「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部」と題し、これまで三回にわたって筆を進めてきた。ここで改めて、振り返っておきたい。
Ⅰ(「好*信*楽」2023年冬号所収)では、紫式部が、他人の心ばえに対する感情移入や共感の強さにおいて、際立つ気質を持っていたこと、式部自身が「古歌」や「物語」に人一倍親しみ「憂さをも慰め、心をも晴らす」という、その功徳をよく体感していたこと。加えてその功徳が、古人たちから平安の世に至るまで、連綿と受け継がれてきたものであることを、彼女が鋭く直観していたことについて述べた。
Ⅱ(「好*信*楽」2024年冬号所収)では、紀貫之が「土佐日記」の執筆を通じて行った「和文制作の実験」、すなわち「最初の国字と呼んでいい平仮名」を用いて、「平凡な経験の奥行の深さを、しっかりと捕え」た日記を書き上げたことを、彼が土佐から帰京する船旅のなかで感じた喜怒哀楽のさまを通じて示した。
そして前稿のⅢ(「好*信*楽」2024年春号所収)においては、式部が、曽祖父や祖父と昵懇であった紀貫之と、「古今和歌集」や「土佐日記」を通じてどのように向き合ってきたのか、さらには貫之の作品を介し、または直かに、「万葉集」や記紀の時代を生きた古人たちと、いかに向き合ってきたのかを、彼女の作品に示されているところを見た。
そこで本稿では、小林秀雄先生が言うところの、彼女が飲んだ「生命」や「源泉」に向けて、さらに深く掘り進めてみることにしたい。
*
本稿では、「本居宣長」のなかで頻出している「言霊」という言葉に注目する。小林先生は、十九章から四十九章に至る、多くの場面で「言霊」という言葉を使っている。ただし、その意味合いについては、本居宣長と長年にわたり向き合ってきた、先生ならではの意味合いが込められており、留意が必要だ。「言霊」とは一般的に、例えば「広辞苑」(岩波書店)によると「言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた」というように説明されている。
そこでまず、この言葉が、実際にどのように使われていたのか、もっとも古い例として「万葉集」を紐解いてみることにしよう。使用例は三首ある。まずは、長歌から。
好去好来の歌一首
神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の 厳しき国
言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと
目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る
日の大朝廷 神ながら 愛での盛りに 天の下 奏したまひし 家の子と
選ひたまひて 勅旨 戴き持ちて 唐国の 遠き境に 遣はされ
罷りいませ 海原の 辺にも沖にも 神づまり うしはきいます
もろもろの 大御神たち 船袖に 導きまをし 天地の 大御神たち
大和の 大国御魂 ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔り 見渡したまひ
事終り 帰らむ日には またさらに 大御神たち 船袖に
御手うち懸けて 墨縄を 延へたるごとく あぢかおし 値嘉の崎より
大伴の 御津の浜びに 直泊てに 御船は泊てむ 障みなく
幸くいまして 早帰りませ
(巻第五、八九四)
反歌(略)
天平五年の三月一日、良が宅にして対面す。献るは三日なり。山上憶良 謹上大唐大使卿 記室
冒頭十四句「……見たり知りたり」までの歌意はこうである。――神代の昔から言い伝えて来たことがある、この大和の国は、皇祖の神の御霊の尊厳極まりない国、言霊が幸をもたらす国と、語り継ぎ言い継いで来た。このことは今の世の人もことごとく目のあたりに見、かつ知っている。
七十代前半の山上憶良が、天平四年(七三二)八月に遣唐大使に任命された丹治比真人広成(*1)に対して、翌年四月の出航に際して贈った餞の歌である。題詞にある「好去好来の歌」とは、まさに無事に行き無事に帰ることを祈る歌という意味だ。しかし、ただの贈る言葉ではなかった。そこには、憶良の特別な思いが込められていた。
そこから遡ることおよそ三十年、文武天皇朝の大宝元年(七〇一)正月二十三日、三十年ぶりに遣唐使が任命された。執節使は粟田朝臣真人で、憶良はこのときに、遣唐少録として渡唐していたのである。伊藤博氏の想定によれば、一行が難波津を旅立ったのは、大宝元年五月半ばのこと。出航にあたり憶良も、柿本人麻呂から餞の歌を贈られていた。
柿本朝臣人麻呂が歌集の歌に曰はく
葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 しかれども 言挙げぞ我がする
言幸く ま幸くいませと 障みなく 幸くいまさば 荒磯波 ありても見むと
百重波 千重波にしき 事挙げす我れは 事挙げす我れは
(巻第十三、三二五三)
反歌
磯城島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ
(巻第十三、三二五四)
それぞれの歌意はこうである。
――神の国葦原の瑞穂の国、この国は天つ神の神意のままに、人は言挙げなど必要としない国です。しかし、私はあえて言挙げをするのです。この言のとおりにご無事でいらっしゃい、障ることなくご無事で行って来られるならば、荒磯に寄せ続ける波のように、変わらぬ姿でまたお目にかかることができるのだ、と、百重に寄せる波、千重に寄せる波、その波のように繰り返し繰り返しして、言挙げをするのです、私は。言挙げをするのです、私は。(三二五三)
――我が磯城島の大和の国は、言霊が幸いをもたらしてくれる国なのです。どうかご無事で行って来て下さい。(三二五四)
丹治比真人広成に餞別の歌を贈った憶良自身が、以前、人麻呂から同じように歌を贈られていたのだ。そしてこの歌にも「言霊」という言葉が使われていた。伊藤氏は、人麻呂による餞別歌と憶良の好去好来歌には、「意識や歌句の上で共通する点が目立つ。好去好来歌の『神代より 言ひ伝て来らく そらみつ大和の国は 皇神の厳しき国 言霊の幸はふ国と 語り継ぎ言ひ継がひけり云々』は、人麻呂集歌の『葦原の瑞穂の国は 神ながら言挙げせぬ国」や「磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞ』に相通じ、それを深化徹底させる面がいちじるしい」と述べたうえで、晩年の憶良が詠んだ好去好来歌について、このように言っている。
「憶良はこのみずからが送られた大宝元年の歌の記憶を底に置きながら、天平五年三月三日献上の好去好来歌を詠んだということも考えられる。みずからが無事帰着するに至った根源の言葉となったその歌を下地に歌うことは、それだけで、多治比真人広成の好去好来を実現させる効能があると考えられたのではなかろうか」。憶良は、人麻呂から贈られた歌の「言霊」という言葉を改めて詠むだけではなく、その言霊が秘めている力が発動されることを信じて、冒頭十四句を詠んだのである。
さらに、「ことだま」という言葉は「万葉集」において、このようにも使われている。作者は人麻呂である。
言霊の 八十の衢に 夕占問ふ 占まさに告る 妹は相寄らむ
(巻第十一、二五〇六)
玉鉾の 道行き占に 占へば 妹は逢はむと 我れに告りつる
(同、二五〇七)
それぞれ、このような歌意だ。
――言霊の振る立つ、八十の道辻で夕占を問うた。すると、占のお告げにはっきりと出た。「お前の思う子はお前にきっとなびき寄るだろう」。(二五〇六)
――玉鉾の立つ道、その道を行く人の言葉の辻占で占ったところ、「お前の思う子はお前にきっと逢うだろう」と、この私にちゃんとお告げしてくれた。(二五〇七)
ともに、素人が行う夕占に寄せる恋がテーマだ。夕占とは、言霊が活動する夕方、辻に立って、行き交う人の言葉の端から吉凶を占うことをいう。伊藤氏は「たとえば、ア音で始まる何らかの音声(言葉)が耳に入れば「妹は逢ふ」と決めておいて、その言葉を聞こうと辻占に立つのであろう」と推定している。
以上から、「万葉集」で使われている「ことだま」という言葉に込められた上代の人たちの心持ちも体感できたように思う。そこで、小林秀雄先生は、このように言っている。「『言霊のさきはう国』『たすくる国』を深く信じて、万葉歌人が言語表現につき、どう歌ったかは周知の事だ。これを、そのまま素直に受取らぬ理由はあるまい」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集所収、p53)。
そこで言われる「素直に受取」るとはどういうことなのか、引き続き先生が語るところに耳を傾けてみよう。「上代の人々は、言葉には、人を動かす不思議な霊が宿っている事を信じていたが、今日になっても、言葉の力を、どんな物的な力からも導き出す事が出来ずにいる以上、これを過去の迷信として笑い去る事は出来ない。『言霊』という古語は、生活の中に織り込まれた言葉だったが、『言霊信仰』という現代語は、机上のものだ。古代の人々が、言葉に固有な働きをそのまま認めて、これを言霊と呼んだのは、尋常な生活の智慧だったので、特に信仰と呼ぶようなものではなかった。言ってみれば、それは、物を動かすのに道具が有効であるのを知っていたように、人の心を動かすのには、驚くほどの効果を現す言葉という道具の力を知っていたという事であった」(同,p45)。
一方、本居宣長は、「言霊」について、どのように考えていたのだろうか。
彼が「言霊」について記している箇所は、確認できた範囲では「くづ花」と「詞の玉緒」の二作である。
まず、神代の伝説についての宣長の考えに対して、市川匡(*2)が行った論駁の書「末賀能比礼」の中で難者の匡が文字の徳を言うのに対し、宣長が「くず花」のなかで言伝えの徳を説く件である。
「文字は不朽の物なれば、一たび記し置きつる事は、いく千年を経ても、そのままに遺るは文字の徳也、然れ共文字なき世は、文字無き世の心なる故に、言伝へとは大に異にして、うきたることさらになし。今の世とても、文字知れる人は、万の事を文字に預くる故に、空にはえ覚え居らぬ事をも、文字知らぬ人は、返りてよく覚え居るにてさとるべし、殊に皇国は、言霊の助くる国、言霊の幸はふ国と古語にもいひて、実に言語の妙なること、万国にすぐれたるをや」。これを読むと、宣長は言霊について語るにあたり、音声言語が念頭にあったことがよくわかる。
もう一つは、「『万葉』の古言から『新古今』の雅言にわたり、広く詠歌の作例が検討されて、『てにをは』には、係り結びに関する法則的な『とゝのへ』、或は『格』と言うべきものがある事が、説かれ」ている「詞の玉緒」である。宣長の肉声を直に聴いてみよう。
・てにをはは、神代よりおのづから萬のことばにそなはりて、その本末をかなへあはするさだまりなん有て
・そもそも切るる所とつづく所とかはれる詞は、てにをはのととのへも又同じきは、いともあやしき言霊のさだまりにして、さらにあらそひがたきわざなりかし(以上、詞瓊綸一之巻)(傍点筆者)
・そもそも此ととのひは、さらに後の世に定めたる物にはあらず、神代の始より人の言の葉にしたがひて、おのづから定まれる物にし有ければ、ことさらに心せざれども、おのづからよくととのへりければ
・いで上ツ代よりてにをはの定まりの、正しかりけることを、くはしくいはむ、まづ古事記と日本紀とにのれる歌、長き短き合せて百八十余首ある。皆いと神さびて、今の世に耳遠き詞共おほかれども、てにをはにいたりては、古今集よりこなたのととのへと、もはら同じくて、ことなることなし(以上、詞瓊綸七之巻 古風の部)
・まづふるき文には、延喜式の八の巻に集め載せられたるもろもろの祝詞、また続日本紀などの御代御代の宣命の詞などのこれり、これらも事にしたがひ時代にしたがひて、詞のふりこそとりどりにふるめかしけれ、てにをはのととのひは、もはらことなることしなければ(同 文章の部)
ここで宣長は、「てにをはの定まり」における、いわゆる文法上の係り結びの法則について述べているだけのように見える。ところが小林先生は、「しかし」とつないで、このように続ける。「彼は、単なる文法学者として、そう言ったのではない。そういう彼の考えの中心は、これらの歌人たちは歌を詠むのに文法など少しも必要とはしていなかった、言霊の力を信じていれば、それで足りていた、そういう処にあったと言った方がよい」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集所収、p273)。
加えて宣長が、先に引いた「くず花」の一節に続けて「中古迄、中々に文字といふ物のさかしらなくして、妙なる言霊の伝へなりし徳ともいひつべし」と語っていることに続けて、先生はこう述べるのである。
「宣長は、言霊という言葉を持ち出したとき、それは、人々の肉声に乗って幸わったという事を、誰よりも、深く見ていた。言語には、言語に固有な霊があって、それが、言語に不思議な働きをさせる、という発想は、言伝えを事とした、上古の人々の間に生まれた、という事、言葉の意味が、これを発音する人々の、肉声のニュアンスと合体して働いている、という事、そのあるがままの姿を、そのまま素直に受け納れて、何ら支障もなく暮らしていたという、全く簡明な事実に、改めて注意を促したのだ。情の動きに直結する肉声の持つニュアンスは、極めて微妙なもので話す当人の手にも負えぬ、少なくとも思い通りにはならぬものであり、それが語られる言葉の意味に他ならないなら、言葉という物を、そのような『たましひ』を持って生きている生き物と観ずるのは、まことに自然な事だったのである」(同 第28集所収、p171-172)(傍点筆者)。
ここで、「言葉の意味が、これを発音する人々の、肉声のニュアンスと合体して働いている」という一文を熟視したい。それは、こんな場面を想起させないだろうか。――人がある事物に接した。例えば、野原を歩いていて一輪の美しい花が咲いているのを見た。それに情を動かされ、ある音声(言葉)を思わず発した、例えば「うつくしい」と……
宣長は、「古事記伝」一之巻「古記典等総論」でこう述べていた。
「抑意と事と言とは、みな相称へるものにして、上ツ代は、意も事も言も上ツ代、後ノ代は、意も事も言も後ノ代、漢国は、意も事も言も漢国なるを、書紀は、後ノ代の意をもて、上ツ代の事を記し、漢国の言を以テ、皇国の意を記されたる故に、あひかなはざること多かるを、此記は、いさゝかもさかしらを加へずて、古ヘより云ヒ伝ヘたるまゝに記されたれば、その意も事も言も相称て、皆上ツ代の実なり、是レもはら古ヘの語言を主としたるが故ぞかし、すべて意も事も、言を以て伝フるものなれば、書はその記せる言辞ぞ主には有ける」。
この一節を本文に引用した小林先生は、このように話を続けている。
「『古事記』の、古えよりの云い伝えに忠実な言語表現では、言わば、『意も事も言も相称』っていると言う。宣長がよく使う言葉で言えば、其処には、そういう『形』が見えるのであって、その『形』こそ、取りも直さず『上ツ代の実』と呼ぶものだ、と彼は言いたい。これは誰が工夫し、誰が作り上げた『形』でもない。人々に語り継がれて生きていくうちに、国語は、自らの力で、そういう『形』を整えたのである。何も、わが国の上ツ代の語言に限らない。何処の国の、何時の時代の語言でも、そういう『形』を取る力は自らのうちに蔵している」(同 p154)(傍点筆者)。
今一度、文中にある「自らの力で、そういう『形』を整えた」という言葉をよくよく眺めてみよう、宣長の「詞の玉緒」における語り口、例えば「おのづから……そなはりて」「此ととのひ」「おのづから定まれる物にし有ければ」という口調と共鳴しているように聴こえないだろうか。この件で、「言霊」という言葉は使われていないものの、小林先生には、その言葉が念頭にあったし、宣長の身になって、意を汲んでみればそうならざるを得ない、そんな強い確信があったように思われる。その確信は、このような言葉となって現れた。
「『古事記』註釈という廻り道」を歩くなかで、宣長が「非常な忍耐で、ひたすら接触をつづけた『皇国の古言』とは、註解の初めにあるように、『ただに其ノ物其ノ事のあるかたち(坂口注;性質情状)のままに、やすく云初名づけ初たることにして、さらに深き理などを思ひて言る物には非ざれば』、――という、そういう言葉であった。未だ文字がなく、ただ発音に頼っていた世の言語の機能が、今日考えられぬほど優勢だった傾向を、ここで、彼は言っているのである。宣長は、言霊という言葉を持ち出したとき、それは、人々の肉声に乗って幸わったという事を、誰よりも、深く見ていた。言語には、言語に固有な霊があって、それが、言語に不思議な働きをさせる、という発想は、言伝えを事とした、上古の人々の間に生まれた、という事、言葉の意味が、これを発音する人々の、肉声のニュアンスと合体して働いている、という事、そのあるがままの姿を、そのまま素直に受け納れて、何ら支障もなく暮らしていたという、全く簡明な事実に、改めて注意を促したのだ。情の動きに直結する肉声の持つニュアンスは、極めて微妙なもので話す当人の手にも負えぬ、少なくとも思い通りにはならぬものであり、それが語られる言葉の意味に他ならないなら、言葉という物を、そのような『たましひ』を持って生きている生き物と観ずるのは、まことに自然な事だったのである」。
以上のことを踏まえて、私は、このような自問自答を行った。――小林秀雄先生は、古人が事物の「性質情状」を素直に感受し、その困難な表現に心躍らすには、言霊の働きが必要だった、そのように各自が人生の「実」と信じたところが、物語として人伝えされ、育てられてきたと言っている。そこで言う「言霊の働き」とは、具体的にどういうものだったのか。例えば、古人が、ある事物に接して情を動かされ、ある音声を発した。そんな個々の経験が肉声によって語り合われ、語り継がれ、自ずと「神」という言葉が、宣長の言う「『徴』としての生きた言葉」として、「ととのひ」「定まる」。彼によれば、「古事記」の、古えよりの云い伝えに忠実な言語表現では、事物から感受した意(心ばへ)と、実際になした事(しわざ)と、表現する言が、相称った「形」をしている。このように、国語は、語り継がれて生きていくうちに自ずからそういう「形」を整えてきた。そのような力が、そこで言われる「言霊の働き」ではあるまいか。
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さて本稿の冒頭、「万葉集」のなかで「ことだま」という言葉が使われている三首を見たところで、柿本人麻呂と山上憶良の歌があった。このことについて、小林先生が触れている件がある。
(「万葉集」の編者の一人である大伴)「家持は、当然、(漢詩集である)『懐風藻』を意識したであろうが、それは、特に対抗意識を働かすというよりも、おおらかな自信を持っていたという事だっただろう。人麿と憶良を尊敬していたこの歌人の心持には、「言霊のたすくる国」「言霊のさきはふ国」という発想を生んだ自信と、同質のものがあったであろう」(同 第27集所収、p301)。
それが、「古今和歌集」の編纂者であり、「土佐日記」の作者でもあった紀貫之となると、大変相違して来る。「和歌は、彼の言うように、『色好みの家に、む(埋)もれ木の人知れぬ事となりて、まめなる処には、花薄ほに出すべき事にもあらずなりにたり』(仮名序)という次第となって、宮廷に於ける文章道の権威は、もう決定的なものとなっていた」。極端な唐風模倣という、平安遷都とともに始まった朝廷の積極的な政策により、和歌は、公認の教養資格の埒外に弾き出されてしまっていたのである。
延喜五年(九〇五)四月十八日、醍醐天皇の英断によって歌集撰進の命が下ったものの、貫之ら編者にとって「それは、もはや尋常な仕事ではなく、言わば、すっかり日蔭者になって了っていた和歌を、改まった場所に引出すという事であった。『万葉集』は序文を必要としなかったが、『続万葉集』(*3)は、撰者の好むと好まざるに係わらず、『やまと歌』の本質や価値や歴史を改めて説く序文を必要としていたのである。説き終り、勅撰を祝い、貫之は言う、『人麿なくなりにたれど、歌の事とどまれるかな』。貫之の感慨は、言霊の不思議な営みを思っての事と解していい」。
その感慨に続けて、貫之はこのように和文を認めている。――たとひ、時移り、事去り、たのしび、かなしび、ゆきかふとも、この歌の文字あるをや、青柳の糸絶えず、松の葉の散り失せずして、正木の葛長く伝はり、鳥の跡久しくとどまれらば、歌のさまをも知り、ことの心を得たらむ人は、おほぞらの月を見るがごとくに、いにしへを仰ぎていまを恋ひざらめやも。
貫之は、この歌集が後の世にも久しく残り、伝えられていくならば、歌の情趣や物事の本質を心得ているような人は、大空に浮かぶ月を見るように、歌の興った昔を仰ぎ見て、延喜の世を恋しく思うに違いない、と言っている。
ここでは、「ことの心」という言葉を熟視したい。貫之のほぼ一世代後を生きた、とある人物が、自らが創作した物語のなかで、自身のこんな物語論を主人公に語らせていた。
(物語というものは)「その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、よきもあしきも、世に経る人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に籠めがたくて、言ひおきはじめたるなり。……深きこと浅きことのけぢめこそあらめ、ひたぶるに嘘言と言ひ果てむも、ことの心違ひてなむありける」。
後半は、意味深い国史(異国の書物や「日本書記」の類)と浅はかな物語という差は、確かにありますが、物語を一途に作りごとと言い切ってしまうのも、物語の本質にそぐわない話なのです、という文意である。
その人物は、「古今和歌集」から百九十首あまりの歌を引用するとともに、「万葉集」の歌も直接間接に享受し、古人が意と事と言が相称うかたちで伝えてきた実を、物語の中に血肉化させていた紫式部である。それぞれの「ことの心」については、ひとまず「物事の本質」、「物語の本質」と訳したが、そんな一言で割り切れるようなものではあるまい。その真意については、前後の文脈を無視した短絡や深読みは避けなければならないが、貫之のそれと式部のそれには、重なり合う深意があるように思えてならないのである(*4)。
紫式部もまた貫之と同じように、蛍の巻において「ことの心」という言葉を認めたとき、言霊の不思議な営み、「いともあやしき言霊のさだまり」というものを直覚していたのではあるまいか。彼女はそこに、国語伝統が音を立てて流れるさまを、まざまざと感受し、奥深くにある物語の生命、物語の魂を、その源泉で飲んだのではあるまいか。
いや、だからこそ宣長は、式部が全身全霊を注いだ「源氏物語」の熟読によって開眼し、それと本質的には違いのない読み方で、それまで誰も読むことができなかった「古事記」を読み上げることができたのだ。「紫文要領」で語られている、彼の言葉で筆を置きたい。
「目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身に触るるにつけて、その万の事を心に味へて、その万の事の心をわが心にわきまへ知る、これ、事の心を知るなり、物の心を知るなり、物のあはれを知るなり。その中にもなほくはしく分けていはば、わきまへ知るところは物の心・事の心を知るといふものなり。わきまへ知りて、その品にしたがひて感ずるところが、物のあはれなり」。
(*1)多治比(丹比)家は、しばしば遣唐大使を出した家柄。ちなみに「万葉集」には、天平勝宝三年(七五一)、多治比真人土作(はにし)が客人を代表して入唐使に贈った餞別の歌が集録されている。――住吉(すみのえ)に 斎(いつ)く祝(はふり)が 神言(かむごと)と 行(ゆ)くとも来(く)とも 船は早けむ――船が出発する住吉の社(やしろ)の神主によれば、往復ともに船はすいすい進むはずだ、という意の予祝の歌である。ここにも、当時の人々が信じていた言霊の力が感じられる。
(*2)江戸中期の儒学者。元文五年(一七四〇)~寛政七年(一七九五)。
(*3)「古今和歌集」「真名序」によれば、「古今集」は最初「続萬葉集」と命名されていた。
(*4)竹西寛子氏が、両方の「ことの心」について考察されている(「古語に聞く」ちくま文庫、「古典日記」中央公論社)。
【参考文献】
・伊藤博「萬葉集釋注」集英社
・「本居宣長全集」第八巻、筑摩書房
・「古今和歌集」新潮日本古典集成、奥村恆哉校注
・「本居宣長集」同、日野龍男校注
(了)