山の上の家塾での「本居宣長」精読計画の中で、塾生は小林秀雄先生の文章と向き合い、熟視し、自問自答をするという経験を重ねてきた。一般的に文章は読み解くものと表現されるが、私はこの塾での体験については、文章から小林先生の肉声を聞き分けるものだったのではないかと言ってみたい。活字として固定された文字は、目で追うものに相違ない。しかし、熟視と自問自答による学びをひたむきに行ってきた塾生であれば誰しも共感してくれることと思うが、熟視対象とした小林先生の文章の一節を何度も繰り返し読んでいき、ほとんど暗誦すらできるほどその熟視対象と触れ合い続けるうちに、活字だったはずの文章はもはや声に近いものになる。小林先生が何を書いているのかがわかってくるというより、どう言おうとしているのかに耳を澄ましている、それを言おうとしている小林先生の心中に近づいていくような感覚になる。このような書き出しからこの小文を始めてみたくなったのも、これから続く自問自答の思索の中での気づきからである。その気づきとはすなわち、この塾での体験は、宣長の声に、あるいは宣長を通して我が国の古代人たちの声に耳を澄ませた、小林先生の営みの一端に触れるようなものだったのではないかという感慨である。
——さて、神という「言」の「意」という問題に直ちに入ろう。
(第三十八章、新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.77、以下引用はすべて同書による)
小林秀雄先生はこう書いて、「本居宣長」第三十八章の中盤から、「古事記」と向き合い、「古事記伝」を記した宣長とともに「神の名」をめぐって筆を進めていく。「古事記」には神の名が多く登場する。ではそもそも神とは何か。宣長は「古事記伝」の中で次のように言っている。
——何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり。
(同上)
この一節を受けて、小林先生は第三十九章で次のように言う。
——そこで銘記して置かねばならないのは、神という言葉が生きて使われていた、その現場を、はっきり想い描いた上で、宣長は、そういう物の言い方をしている、という事なのである。
(第三十九章、『小林秀雄全作品』第28集p.82)
ここで小林先生が言う「神という言葉が生きて使われていた、その現場」とは何か。前提として、完成された「古事記」はもちろん書かれた言葉であるが、そこに記されている神は、元来古代の人々が口々に声にして発していたものである。人々は文字を知る以前から、話し言葉によって「神の名」を表していた。「生きて使われていた」というのは、ひとまず「人々が神の名を声にしていた」ということと言える。しかし、この一節は、そうした外から見える部分だけを指しているのではない。宣長が入り込んでいったのは、そのように声に発して神の名を口にする人々の心なのである。このことを小林先生は、宣長が「神という字」について論じている箇所を引いた上で、次のように言う。
——「神剣」は「シンケン」であって、「カミタチ」ではない。瑣細な別と言ってはならない。言葉の使い方とは、心の働かせ方に他ならず、言葉の微妙な使い方に迂闊でいる者は、人の心ばえというものについて、そもそも無智でいる者なのだ。
(同、p.83~4)
言葉の使い方と心の働かせ方は密接している。宣長の仕事は端的に言えば「神々の名の註釈」だったが、それは外から見て分析するだけではない、その名を発する人々の心が、言葉とともにどう動いていたか、それを自ら体験することで得られた微妙なところを記すものだったと言えようか。これは宣長にとっても端的な説明ができないことだったであろうが、小林先生は、それこそ宣長の「心ばへ」に迫って、さらに精しく次のように書いた。
——上古の人々は、神に直かに触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。恐らく、この各人各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれ己れの直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。そして、この行為が立会ったもの、又、立会う事によって身に付けたものは、神の名とは、取りも直さず、神という物の内部に入り込み、神の意を引出して見せ、神を見る肉眼とは、同時に神を知る心眼である事を保証する、生きた言葉の働きの不思議であった。
(同、p.86~7)
この一節は、もはや上古の人々の体験を指すのみならず、それを追体験しようとした宣長を代弁しているとも言えるし、さらに言えば、宣長を通して小林先生自身が体得したことを表しているようにも聞こえてくる。とにかく、神に名を付けるという身体の行為を通じて、「神の意」を引き出した人々の心の内、肉眼で物を見るように神の姿を捕えた心眼がありありと描写されている。それが先の「現場」という表現に対応しているように思える。
さて、先の一節で強調すべきは、小林先生と宣長にとって「神の名」をめぐる問題は「言葉の働き」の問題であるということであろう。「心の働き」ではなく、「言葉の働き」なのだ、ということが暗に示されているように思う。そのことをより明らかにするために、一度廻り道として、宣長と、彼の師であった賀茂真淵との比較がなされる記述の中から引いてみよう。
——彼(本多注:真淵)の眼は、言語の働きそのものに向うより、むしろ、言語の使用に随伴する心の動き方を見ていた、まだまだそういうところに居た、とも言えるであろうか。
(第四十五章、p.143)
これに対して、宣長がひたすら歩んだのは「言辞の道」だった。この微妙な差について、さらに、真淵がよく使った「心詞」という語についての両者の使い方の差を見て、小林先生は次のように言う。
——「こゝろ詞」という単語にしても、使われているうちに、言わば、真淵の「歌のこゝろ、しらべ」から、宣長自身の「言の振り、格」に、その中味の重点は移っていると考えていい。
(第四十六章、p.150)
真淵が「心詞」と言う時、それは「こゝろ」や「しらべ」といったものを指すが、そうしたものを持ち出す真淵が、宣長とともに思索する小林先生には、言辞を離れて原理的なものを求め、その原理を「古事記」にぶつけて解釈しているように見えた。それに対して、言葉の「形」をしかと見て目を逸らさないで、言葉の生きた働きを感じること、もっと言えば、その言葉から肉声を聞くこと、これが宣長の態度であった。
——神の物語に、耳を傾ける宣長の態度のうちには、真淵のように、物語の「こゝろ」とか「しらべ」とかいう言葉を喚起して、物語を解く切っ掛けを作るというような考えは、入り込む余地はなかった、と言っていい。(中略)無私と沈黙との領した註釈の仕事のうちで、伝説という見知らぬ生き物と出会い、何時の間にか、相手と親しく言葉を交わすような間柄になっていた、それだけの事だったのである。
(第四十七章、p.162~3)
こうして小林先生の記述に即して、宣長を真淵と比べてみると、改めて、先の「現場」について、次のように言えよう。それは古代の人々の心の現場であると同時に、言葉と切り離して生じたものではない、言葉の不思議な活力に支えられた場所なのである。
ここまでの記述では、各人の中で起こる、神の名をめぐって言葉と心がどう動くかという問題を扱っているように書いてきたが、「言葉が生きて使われている現場」とはさらに深い意味合いがありそうだ。それを「伝説」という言葉を手掛かりに考えたい。
「神代の伝説について、宣長が非常に明瞭な、徹底した考え方をしていた事は、……」 (第四十八章、p.168)という書き出しで始まる第四十八章の途中では、「彼(本多注:宣長)が註釈者として入込んだのは、神々に名づけ初める、古人の言語行為の内部なのであり、……」(同、p.175) と第三十九章の記述の確認がなされる。「神の名」の主題が、緩やかに「伝説」の問題へと流れていき、第四十九章では次のように書かれる。
——上ッ代の伝説は、超自然の力が、真と見定められ、これが信じられたところに成り立った、という言い方をしてみる事は出来ようが、この上ッ代の人々に必至であった、広い意味での宗教的経験は、現実には、あたかも神々の如く振舞う人々の行為として、語られたのである。宣長の「古学の眼」が注がれたのは、其処であった。彼等は、基本的には、そういう語り方以外の、どんな語り方も知らなかったし、又、そういう語り方をしてみて、はじめて、世にも「怪き」「可畏き」物を信ずるという容易ならぬ経験が、身について、生きた知慧として働くのを覚えた、と言ってもよかろう。それなら、更に進んで、そのように語る事により、生活の意味なり目的なりが、しっかりと摑まれ、生き甲斐として実感されるに至ったのは、決定的な事だった、と言えよう。
(第四十九章、p.186)
このことをさらに展開させたのが次の一節である。
——「伝説」は、古人にとっては、ともどもに秩序ある生活を営む為に、不可欠な人生観ではあったが、勿論、それは、人生理解の明瞭な形を取ってはいなかった。言わば、発生状態にある人生観の形で、人々の想像裡に生きていた。思想というには単純すぎ、或は激しすぎる、あるがままの人生の感じ方、と言っていいものがあるだろう、目覚めた感覚感情の天真な動きによる、その受取り方があるだろう、誰もがしている事だ。この受取り方から、直接に伝説は生れて来たであろうし、又、生れ出た伝説は、逆に、受取り方を確かめ、発展させるように働きもしたろう。宣長が入込んだのは、そういう場所であった。
(同、p.187~8)
各人が、神と直に触れている感じを何とか言葉にし、それを「怪き」「可畏き」物として受け取る、たとえばそれが、先の引用と重ねればわかる通り、神の名であったわけだが、それらを語り合うことで、はじめ名づけようもなかった圧倒的な体験は、人々に共有されるようになる。そうして語り合われた言葉は、新たな体験に形を与える契機となる。そうした循環的な営みの中で「伝説」は形作られ、「ともどもに秩序ある生活を営む為に、不可欠な人生観」と呼べるものになっていく。このダイナミックな言葉の生きた営みこそ、宣長が推参した「現場」であった。
翻って、私たちは、小林先生と宣長の導きにより、「古事記」という形を取った「伝説」を通して、上古の我が国の人々が語り合う現場に入り込むことができるのである。それは、私たちが彼らと語り合い、心を通わせるということだ。彼らの肉声を聞こうとする努力を、どれだけ注意深く虚心に続けられるか、その難しさが私たちの生き甲斐に直結するのであろう。そう予感して、この小文を終える。
(了)