「モーレツからビューティフルへ」

荻野 徹

いつものように『本居宣長』をネタにおしゃべりをする四人の男女。今日は、大団円、第五十章が話題のようだが、銘々、新潮社刊『小林秀雄全作品』の別の巻も持参しているようだ。

 

元気のいい娘(以下「娘」) 大阪万博に行ったんだって? どうだった。

凡庸な男(以下「男」) うん、イタリア館の入場券が当たってね、カラバッジョにミケランジェロ、なかなかよかった。

江戸紫の似合う女(以下「女」) でも、暑かったでしょう。

男 猛烈な暑さ。「オー、モーレツ」って感じ。

娘 なにそれ、なんかキモイ。

男 (口ごもりつつ)いや、あの、その、昭和のテレビには、えーと、あっ、そうそう「モーレツからビューティフルへ」なんてのがあってね。

女 (呆れながら)有名なテレビコマーシャルのコピーね。前の大阪万博があった1970年かな。私は同時代ではないけど、知っているわ。企業名も、商品名も出てこなくて、ただこの文字列だけが大写しになっている。

生意気な青年(以下「青年」) ビューティフルっていえば、最近だと、トランプ大統領の「私にとって辞書の中で最も美しい言葉(the most beautiful word)は、関税だ」っていうのを思い出しちゃいますね。

男 それこそ、ビューティフルというより、モーレツだ。

女 そういう言葉のいちいちに、眉をひそめて嘆いたりすること自体、術中にはまっているということよ。

娘 でも、美とか、美しいという言葉には、なにかササルものがある。

男 僕らも、小林秀雄先生の勉強を始めようとすると、まず、『美を求める心』を読むよね。

青年 すみれの花のくだりは、はっとさせられるというか、物の見え方が変わった感じで、一度読んだら忘れられないな。

娘 「何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。……菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまう事です。」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集246頁)とある部分だね。

 

男 僕らは、すみれは可憐な花を咲かせる野草くらいの認識でいるから、あっ、すみれだ、きれいだな、かわいいな、と思っておしまい。その「きれい」とか「かわいい」とかいう言葉が、花そのものを見ることを妨げているということだね。

青年 「諸君は頭の中でお喋りをしたのです。」(同頁)と書かれている、言葉を使いだすと、頭の中で言葉が言葉を呼び起こす連鎖反応が起き、言葉が自己増殖して、目の前の花に注意がいかなくなるんだね

女 一輪一輪のすみれは、みな、大きさも、形も、色合いも様々だし、陽射しに照らされ、風にそよぎ、ひと時として同じ形態ではないわ。形や色合いといった要素を記録し、それを合算しても、僕が見たあのすみれを再現できるわけではない。あるすみれが美しいというのは、それらのひとそろいの在り様、つまりその姿が美しいということなのね。

青年 小林先生は、「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない。」(同、第14集137頁)とも書かれている。

男 『当麻たえま』だね。お能の話、世阿弥の話だから、かなり難しいけれど、この言葉も、一度読んだら忘れられないね、

女 能の姿、形についてのお話ね。

男 というと?

娘 確かに、こう書かれている。「音楽と踊りと歌と最小限度の形式、音楽は叫び声の様なものとなり、踊りは日常の起居の様なものとなり、歌は祈りの連続の様なものになって了っている。そして、そういうものが、これでいいのだ、他に何が必要なのか、と僕に絶えずささやいている様であった。」(同134頁)

女 先生は、能舞台を見るというのは、フィギュア・スケートの審判が、このジャンプは何点、このステップは何点と、分析的に採点し、それを合算して評価を決めるというのとは大違いで、そのときその場で演じられていることの総体、つまりその姿が美しいかどうかを感じ取ることなのだ、とお考えだと思うわ。

男 姿、形か。確かに、能のシテ方はたいてい能面を被っていて、顔の表情は見えない。挙措動作も、生身の役者が演じる現代劇みたいにリアルではないね。

女 人間の心の中の感情や、頭の中の観念は、顔の表情にどうしても現れる。そういう生身の人間の内面は能面の向こう側に閉じ込め、舞の動作や謡の声という外面的なものだけで、能舞台は構成される。その姿こそ観るべきだということじゃないかしら。

青年 言葉に置き換えて解釈するのではなく、対象そのものの姿、形をよく見るべきだというお考えだね。

娘 姿、形といえば、『美を求める心』では、山部赤人やまべのあかひとの歌を例にこう書かれているよ。「歌は意味の分かる言葉ではない。感じられる言葉の姿、形なのです。言葉には、意味もあるが、姿、形というものもある。」(同、第21集249頁)

男 なるほど。僕らの目下の課題である『本居宣長』第五十章では、宣長さんが『古事記』をどう読み、上古の人の生死観にどう肉薄していったかが書かれているけど、宣長さんも、上古の人が語り継いできた言葉の姿、形に注目しているということかな。

女 ええ。たとえば、『源氏物語』の「雲隠れの巻」(巻の名により主人公光源氏の死が示唆されるが、本文はない)について、「何故、作者は、物語から主人公の死を、黙って省略して、事を済まさず、『雲隠れの巻』というような、有って無きが如き表現を必要としたのか、と。言ってみれば、そういう問いを、宣長は解こうとはせず、この問いの姿に見入ったのである。」そして、「宣長は、作者式部の心中に入り込み、これを聞き分けた、と言っていい。」と書かれている(同、第28集197頁)

青年 ああそうか。宣長さんは、式部の書いたことばの意味内容を詮索するのではなく、そのような形(巻の名だけあって、本文がない)そのものから、式部の執筆動機を追体験しようとしているんだね。

女 『古事記』の注解についても、同じよね。

男 たとえば?

女 まず。小林先生は、宣長の学問において、(この世に生まれて来た意味なり価値なりの意識を)「引き出し、見極めんとする彼等の努力の『ふり』が、即ち古伝説の『ふり』である。」と書かれているでしょう(同、203頁)

男 うん、それで。

女 人間の生死の始まりについての物語りともいわれる黄泉よもつ比良坂ひらさかの場面(注)、とても有名よね。

娘 うん、「火の神を生んで死んだ伊邪那美命いざなみのみことを追い、黄泉の国へ行った夫の伊邪那岐命いざなぎのみことは、変わり果てた伊邪那美命を見て逃げ帰ろうとする、伊邪那美命は追うが、黄泉比良坂で伊邪那岐命は千引石を引き据え、追跡を断つ」(同204頁脚注)という場面だね。

女 このとき、伊邪那美命が千引岩ちびきいわの向こう側、つまり伊邪那岐命が帰ろうとする現世のことを、「みましくに」と呼ぶ。宣長はこれに、そもそも女神自らお生みなさった国のことを「かくよそげにのたまう、生死いきしにへだたりを思えば、いと悲哀かなし御言みことにざりける」という注を付けたのね。

男 どういうことかな。

女 小林先生は「宣長の直覚には、沢山な『詞』が必要ではなかったであろう。女神が、その万感を託した一言に、『天地の初発の時』の人たちには自明であった生死観は、もう鮮やかに浮かび上がってきたに違いない。」と書かれている(同、205頁)。宣長さんの眼前には、「みましくに」とのたまわれた女神の姿が、そしてその涙がまざまざと現れ、上古の人々の生と死に関する思いを追体験することができた、ということじゃないかしら。

娘 小林先生は書かれているね。「死は『千引石』に隔たれて、再び帰ってはこない。だが、石を中においてなら、生と語らい、その心を親身に通わせてくるものなのだ。上古の人々は、そういう死の像を、死の恐ろしさの直中から救い上げた。」そして、「宣長の洞察に依れば、そこに『神代の初めの趣』を物語る、無名作者たちの想像力の源泉があったのである。」(同、207頁)

女 宣長さんが『古事記』の言葉の姿、形から上古の人々の想像力の世界を追体験したように、小林先生も、宣長さんの注解の書きぶりから、宣長さん自身の生死についての思いを読み取ったということだわ。

娘 石を中に置いてなら、生と死との語らいが可能だなんて、ヤバくない!

男 宣長さんの遺言書も、死と生のあわいに置かれた石のようなものなのかな。

青年 小林先生は、宣長さんの遺言書を「彼の最後の自問自答」と書かれている(同、209頁)。宣長さんは、どういう問いを立て、それにどう答えているのかなあ。

娘 上古の人たちへのメッセージかなあ?。

女 小林先生は、遺言書の書きぶりから、そして宣長さんが学者として生きてきた姿から、何かを、私達にはまだ見えない何かを、読み取っていらっしゃるようね。この『本居宣長』というご本自体が、宣長さんに向けた、先生の自問自答なのかもしれないわ。

青年 でも、最後は、なんか、もういっぺん読んで欲しいとか、突き放されているみたいだな。

女 そうかしら。私達も、このご本を何度も読み返して、自分なりの自問自答を繰り返していけばいいんだわ。

娘 その自問自答が難しいんだなあ。

女 そうね、でも、私たち、いろんなお喋りしてきたじゃない。

男 モーレツな暴論を聴かされてきたけどね。

女 ごめんなさいね、妄想につきわせて。でも、まだ何の見通しもないけれど、こうして勉強していけばいいんだって、この道は間違ってないって、思えて来たわ。みんなとお喋りできて、よかった。

男 おやおや、ビューティフルにまとめるね。

女 あら、初めて褒められたわ。

 

四人はみな、穏やかに微笑み、『本居宣長』の思い思いの箇所を開き、見るともなく、読むともなく、うつらうつらと眺め、しばし黙りこくるのであった。 

 

(注)新潮社刊新潮日本古典集成『古事記』39頁では、この場面に、「人間の生死の起源」との見出しが付されている。

 

(了)