「それと言うのも、恐らく(著者注;平田)篤胤の眼には、『直毘霊』は、あくまでも比類のない着想として、教学の組織を、そこから新しく展開すべき発想として、映じていたからだ。そして、その使命は自分に降りかかっていると信じたからである。烈しく宣長のうちに、自己を投影し、それを、宣長から選ばれたと信じた人とも言えるだろう。篤胤の考えでは、古道を説く以上、天地の初発から、人魂の行方に至るまで、古伝に照して、誰にでも納得がいくように、説かねばならぬ。古伝の解釈に工夫を凝せば、それは可能なのである。安心なきが安心などという曖昧な事ではなく、はっきりと納得がいって、安心するというものでなければならない」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.292~p.293)
この一文を読んだとき、私は、人の言葉を受け取る際、篤胤と同様に、自分の思い込みによって言葉を聞き取り、相手はこう考えているに違いないと、決めつけをする癖があることに気付かされ、また、この癖は、どのようにして身に付いてしまったのかを考えたとき、これまでの自分自身の生き方と向き合う必要があるのではないかと感じました。
小林秀雄氏は、篤胤に対し「篤胤は、眼中人なしという概の、非常な自信家であったが、ただ宣長だけには、絶対的な尊敬の念を抱き、深い心情を傾けていた。山室山の宣長の墓に詣でた折に、詠んだ歌 ――『をしへ子の 千五百と多き 中ゆけに 吾を使ひます 御霊畏し』『我が魂よ 人は知らずも 霊幸ふ 大人の知らせば 知らずともよし』―― 篤胤にしてみれば、ただ在りのままを、素直に詠んだまでであって、言葉の上の飾りや誇張は全く考えられてはいなかった。彼は、鈴屋大人の御霊が幽冥界に坐す事を、少しも疑ってはいなかった。『霊の真柱』にあるように、死後は霊となって、師の墓辺に奉仕する事を信じていた。宣長と自分との間に、精神上の幽契が存するという事は、篤胤の神道の上からすれば、合理的に理解出来る動かぬ事実であった。私達は、これを疑うわけにはいかない。もし疑うなら、疑う人の眼には、篤胤という歴史上の人物の、形骸しか映じないであろう。人間によって生きられた歴史を見るむつかしさは、その辺りにある」(同p.290~p.291)と言われています。
なぜ小林氏は、向き合う相手の内面が、ここまでわかるのだろうかと不思議に思いました。
自分の生き方と向き合い、私の身の回りで起こる出来事や人間関係の問題など、これは私の人生にとって、どのような意味があるのかを見つめるためには、小林氏の言われている歴史を見る眼が必要なのではないかと感じました。
また、それを知ることで、相手の言葉をより率直に、より正確に受け取ることができ、自分の人生にとって大切なことを見逃さない眼を養うことができるのではないかと思い、令和五年十月の山の上の家の塾で、以下の質問を提出しました。
――「人間によって生きられた歴史を見るむつかしさ」について質問です。第二十五章に「例えば、ある歌が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずる事ではないか。そこでは、麗しいとはっきり感知出来る姿を、言葉が作り上げている。それなら、言葉は実体でないが、単なる符牒とも言えまい。言葉が作り上げる姿とは、肉眼に見える姿ではないが、心にはまざまざと映ずる像には違いない。万葉歌の働きは、読む者の想像裡に、万葉人の命の姿を持込むというに尽きる。これを無視して、古の大義はおろか、どんな意味合が伝えられるものではない」とありますが、この事と同様に「人間によって生きられた歴史を見る」力をつけるには、言葉の姿、歌の姿を感じるという読書の経験が必要なのでしょうか。
この質問から、令和六年十月に行われた山の上の家の塾での
――「宣長と自分との間に、精神上の幽契が存するという事は、篤胤の神道の上からすれば、合理的に理解出来る動かぬ事実であった。私達は、これを疑うわけにはいかない。もし疑うなら、疑う人の眼には、篤胤という歴史上の人物の、形骸しか映じないであろう。人間によって生きられた歴史を見るむつかしさは、その辺りにある」と言われています。
「人間によって生きられた歴史を見る」には、「烈しく宣長のうちに、自己を投影し、それを、宣長から選ばれたと信じた」篤胤が、宣長との間に結んだ「精神上の幽契」を信じることで、小林秀雄さんの見た「人間によって生きられた歴史」は見えてくるのでしょうか。
という質問に至るまでに、池田雅延塾頭からご指導頂いたことは、以下の内容です。
・ 自問と自答が噛み合っておらず、自問に照応する自答を磨き上げる努力が必要であること。
・ 自分の思いつきを自答にしてはいけない。ここでは篤胤に即して人間全体の歴史を見るのは難しいと言っており、それが、どういう難しさなのかを考えること。
・ 小林氏は、上辺だけを搔い摘まんで語る、と言うことをしない。篤胤の行動の動機を知ろうとすれば、篤胤の歌や手紙を一つ一つ読み取り、内面を考えたり、本人の立場になって生きてみないと、その人間の歴史を知ると言うことができない。これが歴史に向かう態度、本文中の言葉に、一つ一つ丹念に向き合うこと。
・ 「人間によって生きられた歴史を見る」という言葉の深さを知ること。
・ 小林氏が直観した、篤胤の人物像は、どんな人物であったかが眼目。小林氏は、篤胤の内面を見るところまで深め、その姿の奥にある精神的な葛藤まで見ている。篤胤がどういう思考経路を辿ったのか、内面を見ているということ。
・ 篤胤の精神の内部に入り込むと、理屈に合った生き方、歴史を生きた人間の生き方の手本を示している。篤胤は、独りよがりの自信過剰のとんでもない弟子だった。自分は宣長の一番弟子だと言い張り、論を張った。宣長は、日常生活上の学びを学問だと言った。篤胤は、これに感動したが、宣長の学問を観念論にしてしまい、それを自分の弟子にも吹聴してしまったこと。
・ 篤胤の死後、弟子たちが、宣長の墓の敷地内に勝手に篤胤の墓を立ててしまったこと。
・ 小林氏は、この本(「本居宣長」)で、必ずしも篤胤に触れなくてもよかったが、歴史上から見ると、面白い悪役としての篤胤を深く知ることで、宣長の正しい学問がくっきり浮かび上がってくる。篤胤に対する一般人の誤解を解く必要があったこと。
・ 宣長への普通ではない篤胤の情熱に対し、疑って、鼻先でせせら笑って終わりにし、篤胤を排除すると、篤胤の歴史上の演技から学ぶところがなくなってしまうこと。
塾頭のご指導を受けながら、私は、日常生活でも、自分と価値観の合わない相手を、心の中で排除し、相手の内面を知るための努力を全くしておらず、また、身の回りで起こった出来事に対しても、感情的になり、物事の本質の外側ばかりに意識が向き、結果的に自分自身の生き方をとても狭いものにしていたことに気付きました。
今回の第二十六章からの質問でも、著者が言わんとすることの肝心要の理解ができず、無意識のうちに著者が言っていることを、自分にとって都合の良い言葉に置き換えてしまい、塾頭からご指導頂くまで、そのことにさえ気付かずにいました。
また、ご指導頂いたことを、頭では理解したつもりでも、いざ、実行しようと思った時、どのようにして読書や質問に反映すれば良いのか全くわからず、小林氏の言われている歴史の見方を早く知りたいという考えに囚われ、離れられずにいました。
質問には、私自身の日ごろの考え方の癖が現れてしまい、未だに、本文と向き合うということができずにいますが、本誌、前々号(「好・信・楽」2024年夏号」)でも触れた、「本も、絵を眺めるように読むのです、最初は文章の意味を取ろうなどとは思わず、小さくでいいから声に出して読むのです。こうして口を動かしていると、文章の意味は後からついてきます、本を書いた人の言おうとしていることが自然にわかってきます。つまり、『絵を眺めるように』とは、本の一行一行を最初から細切れに『読解』していくのではなく、まずはざっと全体を、無心で目にしていくということです、絵は、そこに描かれている山や海や花の全体をまずはざっと眺めるでしょう、それと同じように、本に書かれている文章をひととおり、声に出して読みながら眺めるのです。『声に出して読みながら眺める』とは、著者すなわち本を書いた人の気持ちを話し言葉として聴き取るということで、こうすれば、絵を見て絵描きさんの丹念な筆遣いや荒々しい筆遣いから絵描きさんの気持ちや意気込みが汲み取れ、それがその絵の目のつけどころとなるように、著者が言葉を強くしている箇所や、なぜだか口ごもっているように読める箇所やを聴き分けていけば、その本で最も読み取るべきことは何かがおのずとわかってくるのです」という本の読み方を、いつも忘れないように、読書や日々の生活を重ねることの大切さを、改めて実感しました。
文章を書くことは、とても苦手ですが、この「好*信*楽」への寄稿の機会を与えて頂いたことで、さらに思考を深めることができ、質問だけでは気付くことができなかった、新たな発見と学びがありました。塾頭、編集部の皆様に心より感謝申し上げます。
(了)