常に結びついていた、ということなのではないか。
最後に、こうした宣長の学問姿勢が、いかに現代の歴史家たちのそれと異なるものであったか、それでも現代に生きる私たちが、宣長から学び、生きた学問を営むにはどうしたらよいのか、小林先生の言葉を聞いて終わろうと思う。
――凡庸な歴史家達は、外から与えられた証言やら証拠やらの権威から、なかなか自由になれないものだ。証言証拠のただ受身な整理が、歴史研究の風を装っているのは、極く普通の事だ。そういう研究者達の心中の空白ほど、宣長の心から遠いものはない事を思えばよい。と言って、宣長は、心のうちに、何も余計なものを貯えているわけではないので、その心は、ひたすら観察し、批判しようとする働きで充されて、隅々まで透明なのである。ただ、何が知りたいのか、知る為にはどのように問えばよいのか、これを決定するのは自分自身であるというはっきりした自覚が、その研究を導くのだ。研究の方法を摑んで離さないのは、つまるところ、宣長の強い人柄なのである。彼は、証拠など要らぬと言っているのではない。与えられた証言の言うなりにはならぬ、と言っているまでなのだ。(同第27集p.348~9)
――更に、これは先きに、別の言い方で言ったところだが、こういう事も考えていいだろう。過去の経験を、回想によってわが物とする、歴史家の精神の反省的な働きにとって、過去の経験は、遠い昔のものでも、最近のものでも、又他人のものでも、己れ自身のものでもいいわけだろう。それなら、総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知る事に他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。こうして、確実に自己に関する知識を積み重ねて行くやり方は、自己から離脱する事を許さないが、又、其処には、自己主張の自負も育ちようがあるまい。(同第27集p.350~1)
(了)