先人の懐に入り込む
    ―小林秀雄と丸山眞男をめぐって(五)

本多 哲也

【前回稿との橋渡しとして】

今回は、「常識」という言葉について思索をめぐらせたい。小林秀雄先生の『考えるヒント』の一連の作品たち、その中に出てくる言葉のいくつかは、小林先生が執筆を進めるうちに、より深い意味を醸成するようになった、熟していったのではないか、そのような読者としての感慨を携えて書いていきたい。

常識という語は、前回稿で引用した「忠臣蔵Ⅰ」では次のように使われている。前回引用箇所から抜粋する。

——窮境に立った、極めて難解な人の心事を、私達の常識は、そっとして置こうと言うだろう。そっとして置くとは、素通りする事でも、無視する事でもない。そんな事は出来ない。出来たら人生が人生ではなくなるだろう。経験者の常識が、そっとして置こうと言う時、それは、時と場合によっては、今度は自分の番となり、世間からそっとして置かれる身になり兼ねない、そういうはっきりした意識を指す。常識は、一般に、人の心事について遠慮勝ちなものだ。人の心の深みは、あんまり覗き込まない事にしている。この常識が、期せずして体得している一種の礼儀と見えるものは、実際に、一種の礼儀に過ぎないもの、世渡り上、教えこまれた単なる手段であろうか。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.227~8)

——常識は、生活経験によって、確実に知っている、人の心は、その最も肝腎なところで暗いのだ、と。これを、そっとして置くのは、怠惰でも、礼儀でもない。人の意識の構造には、何か窮極的な暗さがあり、それは、生きた社会を成立させている、なくてはかなわぬ条件を成している、と。(同p.228)

前回からの繰り返しになるが、この一節は、赤穂浪士事件の発端となった、浅野あさの内匠頭たくみのかみ長矩ながのりの切腹、その直前の彼の心事に目を凝らす小林先生の言葉である。そこから目が逸れているわけではなく、小林先生の目ははっきり内匠頭の心に向っているのだが、それが極まったところで、使われる言葉が抽象性を帯びていることに気付く。小林秀雄作品の読者が試されるのはまさにこのような箇所であろう。こうした言葉が多い文章にぶつかって、早急な理解を求めると、すぐに世間一般で通用している言葉の意味に引きつけようとしがちである。そこを堪えて、私たちもじっと見つめなければならない。

 

【常識という語をめぐって】

そこで、「常識」という語の熟視が不可欠である。この語の定義を明らかにしたいわけではない。そうではなく、小林先生が「常識」を言う時の心遣いを体験しようとするのである。ここで大いに参考になるのが、『小林秀雄全作品第23集』所収「或る教師の手記」の脚注である。本作品の詳述は後にするが、まずは「常識」に付された注を見よう。

——ここでは、人間誰にも生れつき備わり、そのうえさらに実社会で訓練された思慮分別の意。単に外部から習得される知識よりも、万人共通の直観力、判断力、理解力に重きをおいて筆者は用いる。(同p.140)

この注の書きぶりを、たとえば『大辞林 第三版』(三省堂)の説明と比べると性質がわかりやすくなる。『大辞林』では、「常識」の説明には「ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力」とある。このように一般的に常識の説明には、「知識」が含まれる。たとえば、「空という字は、『そら』と読む、これは常識だ」「今の総理大臣の名前を知らないなんて、君は常識がないな」というような用いられ方である。しかし、『小林秀雄全作品』の注では、あえて「単に外部から習得される知識よりも」と強調し、「万人共通の直観力、判断力、理解力」を重視する。つまり、より人間の内側にそもそもある認識の力であると言っている。「そのうえさらに実社会で訓練された思慮分別」ともあるから、そうした内的な力が、鉄が鍛えられて刀になったり、石が磨かれて宝玉になったりするのと同様に、より洗練されていくようなイメージで、「常識」が捉えられていることがわかる。

 

【「或る教師の手記」の位置】

この脚注が付されている元の文章である「或る教師の手記」が『考えるヒント』の中で、どのような位置にあるか、記しておきたい。

——実は、別の事を書こうと思っていたのだが、昨日から、或る中学校の先生の長い手記を読んで、その事を書く気になってしまった。(同p.136)

「或る教師の手記」はこう書き出される。「別の事」というのが、次の連載作品である「ヒットラアと悪魔」の題材である映画作品(「十三階段への道」)のことなのか、全く別の作品や事件のことなのかはわからないが、それはここでは気に留めない。しかし、重要と思えるのは、「或る教師の手記」の題材が、表題通り、無名の中学教師の手記であって、『考えるヒント』の中の他の作品、とりわけ文章作品が題材となっている作品では、古今東西は問わないが公に知られた著作物(たとえば、プラトン、本居宣長、井伏鱒二、河上徹太郎など)が取り上げられるのに比して、あきらかに異質であるということだ。

本稿において「或る教師の手記」と向かう理由もここにある。「常識」について論じるには、まさにこの語がそのまま表題になっている作品(エドガア・アラン・ポオの「メールツェルの将棋差し」と人工知能の問題を題材にしている)もあるのだが、私はむしろ無名の教師が著した手記と、それと真剣に向き合った小林先生の文章にこそ、先に紹介した脚注の言葉を借りれば、「万人共通の直観力、判断力、理解力」であり、「そのうえさらに実社会で訓練された思慮分別」としての「常識」を考える糸口になると考えている。

 

【「或る教師の手記」と常識】

「或る教師の手記」は昭和三十五(1960)年四月に発表されている。若干、その当時の教育業界について、背景知識を記そう。この作品の本文の中に、勤評問題というものが出てくる。勤評問題は、本作の脚注によれば、「愛媛県における教育委員会と教職員組合の対立から表面化し、教育委員会による教職員の能力や実績に対する評価の問題が社会問題となっていた」(同p.138)ものである。教職員組合の全国組織は日本教職員組合、略して日教組と呼ばれていた。教育委員会と日教組の対立、これは教育問題というよりも、中央権力と反権力の対立、あるいはもっと大雑把に右派と左派の対立を軸とした政治問題と言えよう。そうした背景をまず押さえておいて、ある教師の手記の内容に入っていこう。

ある中学校の週ごとの会議の場で、「教室であばれないように」という議題で議論が行われ、その会議の場には生徒委員百余名と当番教師がいたが、手記を記したのとは別の教師が、ある生徒の「(教室であばれてはいけないなど)常識じゃないか」という発言を捉えて、次のように言う。

——常識? 常識って何んだね。そんなわかったような、わからないような、いいかげんなものは信じられないね(同p.137)

 その続きはそのまま引用しよう。

——「議長ッ」と一年の男生徒が立つ。「教室で、あばれると、窓ガラスや机や椅子をこわすからいけないのです」

「うん、なるほど。だが、何故、窓ガラスや机や椅子をこわしてはいけないのか。君達は、あばれたい。それなら、ちょっとあばれるとこわれるような安物のガラスを、何故入れて置くか、と考えないか」。教師は、指で窓のガラスをはじき、「こんなやくざなガラスを入れたのは誰か。やくざな政治家だ。政治が、なっていないのだ」。(同)

このエピソードが示しているのは、先の背景を踏まえるとこういうことになる。この教師は、「教室であばれてはいけない」という問題を、政治の問題としているが、これは明らかに勤評問題を含む、教育委員会と日教組の政治的対立の線上で捉えている。教育現場における具体的な問題が、より広範な政治問題にすり替わっている。その認識を固持する教師にとって、生徒が発した「常識」という言葉は「いいかげんなもの」にすぎないのである。しかし、そう問題を捉えてみせたところで、結局「生徒は、教室であばれる事を、決して止めなかった」というところがこの挿話のオチなのだ。その顛末が、この教師の、もっともらしいが、何か確実にずれている理屈の滑稽さを示唆するようでもある。

手記を記した教師が見せるこうした話に、小林先生は「あきれ返って、開いた口がふさがらないような事」と率直に書いている。しかし、だからこそ小林先生は、手記の筆者たる教師の目を信じて、彼の言葉に耳を澄ましていくのである。このエピソードとは別の話題に移ったところを引用する。

——例えば、石川達三の「人間の壁」が現れる。教育問題について、世人の関心を高めたという点で有益な著作である。作者の長期間にわたる調査の労も認めるし、作者の学校教師等に対する好意も感じている。だが、残念ながら読み通す事が出来なかった。教師の生活の真相が描かれていないからだ。手記の筆者は、そう言うのである。

私は、ここで文学論をするのではない。経験者にとって、経験的事実を離れる事が、いかにかたいかを言う。それは、どんなに注意しても、注意し足りない事だ、と言うのだ。事、生活に関しては、経験者の頭数だけ、真相の数がある、そんな不毛な考えに、もし注意力を働かせているなら、導かれるはずはない、そんな認識の遊戯に、注意力なぞ要らないであろう、と言いたいのだ。生活経験の質、その濃淡、深浅、純不純を、私達は、お互い感じ取っているものだ。敢えて言えば、その真偽、正不正まで、暗黙のうちに評価し合っているものだ。それが生活するものの知慧だ。常識は、其処に根を下している。だからこそ、常識は、社会生活の塩なのだ。(同p.140)

小林先生は、手記の筆者である教師の目をもって語る。その教師が毎日見ているのは、学校と生徒たちである。それだけなのである。そこで日々起こることから目を逸らさず、注意し続けている。そうやって経験を深めている教師の目からすると、石川達三の小説は、題材こそ教師の日々の現場が扱われているものの、「教師の生活の真相が描かれていない」と感じられるものであった。こうはっきり言うことは、「生活に関しては、経験者の頭数だけ、真相の数がある」という一般通念への挑戦とも取れる。こう断言する教師の感想と同じ側に、小林先生は立っている。生活はたしかに人それぞれにあるだろうが、それをどれだけ深く経験できるか、それは生活者各人の注意力次第であると信じているからだ。そして、他人が真に経験をしている者であるか、それは常識によって判断できることなのだ、と小林先生は言う。

ここで論じられているのは、ある教育現場に直接関わっている教師とそうではなく取材を通じてしか現場を知ることのできない小説家の単なる対比ではない。「文学論をするのではない」と言っているのはその意味であろう。続きを引用して考えてみる。

——(本多注:常識は)無論、分析の適わぬものだ。週番制度会議の席上で、精神薄弱な教師が、常識というような、わかったような、わからぬような、曖昧なものは信じない、と言うのも無理はない。彼には、生活に対する注意力が欠けている。分析の適わぬものを、見詰める忍耐を失っている。現代に蔓延している悪疫である。常識という原石は、常に実在するのだが、自覚的な生活人がだんだんれになれば、原石が磨かれるのもだんだん稀れになることわりであろう。(同p.140~1)

小林先生は、手記を書いた教師の同僚である別の教師が、同じ教育現場にいながら、その経験を深めることができていないと見ている。先に引用した別の教師が「常識というような、わかったような、わからぬような、曖昧なものは信じない」という態度を取ってしまうことを、注意力や忍耐力の不足だと言っている。同時に、小林先生は、こうした教師の態度は「現代に蔓延している悪疫」であると認めている。この「精神薄弱な教師」だけではない、生活に対する注意力や忍耐力に欠け、常識が信じられない多くの生活者が、生活を経験に深化できぬまま暮らし続けている。そうした流行の中だからこそ、小林先生の目に、手記を記した教師の出現が、稀有な事件として映ったのではないだろうか。それは、常識の生存報告であったのだ。

手記の筆者の常識を小林先生は信じる。そんな彼を、委員会と日教組という表面上の対立の中に置き直してみて浮かび上がる姿について、次のように語る。

——不思議な事だ。手記の筆者は、教育とは、毎日、飯を食うような当り前な事だ、と確信しているのだが、彼が周囲に見るものは、ことごとく異様な言動である。手記は、長々と続くのだが、筆者は、教育の理想もかかげていないし、理論も説いてはいない。彼は保守派でもなければ、進歩派でもない。教育委員会は、師範学校伝来の形式指導の中で眠っている。日教組は、社会変革にかたどった教育の革新だけを夢みている。夢も見ず、眠っている者と、眠って夢を見ている者との間に、何か大した違いでもあるのだろうか。

彼等は、つかみ合いをしなければならぬほど、異った人種なのか。睡眠中の争いに、終る期はあるまい。私のような、事情に不案内な読者にも、土っぽこりにむせ返って、目を覚ましている一教師の姿は明瞭である。彼は、目を覚ましてさえいれば、いやでも毎日、目に飛び込んで来るものだけを見ている。生徒だけが見えている。(同p.141~2)

——生徒は𠮟り通し、P・T・Aや教委や日教組には衝突し通しの、寧日のない日がつづく。彼は、すっかり学校の変り者になる。だが彼にしてみれば、教育の理想は結構だが、その戸口を開ける鍵穴は、目の前の事態の外にはないと確信しているだけだ。健全な実行家の常識を磨いているだけなのだ。(同p.142~3)

教育の現場に持ち込まれる空虚な理想が、教師たちも、その対立者たちも、眠らせる。その中で、少なくとも手記の筆者一人は、目を覚ましている。小林先生はそう感じて、彼こそが、問題にあたるために見るべきものは「目の前の事態の外にはないと確信」し、「健全な実行家の常識を磨いている」のだと語る。

 

【常識についてのまとめ、改めて「忠臣蔵Ⅰ」へ】

「或る教師の手記」の概要を追いながら、重要と思える箇所を引用して、これまで論を進めてきた。はじめに紹介した「人間誰にも生れつき備わり、そのうえさらに実社会で訓練された思慮分別の意。単に外部から習得される知識よりも、万人共通の直観力、判断力、理解力」という意味での常識は、これまでの論によって、さらに次のように言い足せないだろうか。すなわち、常識とは、経験を空想せずに真剣に見つめることによってのみ養われる人間の知恵である、と。手記内の挿話によって示されたのは、常識を信じて日々を生きる難しさであった。それゆえに手記の筆者が、小林先生には、自らの経験をはっきり自覚する数少ない生活人の姿に映った。そこに常識が生き生きと働く様を感じ取ったのではないか。目の前の問題を別の問題にすり替えて説明しようとする、その誘惑をはねのけて、経験を深め、生活を実行する、そうした忍耐を伴う人間の営みの中でだけ、常識は宿り、育っていく。

廻り道をしたが、これで改めて「忠臣蔵Ⅰ」に戻ってこられるのである。常識は人の心事に遠慮がちだ、あまり覗き込まないことにしている、と小林先生が言っていたのは、鍛えられた常識は、複雑な人の心事を軽率な説明で片付けようとしないということだ。その代わりに、辛抱強くじっと見つめるのである。それは単純な答えを期待しているわけではない。暗いものに偽の光を当てて明るみに出そうということを、常識はしない。ではその凝視の先に、何が生まれるのか。それが先の教師の場合、手記という形になった。小林秀雄という批評家にとっては、それが批評作品を生むことになるであろう。内匠頭の心事を見つめる小林先生の常識が、そのまま「忠臣蔵Ⅰ・Ⅱ」という作品の姿になるのである。

 

(つづく)