いつものように『本居宣長』をネタにおしゃべりをする四人の男女だが、今日は、SNSが話題のようだ。
生意気な青年(以下「青年」) SNSが猛威を振るってるね。
凡庸な男(以下「男」) そうだね。ファクトチェックとか、エビデンスとか、昭和の時代 には耳にしなかった言葉が飛び交う世の中になったけど、かえって、何が正しいのか分からない時代になった。
江戸紫の似合う女(以下「女」) そういうことが背景にあるのかどうか、分からないけど、国内でも国外でもいろんな変なことが起きているわね。
元気のいい娘(以下「娘」) 例えば?
女 戦争とか、選挙とか。
男 そうそう。戦争をめぐる超大国の指導者の発言なんか、よく言うなって感じだよね。無理が通れば道理が引っ込む。
生意気な青年(以下「青年」) 超大国ばかりじゃないさ。中東をめぐる欧米の先進国の立場って、ダブルスタンダードだよね。
娘 政治家の言うことって、全然信用できない。
男 政治家と言えば、いろんな国でいろんな選挙があって、なんか、世界中荒れ気味だね。
女 日本国内でもそう。SNSの影響がすごいみたいね。
男 みんな何を考えているのか、さっぱりわからないな。
娘 政治家とか、マスコミとか、専門家とか、全然信用できない。だから、SNSに頼るんだよ。
青年 そう思いたくなるのも、当然だよ。自分で考え、自分で発信するのは悪いことじゃない。
男 でもそうやって、みんなが自分が正しいって言い募り、ほかの意見に耳を貸そうとしない。それでかえって、何が正しいのかさっぱり分からなくなる。
娘 普通の人だったら、それは仕方ないじゃない。政治家は別。政治家が、下心みえみえで、嘘をつくのは許せない。
女 政治家の嘘といえば、気鋭の政治学者五百旗頭薫さんが『<嘘>の政治史』(中公選書)という著書で、政治に嘘はつきものとはいうものの、バレるのを恐れながらも窮地を切り抜けるためにつく「必死の嘘」は、ときとして政治の妙手となりうるのに対し、はなからバレているのに平気で押し通す「横着な嘘」は、政治の腐敗を招くという趣旨のことを説いているの。
青年 嘘も方便っていうわけ、なんかいやだな。
女 でもね、ちょっと聞いてくれる。たとえば、色んな交渉事があるわね。交渉当事者の双方が、出身母体の利益を、外交でいえば国益を背負っている。双方とも簡単に譲歩などできない。そんなとき、双方がそれぞれ「自分たちが五一対四九の僅差で勝った」と思えるような妥協案が見つかれば、何とか交渉が成立するかもしれないわね。
娘 なんか騙されたようで、やーな感じ。
女 全面勝利でないものを受け入れるのだから、もやもやするのは分かるけど、そういう妥協を受け入れる内心の動き、そのための言葉の働きって、大切だと思うわ。
青年 でも、そういうのって、ある制約条件下での合理的な選択の問題だからでしょう。嘘とは違う。
女 そう割り切れれば、いいのだけれど、もう少し考えて欲しいの。
青年 どういうこと?
女 妥協イコール嘘って考える人も多いのよ。
男 確かに、その方が、潔癖な考え方かもしれないな。
女 ちょっと前のことだけど。トランプさんが最初に勝った二〇一六年のアメリカ大統領選挙。民主党はヒラリー・クリントンさんが候補者だったけど、候補者選びではサンダースさんという左派の人がかなり有力で、この民主党内の分裂がヒラリーさんの足を引っ張ったと思う。そしてサンダースさんの支持者が集会なんかでヒラリーさんを批判するときに連呼していたのが「妥協(compromise)」という言葉なの。
男 妥協によって物事を決めるワシントンのベテラン政治家は、嘘つきだってわけだね。
青年 その点は、共和党内でアウトサイダーだったトランプさんの支持者と同じだ。
娘 最近の日本の選挙にも、似たような雰囲気があるね。
女 政治家の嘘はないに越したことはないわ。でも、五百旗頭先生の言葉を借りれば、妥協案の説明というのは、支持者たちが認めたがらない自分たちの弱点にはあえて触れず、メリットだけを強調する類の「必死の嘘」。いったん隠した下心の部分をいずれどうするか、宿題となって残るのよ。言いっぱなしにはならないの。他方、「横着な嘘」というのは、平然と侵略を自国防衛と言い募る超大国の指導者の発言の類で、下心として隠しておいてよさそうな欲望を隠そうともしない。無理が通るだけ。そこは区別して考えられないかしら?
娘 なんか不純な感じだね、政治家って。
女 政治家って、そういう面倒な汚れ仕事を厭わない職人さんなのよ。小林秀雄先生がどこかで、「大臣という才能ある事務員」を支配人として選ぶ、と書いておられたけど、その通りだわ。事務員に純粋さを求めたら、開き直って、平然と下心を丸出しにした、というのでは元も子もないの。隠した下心をどうするか、言葉をどう使っていくか、微妙な問題なのよ。
青年 そういえば、『本居宣長』にも、「下心」という言葉はよく出て来るね。
娘 それも、大切なところに出てくる感じだね。
男 宣長さん自身が「下心」という言葉を使う場合、小林先生が宣長さんの気持ちを推しはかって使う場合、それに、小林先生がご自身の筆の進め方についてこの言葉を使う場合もあるね。
女 でも、「下心」についていえば、『本居宣長』(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集)の中で、圧巻っていうのもおかしいけれど、この言葉が大活躍するのは、紫式部について語る箇所じゃないかしら?
青年 そうだね、『本居宣長』で、「源氏物語」の「蛍の巻」で玉鬘と光源氏か物語についてかわす会話について宣長が書いた評釈に出て来るね。
男 「此段、表はただ何となく、源氏君と玉かづらの君との物語なれ共、下の心は、式部が此源氏物語の大綱総論也」、「表はたはむれにいひなせる所も、下心は、ことごとく意味あり」というんだな(同142頁)。
女 式部は、「源氏物語」の中で、人情の機微や、人々の喜怒哀楽の真実を、「そらごとのまこと」として著すことができると信じ、実践したのね。
青年 そして「めでたき器物」(同147頁)のごとき作品が仕上がった。
男 そういう作品としての出来ばえとは別に、宣長さんが強調しているのは、式部が「表はただ何となく、源氏君と玉かづらの君との物語なれ共、下の心は、式部が此源氏物語の大綱総論也」(同142頁)ということなんだね。
娘 大綱総論なんて、随分大げさだね。
女 式部は、単なる語りの名手、お話づくりの達人ではなくて、自身の才能を存分に発揮するためにはどうすればよいかに、自覚的だったんだわ。
娘 自覚的?
女 当時、知識人達は、物語は女童子の娯楽を目当てとする俗文学だと思っていた。そして、表面的には、そういう既成の常識に逆らわなかったの。むしろ、式部には「この娯楽の世界が、高度に自由な創造の場所と映じていた」(同143頁)ということよ。
青年 知識人たちは、まんまと騙されていたということかな。
娘 「源氏物語」といえば、後世には、紫式部堕地獄伝説なんてのが出てきたんだね。
男 「上流男女の乱脈な交会の道を、狂言綺語を弄して語った罪により、作者は地獄の苦患に在るのは必定であるから、供養してやらねばならない」(同175頁)というわけだ。
娘 ひどい言い方。でもそれだけ、多くの人に読まれていたということだね。
男 そうそう。高校の教科書なんかに出てくる「更級日記」の作者の少女時代の回想、「一の巻よりして、人もまじらず、几帳のうちに、うち臥して、ひき出でつつ見る心地、后の位も、何にかはせん」(同174頁)というのは、有名だね。
女 物語の魅力には抗しがたいものがあった。だから、堕地獄伝説なんかがでてきたこと自体が、「時代の通念に従い、婦女子の玩物として、『源氏』を軽蔑していながら、知らぬ間に、その強い魅力のいけどりになっている知識人達の苦境を、まことに正直に語っている」のね(同175頁)。
娘 式部は、そのあたりのことも、お見通しだったのかな。
青年 堕地獄云々は、後世の余計なお世話だけど、多くの人が娯楽として読むであろうことは、自覚していた。そのなかには、「更級日記」の少女のように無邪気に喜ぶ読者もいれば、建前上は軽視しつつ実は物語の魅力に抗しえなかったおじさん達もいただろう。
女 でも、そのどちらも、物語の運びの裏がわにいる作者式部の心のうちのことなんか、考えもしなかった。こういう構造を、式部は見抜いていたんだわ。そのうえで、物語をつづっていった。
娘 読者の無知や誤解を逆手に取ったということ?
女 そこまで性悪ではないと思うけど、宣長さんのような読み手が現れて初めて明らかになるような何かが、式部の内面には潜んでいたんじゃないかな。
青年 紫式部という大批評家の真意を、やはり大批評家である宣長さんが見抜いたということ?
娘 そういってしまうと、何か違うような気がするな。
女 式部は、一般読者の目には届かないけれど、心の奥底で突き動かされる何ものがあって、「源氏」を書いた、でも、独創性を発揮して文学史に名をとどめたいなんて思ってなかったはず。宣長さんにしても、従前の解釈をひっくり返して学問上の功績を上げようと力んだのではなく、まずは「源氏」をとことん愛読していったのよ。
男 小林先生も、宣長は、「先ず『源氏』の愛読者であった」(同181頁)と書いているね。
女 式部だからこそ、「源氏物語」によって、母国語の歴史のとても深い処に何かを埋めることになった。宣長だからこそ、その深い処まで掘り進め、その何かを掘り当てることができた、ということじゃないかしら。
男 二人とも、「源氏」の執筆や、その注解に、今でいうやりがいみたいなのは感じてたとは思うけど、何か目標を掲げてその実現を目指す、という仕事の仕方ではないと思うんだ。
青年 そういえば、小林先生は、「宣長は『下心』という言葉をよく使うが、言葉の生命は人が言葉を使っているのか、言葉が人を使っているのか定かでないままに転じて行く。これが言葉に隠れた『下ごころ』であり、これを見抜くのが言語の研究の基本であり、言葉の表面の意味は二の次だ、という考えである」と書かれているね(「考えるという事」新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集59頁)。
女 式部や宣長という大天才を前提としてのことだけれど、国語が、式部を通じて、人情の機敏や人生の真実に形を与えた。それが「源氏物語」という物であった。そして国語は、宣長をして、そこから「あはれ」という物を見出させた、こういうことではないかしら。
青年 「人が言葉を使っているのか、言葉が人を使っているのか定かでない」って、面白いな。
娘 私心がない、というのはそういうことかな。
女 政治家であれ、式部や宣長であれ、俗と雅の違いはあっても、国語と言う大きな海の中で、言葉の下心に動かされているのかもしれないわね。
四人のおしゃべりは、とりとめもなく続いていくのであった。
(了)