【丸山眞男から小林秀雄へ――『考えるヒント』について】
前回稿まで、丸山眞男氏の『日本政治思想史研究』所収の論文に沿って、荻生徂徠について書いてきた。そして、丸山氏が描き出した「公私に分裂する」徂徠像を見たうえで、そうした分裂は徂徠本人に意識されていたことなのか、あるいは、そうした分裂的な性格を孕んだ徂徠の心中はどのような緊張状態にあったか、考えていきたいと、私は書いた。ここで、丸山氏からは離れ、いよいよ小林秀雄先生が徂徠にどう向き合ったか、を見て、思索を深めたいと思う。そこで、やはり取り掛かりとなるのは、本論考の表題にもなっている「懐に入り込む」という表現の出処、すなわち「哲学」である。
――丸山真男氏の、「日本政治思想史研究」はよく知られた本で、社会的イデオロギイの構造の歴史的推移として、朱子学の合理主義が、古学古文辞学の非合理主義へ転じて行く必然性がよく語られている。仁斎や徂徠の学問が、思想の形の解体過程として扱われている仕事の性質上、氏の論述は、ディアレクティックというよりむしろアナリティックな性質の勝ったものであり、その限り曖昧はなく、特に徂徠に関して、私は、いろいろ教えられる点があったが、私としては、ただ徂徠という人の懐にもっと入り込む道もあるかと考えている。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集p.173~4)
この一節がどういう経緯で現れているのか、本論考でここまで明らかにしていなかったので、書いておきたい。「哲学」という随筆は、『文藝春秋』で『考えるヒント』と題された連載の一篇を成す。『考えるヒント』と題される連載は、昭和三十四年(一九五九)六月の「常識」が最初であり、昭和三十九年(一九六四)六月の「道徳」まで続いた。「哲学」は、昭和三十八年(一九六三)一月発表のものである。
『考えるヒント』は、その表題だけ一見すると、一般に随想録と呼ばれるような、多様な主題が並んでいる。『小林秀雄全作品』所収の表題名で列挙すると、昭和三十四年には「常識」「プラトンの「国家」」「井伏君の「貸間あり」」「読者」「漫画」「良心」、昭和三十五年に「歴史」「言葉」「役者」「或る教師の手記」「ヒットラアと悪魔」「平家物語」「プルターク英雄伝」、昭和三十六年に「忠臣蔵Ⅰ」「忠臣蔵Ⅱ」「学問」「徂徠」「弁名」、昭和三十七年に「考えるという事」「ヒューマニズム」「福沢諭吉」「還暦」「天という言葉」、昭和三十八年に「哲学」「天命を知るとは」「歴史」「物」、そして昭和三十九年「道徳」である。その表題順から察せられるように、また実際各篇を順番に読むとわかるのだが、当初まさに縦横無尽の感がある連載は、昭和三十六年の「忠臣蔵Ⅰ」を皮切りに、日本の近世、江戸時代を主題としてまとまりを持ち始める。とりわけ、近世の学問、その中でも儒学についての随筆が多くなっていくのである。この点、小林先生自身が「学問」の書き出しで次のように言っている。
――私の書くものは随筆で、文字通り筆に随うまでの事で、物を書く前に、計画的に考えてみるという事を、私は、殆どした事がない。筆を動かしてみないと、考えは浮かばぬし、進展もしない。いずれ、深く私の素質に基くものらしく、どう変えようもない。「忠臣蔵」について書き始めた際も、例外ではなく、まるで無計画で始めたのだが、やがて書いているうちに、我が国の近世の学問とか思想とかいう厄介な問題にぶつかるであろう、又、ぶつからなければ、面白くもあるまい、それ位な見当は附いていた。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集p.11)
これは謙遜のない、告白と受け取れる。実際、「忠臣蔵Ⅰ」より前の連載は、各篇の前後で主題的に明白な繋がりを持っていないのである。ひとまず、ここでは、本論考にとって最重要な「哲学」が、『考えるヒント』の後半部、近世の学問や思想を主題の中心に据えた一連の連載の中で生まれたものであることを、確認しておきたい。
【『考えるヒント』の各主題に共通する思惟の型】
先に私は、『考えるヒント』において、「忠臣蔵Ⅰ」に至るまでは縦横無尽の感があると書いたが、これはあくまで表面上そう見えるという話であって、そう言って紹介程度に終わらせてしまったよいとは思えない。もとより、『考えるヒント』の一篇一篇について精しくすることは叶わないとしても、次のことは言っておきたい。
『考えるヒント』の前半部、すなわち「常識」から「プルターク英雄伝」は、各篇ごとに、異なる主題が選ばれている、とはこれまで述べてきたところだ。その内容だが、たとえば作品批評の類であれば、その対象は、プラトンやプルタルコスといった古代ギリシアの古典から、小林先生と同時代の作家であった河上徹太郎氏の「日本のアウトサイダー」という同時代の作品まで幅広い。「或る教師の手記」にいたっては、作家ではない、無名の中学校教師の手記を題材に書かれている。文学作品に限らず、「井伏君の「貸間あり」」や「ヒットラアと悪魔」のように映画作品が執筆の契機となっているものもある。「常識」や「良心」では、特定の作品ではなく、現代で言うところのコンピュータが話題となっているし、「役者」については、表題通り、文士劇で小林先生が役者を経験が主題である。こうして見るとますます『考えるヒント』前半部における小林先生の話題の豊富さに気づく。
しかし、これは、それぞれの話題ごとに完結するような随筆集とはまるで違う。むしろ、この話題の豊富さは、どの作品にも通底する何かを思わせ、小林先生が何を対象としても、共通する感じ方、考え方を抱いていたことを感じさせる。これは、『考えるヒント』を何度も読み直す読者には、自然なことに思える。それは公式というのとは異なる、武道家や将棋指しにとっての型のようなもの、あらゆる敵や盤を前にして、都度異なる相手の出方に合わせて向き合う、思惟の型とも表現できようか。私としては、本論考での相手は、ずっと変わらず荻生徂徠なのだが、この機に小林先生からこの型を学び、そうして会得した思惟の型に随って、再び徂徠に戻ってきたい、そういう思いがするのである。
そこで、まずは『考えるヒント』の中から一篇を選び、そこに現れた表現を、他の作品も踏まえて精読する。それによって、一作品だけでなく、連載を通して小林先生自身が深めたであろう思索の仕方を体験していきたい。ここでどの作品を選ぶか、であるが、ここまで言及してきた通り、『考えるヒント』の前半部では一篇一篇は主題としては繋がりを持たないが、その全体を通じて、さまざまな言葉がその意味を熟していくように書かれてきた。そうした言葉たちが、連載後半部において、近世の学問という各篇で共通する主題に対して、ぶつかっていき、さらに小林先生と読者の思索を深めていくのである。私が問いたい「徂徠の懐に入り込む」ということも、そうした連載前半で熟した思索を踏まえて、連載後半で出てくる表現なのである。そうであるならば、ここでまず訪ねるのに相応しいのは、連載の結節点と言える作品、「忠臣蔵Ⅰ」ではないかと思う。したがって、本稿の残りは「忠臣蔵Ⅰ」について書く。
【「忠臣蔵Ⅰ」について】
そもそも「忠臣蔵」について、簡単な説明をしよう。以下、『小林秀雄全作品第23集』「忠臣蔵Ⅰ」の脚注を参考にする。小林先生が言及する「忠臣蔵」は、「仮名手本忠臣蔵」の略称であり、赤穂浪士討入事件という実在の事件を題材にした人形浄瑠璃作品で、のちに歌舞伎にもなった。事件の発端は、元禄十四年(一七〇一)に起こる。時の赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は、勅使饗応掛という役職に就いて、江戸城内にいたが、そこで、彼を監督する立場にあった吉良上野介義央に切りつけてしまう。浅野内匠頭は即日切腹を命じられる。これに対して、赤穂藩浅野家の家老・大石内蔵助良雄は、赤穂浪士四十六人を率いて、元禄十五年(一七〇二)、主君浅野内匠頭の恥辱を雪ぐため、吉良上野介の家へと討ち入った。
この事件について、小林先生は、「忠臣蔵Ⅰ」で次のように言う。
――私は、戦争中、或る学校で、「忠臣蔵」の史実について、講義というほどの事ではないが、引続き話をした事があるので、事件に関し少しばかり知識を持ち、興味を抱いているのだが、近頃の学校の歴史でも、又、最近広く読まれた日本史などを見ても、この事件は、歴史家によって全く軽んじられているように見える。どうも気の食わぬ思いがしている。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.223)
そして、続く箇所で、たしかに、外的に見えるのは、浅野内匠頭と吉良上野介という「極くつまらぬ事から起った二人の武士の喧嘩」であり、それが大石内蔵助ら赤穂浪士四十七人が「人数を殖やした大喧嘩で始末をつけた」事件というだけのことではあるが、「大事なのは、一週間もしないうちに、事を扱った芝居が現れた、当時の知識階級の代表者達も、一斉に、事件を論評した事だ」と言っている。そうした小林先生の意には反して、現代の歴史家たち、あるいは歴史教育は、赤穂浪士事件を軽視あるいは黙殺している。なぜだろうか。小林先生は、事件と同じ元禄期の美術家である尾形光琳の「燕子花図屏風」は歴史教育でも必須の知識となっていることを踏まえて、次のように力強く問いを発する。
――そこで、日本史の再検討という事で書かれる、現代の日本史が、討入事件を軽視している理由を推察すれば、こういう事になるだろう。討入の精神上の影響力の甚大は認めるが、これは、現代では、もはや殆ど価値を認める事の出来ぬものになったという考えに基く。これに引きかえ、光琳の「かきつばた」の影響力は、現代の精神にも未だ訴える力を持っている、と。では大石良雄の封建的思想と尾形光琳の封建的美とは、それほど風の変ったものか。「かきつばた」の現した美が、今日も尚生き長らえているのは、その美は、封建的という言葉では言い尽くせぬものを持っていたからではないか。では、内蔵助の思想が古びたのはまさにそれが封建的思想で言い尽くせるものであったからか。芸術と思想とは、それほど異ったものか。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.224~5)
ここで小林先生が、「封建的」という語を持ち出しているのは、現代の歴史家に合わせて、そう表現しているのだろう。小林先生は歴史家たちに問うている。君たちは赤穂浪士事件も光琳の屏風も、近世日本特有の「封建的」な特徴を有するというようなことを言うだろう、そして「封建的」という言葉をそれらに張り付けるとき、現代からすれば価値のない、古びたものだ、という印をつけるに等しい、しかし考えてみれば、もし光琳の屏風が「封建的美」と一言で片付くものなら、その美が現代において重視されることはなかっただろう、それを重視するのは、「封建的」などという言葉で言い尽くせぬものがあるからではないか、そうであるならば、赤穂浪士事件を「封建的思想」と一言で片して不要な知識とするのは、おかしな話ではないか。小林先生が憂いたのは、病んだ歴史風潮であった。
では、この歴史風潮が見落としている事件の真実とは何だろうか、その問いを、小林先生は、深めていこうとする。注目するのは、赤穂浪士事件の発端である、浅野内匠頭のことである。朝の十時頃に起こった内匠頭と上野介の喧嘩は、その日の暮方六時頃の内匠頭の切腹で一旦決着を見せた。それまでの時間の内匠頭の言動で「動かせぬ確証に基いて、言えるようなものは何一つない」のだが、切腹前に、内匠頭は、検使(切腹に立ち会う役人)に三つの発言をしており、云々、と逸話が紹介される。その後で、こう書かれる。
――こういう言い伝えが、みな本当だったとしても、又、この他に、もっと本当らしい言い伝えがいくつあったとしても、彼の心事を推測する足しになるだろうか。(中略)彼は、上野介に切付けた時、思い知ったかと大声を発したと言われるが、それが確かでないとしても、思い知ったのは当人であった事に、間違いはあるまい。ところで、彼は、何を思い知ったのか。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.227)
小林先生が目を凝らすのは、浅野内匠頭の「心事」である。それを推測するに足る証拠はないし、仮にあったとして、それが何だというのだろうか。証拠の有無にかかわらず、内匠頭が上野介に切付けた瞬間から、切腹の直前まで、否が応でも「思い知った」ことがあるのは、確かに信じられる、と小林先生は言っている。これに続く箇所を、長くなるが引用する。
――ここに、歴史家が、素通りして了う歴史の穴ともいうべきものがある。穴は暗い。それは、あんまり個人的な主観的な事実で、詰っている。そのようなものにかかずらっていると、歴史の展望を見誤るおそれがある。それは一応尤もな事だが、もう少し正直に考えてみよう。穴は過去の歴史の上に開いているばかりではない。私達の現在の社会生活の何処にでも口を開けている。窮境に立った、極めて難解な人の心事を、私達の常識は、そっとして置こうと言うだろう。そっとして置くとは、素通りする事でも、無視する事でもない。そんな事は出来ない。出来たら人生が人生ではなくなるだろう。経験者の常識が、そっとして置こうと言う時、それは、時と場合によっては、今度は自分の番となり、世間からそっとして置かれる身になり兼ねない、そういうはっきりした意識を指す。常識は、一般に、人の心事について遠慮勝ちなものだ。人の心の深みは、あんまり覗き込まない事にしている。この常識が、期せずして体得している一種の礼儀と見えるものは、実際に、一種の礼儀に過ぎないもの、世渡り上、教えこまれた単なる手段であろうか。
一種の礼儀だとしても、この礼儀が人間社会に下した根はいかにも深いものと思われる。今日は、心理学が非常に発達し、その自負するところに従えば、人心の無意識の暗い世界もつぎつぎに明るみに致される様子であるが、だが、そういう探究が、人心に関する私達の根本的な生活態度を変える筈はない。変えるような力は、心理学の仮説に、あろうとも思えない。私達は、人の心はわからぬもの、と永遠に繰返すであろう。何故か。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.227~8)
「歴史の穴」、小林先生にとって、内匠頭の心事は、まさにそう呼ぶしかないものであった。「歴史の展望を見誤るおそれがある」とは、歴史家たちがそう思っているであろうという表現だが、その危惧によって、むしろ素通りされている「穴」がある。歴史に限らない、「現在の社会生活」にも「穴」はあり、同様の扱いを受けている。この言い方に、私達は一度立ち止まって見るべきだろう。
歴史や社会と「人の心事」という問題は、『考えるヒント』ですでに主題の差を超えて流れ続けていたものであった。たとえば、次の二つの文を読んでみよう。
――私が文学批評を書き始めた頃、歴史的或は社会的環境から、文学作品を説明し評価しようとする批評が盛んで、私の書くものは、勢い、印象批評、主観批評の部類とされていたが、其後、私は、自分の批評方法を、一度も修正しようと思った事はない。(「井伏君の「貸間あり」」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.56)
――人間の内部は、外部の物が規制するという考え方が、現代では非常に有力であるから、戦争と文学との関係も、もっぱらそういう展望の下に、見られ、論じられている。(中略)戦争は、文学を生む事は出来ないのは無論の事だが、文学を本質的に変化させる力も戦争にはない、何も彼も文学者たる自分の心がするのだ、そうはっきり考えて少しも悪い理由はない。(「読者」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.66)
「歴史的或は社会的環境」が「文学作品」を説明し、「外部の物」が「人の内部」を規制するというものの見方、それは、「忠臣蔵Ⅰ」の先の一節で言うところの「歴史の展望」を見通すためにはあるいは有効かもしれない。しかし、小林先生が、自ら批評家として、あるいは文学の世界の者として、初めから一貫したのは、そうした見方と全く異なるものであった。これを踏まえて、「忠臣蔵Ⅰ」に戻ってみると、小林先生の批評家としての確信が、少なくとも通念に蔓延る歴史的あるいは社会的な分析の目は、人の心事という「穴」を見ることができない、と言っているように聞こえる。
それでは、まさにその名が示す通り、「心理学」は、人の心を覗うのに適した見方を私達に提供してくれるのだろうか。「忠臣蔵Ⅰ」の先の一節の中で、「今日は、心理学が非常に発達し、その自負するところに従えば、人心の無意識の暗い世界もつぎつぎに明るみに致される様子であるが」と小林先生は言っているが、この「心理学」というのも注意が必要だ。昭和三十八年の「歴史」から引こう。
――心理的という言葉は外的という言葉と同じ意味に使われている。観察されているのは、もっぱら心の解体現象である。そして、これをリアリズムと称している。(中略)私の心理学から言えば、彼等のリアリズムとは、自己との戯れの直訳に過ぎない。だが、まさしく其処に、彼等の自負がある。「冥府」(本多注:ここでは、フロイトが「人の心」をそう比喩したことを踏まえての表現)の合理的構造は明らかになった。それは社会の合理的構造に、同じ延長の上で直結している。(「歴史」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.95~6)
「心理的という言葉は外的という言葉と同じ意味で使われている」、これは皮肉である。人の心事を、外から無理に説明しようとする、その意味では、社会学や歴史学と同様、心理学も、他人事な分析に相違ない。そうした分析が役に立つ場面は、それ相応にあるのだろうが、「人の心はわからぬもの」と言う私達の率直な感慨に応えるものではなかろう。
厄介なのは、こうした分析が、ある種の説得力をもって、私達が「穴」、「わからぬもの」と直観した人の心事という謎を、解き明かしてくれるかのように振る舞うことだ。あるいは、ついそう期待してしまうということだ。これは、風潮や流行の問題であろう。たとえば、「歴史」の中の別の一節に、「フロイディズムはこのフロイトという人間の心を欠いている」とある。フロイディズムとは、フロイト主義という意味だ。フロイトは、精神分析学の創始者である。一人の人間であるフロイトの思想が、本来「抑制」されたものであったと、小林先生は彼の自伝を読んで気づく。しかし、そうした努力は無視され、フロイディズムという「流行」になってしまっていた。そのことを指して、「フロイディズムはこのフロイトという人間の心を欠いている」と言っているのだ。改めて言葉を見てみれば、自称か他称かは知らないが、フロイディズムという呼称そのものが、フロイトという人を置き去りにして勝手に成長する、歪んだ有り様を示しているように見える。
「忠臣蔵Ⅰ」に戻ろう。
――未経験者は措くとして、人の心はわからぬものという経験者の感慨は、努力次第で、いずれわかる時も来るというような、楽天的な、曖昧な意味を含んではいない。これには、はっきりした別の含意があって、それがこの言葉に、何か知らぬ目方を感じさせているのである。それは、人の心が、お互に自他共に全く見透しのような、そんな化物染みた世間に、誰が住めるか、と言っているのだ。常識は、生活経験によって、確実に知っている、人の心は、その最も肝腎なところで暗いのだ、と。これを、そっとして置くのは、怠惰でも、礼儀でもない。人の意識の構造には、何か窮極的な暗さがあり、それは、生きた社会を成立させている、なくてはかなわぬ条件を成している、と。私は、わかり切った事実を言っている。あまりわかり切った事実で、これを承知している事が、生きるというその事になっている。従って、この事実への反省は稀れにしか行われない、と言っているのだ。
尋常な暮しのうちに尋常に生きている私達の心は、人間についての、あまり抽象的な説明に出会えば、そこで何か不正が行われているように、或は何か滑稽が演じられているように、実に鋭敏に反応するものだ。これは生活人の一種微妙な警戒心なのだが、心理学や社会学に制圧された現代の知識人は、人間生活に関する抽象的な、図式的な限定なり説明なりに対して、驚くほどこの警戒心を失って了っているように見える。「封建的なるもの」という言葉に対しても同じ事だ。強張った表情で対するだけで、まるで生きた反応を示していない。これは、精神の活力の或る衰弱を語るものではあるまいか。衰弱が、誇張された言論や、空威張りの行動となって現れるのも、見易い理ではないのか。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集p.228~9)
「歴史の穴」の暗さは、「人の心は、その最も肝腎なところで暗い」、「人の意識の構造には、何か窮極的な暗さ」があるという事実に由来する。こうした事実を、「人間についての、あまり抽象的な説明」は看過する。そうした説明が横行している様はすでに見た通りだが、小林先生の言葉に従って改めて繰り返すなら、「心理学や社会学に制圧された現代の知識人」による、「人間生活に関する抽象的な、図式的な限定なり説明」の流行のことである。この一節自体は、あくまで「忠臣蔵」、赤穂浪士事件に関することだが、『考えるヒント』を通じて小林先生が痛感したのは、何を語ろうとしても、そうした説明が通念上まかり通っている現状があるということ、それが、私達と、本当の意味での社会や歴史、そして人の心事との出会いを阻んでいるということだったのではないか。
さて、「忠臣蔵Ⅰ」の一節を、それより前に書かれた『考えるヒント』の別の作品を重ねながら読むということを進めてきたが、もう一つ、上の引用内で熟視したい言葉がある。それは、「常識」である。これは稿を改めて思索することにしたい。
(つづく)