【改めて「忠臣蔵」へ】
前回、「常識」という語をめぐって思索し、ようやく「忠臣蔵Ⅰ」へ戻ってくる準備が整った。浅野内匠頭の心事の話へと帰って来よう。
――私が話を戻すのは、言葉に成りにくい彼(筆者注:浅野内匠頭のこと)の心事である。彼が、封建君主として、周囲と取結んで来た社会関係は、今まで、何んの支障もなく働いて来たのだが、ここで崩れ去った。突然崩れ去っただけで、彼が長年親しんで来た、彼の君主意識が消え去ったわけではなかったろう。しかし、それが現実の内容を失い、夢と化さんとする事に、彼が気が付かなかった筈もなかろう。彼は、無論、これに心のうちで抵抗しただろうが、同時に抵抗の空しさもよく承知していたであろう。もし、これが彼の思い知ったという事ならば、彼の心事を、封建的と呼ぶのは、おかしな事だろう。(「忠臣蔵Ⅰ」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集所収、p.229~30)
赤穂藩主という「封建君主」であった内匠頭は、勅使饗応掛として勤めることになった江戸城内で吉良上野介を切りつけ、それがゆえに処罰されることとなり、彼の封建君主としての立場は崩れ去った。切腹を命じられてその時を待つ内匠頭の意識に、小林先生は迫る。赤穂藩主であった自分、勅使饗応掛だった自分、そうした地位を基に築かれていた社会関係、それら一切はすでに現実の内容を失っているが、それでもなお彼の心事には、「君主意識」は残っているだろう、しかし、この状況をいかんともしがたい、それでも、空しいことをはっきり意識しながら、空しく抵抗したに違いないのである。
ここでさらに内匠頭の葛藤に目を凝らしていきたい。これはすでに触れたことだが、江戸時代の武士を中心とする社会を説明するものとして「封建」という歴史用語がある。小林先生もそれを踏まえて、先の引用箇所でも「封建君主」という語を使っている。この語は、それが指し示す社会制度がうまく働いているときには、たしかに分析に有効な概念であろう。しかし、切腹直前の浅野内匠頭は、封建制度から逸脱してしまったのであり、そうなった彼の心事はもはや「封建的」という語で説明しつくせぬことを小林先生は言うのである。それでもなお「封建君主」としての意識が消え去らずに残っているとすれば、肝心なのは、現在私たちが「封建」という語で説明しようとするものに囚われながら、それに従ったり抗ったりして生きた浅野内匠頭その人の姿を感じることである。それを感じるために、常識を働かせていく必要がある。
さて、内匠頭が死んだのち、家老の大石内蔵助が四十六人の浪士を率いて、吉良邸に討ち入りをした。これが有名な赤穂浪士事件であるわけだが、当時これに対して二つの反応があった。
――事件をめぐって、当時の儒者達が、内匠頭と内蔵助との行動が、正しいか不正であるかを、やかましく論じていた時、近松門左衛門は、ただこれは芝居になると考えていた。事件は、先ず何を措いても劇的であると考えていた。(同上、p.232)
事件に対する一つ目の反応は、為政者に抱えられた儒者たちのものである。改めてここで確認しておくと、当時の江戸幕府は、社会秩序の安定のために儒学、とりわけ朱子学を政治の中心に据えていた。現在の高校教科書の記述を参考として引用する。
――幕藩体制の安定とともに、儒学のもつ意義が増大した。社会における人々の役割を説き、上下の身分秩序を重んじ、「忠孝・礼儀」を尊ぶ考え方が望まれたからである。(山川出版社刊『詳説日本史研究』第23集、p.283)
この安定した社会秩序、幕藩体制は、すでに触れたとおり「封建社会」のことであり、この社会のなかで為政者と儒者は蜜月の関係にあった。そんな彼らにとって、赤穂浪士事件は儒学を中心とする秩序を揺るがすものであり、儒者たちが事件の正不正を「やかましく」論じるのも必然であったと言える。
一方で、浄瑠璃と歌舞伎の作家であった近松門左衛門は、「ただこれは芝居になる」といって反応し、実際に浄瑠璃劇を作った。そして、庶民は、その劇を見て面白がるということで反応した。近松から数十年のちに、竹田出雲は「仮名手本忠臣蔵」を作り、これは浄瑠璃のみならず歌舞伎の有名作品になり、人口に膾炙した。
思えば、「忠臣蔵Ⅰ」の冒頭は、次のように始まっている。
――文士劇で「忠臣蔵」をやった時、正宗白鳥さんが、こんな連中のやるのを、ともかく見ていられるのは不思議だな、「忠臣蔵」という芝居は不思議な芝居だな、と言った。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集、p.223)
事件直後にすでに名のある近松が、浄瑠璃作家として、より近代的に言えば文学者として鋭敏に反応したのは当然として、そこから途切れず今日に至るまで「忠臣蔵」という劇が人々の間で流行り続けた。しかし何が面白いのか一言をもって語れない。正宗氏の「不思議な芝居だな」という一言は、小林先生には、この劇に対する本当の感想であると思えた。そして、それならば、劇を作った近松の動機も、「ただこれは芝居になる」というよりほか、表現のしようのないものだったに違いないと考えたのだろう。劇作家は事件当事者たちの「言葉に成りにくい心事」を捉え、人々は劇を通じてそれを見つめた。そこには儒者のようなやかましさはない。現代歴史家たちのように外部の知識をもって分析してみるという態度は、なおさらないのである。
「忠臣蔵Ⅰ」の結語部分で、小林先生は次のように言う。
――内匠頭の心事に皆同情したが、内蔵助等の同情が最も自信あるのものであったのは言うまでもない。この自信は、復讐の情念に裏付けられていたのだが、又、思想と教養とに支えられてもいた。封建的思想或は教養が、彼等にどう経験され、生きられていたかを想像してみるのは興味ある事だ。事件に関する少しばかりの知識を応用してみたいと思うのだが、これは次の機会にする。(同上、p.232~3)
現代から見て「封建的思想」と呼びうるものは、内匠頭や内蔵助の心事を語り尽くすことができるものではないが、同時にそれに取り巻かれて彼らが生きていたということ、しかもそれは彼らの思想にも深く関わっていたものだったということもまた事実である。「封建的思想或は教養が、彼等にどう経験され、生きられていたかを想像してみる」ということが、小林先生にとって重要な関心事となり、以前書いたことを繰り返すなら、これまで各回で主題を変えてきた『考えるヒント』という連載作品は、一つの方向性を得ることになるのである。
【「忠臣蔵Ⅱ」について(一)復讐の情念】
「忠臣蔵Ⅰ」の結語部分で、「復讐の情念」という言葉が出てきたが、「忠臣蔵Ⅱ」の前半はそれを受けて、復讐に関する作品が二つ登場する。一つは菊池寛の「ある抗議書」であり、もう一つはシェイクスピアの「ハムレット」である。
まず小林先生は、「ある抗議書」の筋立てを説明する。主人公は、自分が愛する妹夫婦を強盗に殺され、その強盗が裁判所で死刑判決を受けたという状況にある。そこで主人公が思うのは、次のようなことである。
――主人公は、この時、突然はっきりと感ずる。自分が今まで日夜想い描いて来たのは、仇敵というたしかに血の通っていた極悪人であったが、今は、社会的制裁を待つ犯罪者と呼ばれる、何かしら空漠たる存在に化したと。復讐を、裁判所の手に託してみたら、何か大事なものが、脱落して了った事をはっきりと感じた。だが、彼には、それが何んであるかを言う事が出来なかった。(「忠臣蔵Ⅱ」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集所収、p.239)
そして、小説の要約を終えるところで次のように言う。
――自分は抗議する、と主人公は言う、しかし、誰に向って抗議するのか。誰が抗議に答えるのか。子供らしい抗議は空しいであろう。無論「ある抗議書」は、こんな風に分析的には書かれていない。作者は、ただ率直に、問うたのである。社会的制裁の合理性合法性が、人々の眼をかすめて、包み隠して了ったものは、一体何んであろうか、と。(同上、p.240)
もう一つの作品「ハムレット」についての記述に移ろう。デンマークの先王を父に持っていた主人公のハムレットは、父を殺し新たに王位に就いた叔父への復讐の念を抱く。これが劇の動機になるわけだが、その発端にあるのは、死んだのちにハムレットに語りかけた父の亡霊である。「ハムレット」は世界的に有名な古典の一つであり、ハムレットを一つの人物造型として表現する際に「懐疑的な人物である」というものがあるが、小林先生はそれを踏まえて次のように言う。
――ハムレットは、何んとなく人々がそう思い込むようになった懐疑派ではない。もし、彼が懐疑派なら、復讐の意味や価値について疑いを持つ事は易々たる事ではなかったか。殺したところで何になる、と。なるほど、彼は、人生の事凡て疑わしい、と言った風な事をしきりに言うが、いったん彼に取りついた復讐の情念だけは疑いはしない。疑う事も出来ない。(同上、p.240~1)
全てのことを疑ってかかるハムレットが、自らの行動にとって最も重要な動機たる復讐の情念だけは疑っていない、ということから、小林先生は、この復讐の情念が根本的に分析しがたいものであり、作者もそのことを意識していたはずだと言う。
――彼は、最初に飛んでもない事を聞いて了った男だ。これを信じ、復讐を誓ってから、人生という芝居を始めた男だ。先ず亡霊の言を信じたから、実人生がことごとく疑わしくなった男だ。作者は、復讐の重荷を負った男の悩みを、雄弁多彩に語って、誤りはしなかった。恐らく作者は、ハムレットの言行の混迷や矛盾が、復讐の念自体の暗さから発している事を、はっきりと見ていたであろう。(同上、p.241)
こうして二つの復讐にまつわる作品について語ったうえで、改めて赤穂浪士事件を並べてみたときに、小林先生はこう言う。
――いずれにしても、復讐心の根は定かならず、深く延びて、誰にもこれを辿る事が出来ない。その根は社会の成立とともに古いからだ。(同上、p.242)
復讐心の根は暗い、この言い方は、「忠臣蔵Ⅰ」の中から前回までで引用した「人の心は、その最も肝腎なところで暗い」という表現と重なる。誰も分析がかなわないが、確かにあって人間の行動や社会の成立の基盤にあるもの。復讐心はその一例である。「復讐の念は人間社会の成立とともに古い」という小林先生の考えを、率直に受け取り、先に進んでいきたい。
【「忠臣蔵Ⅱ」について(二)思想を経験してみる】
ここまで復讐の情念について語られてきた「忠臣蔵Ⅱ」は、後半部において、赤穂浪士の話に再び焦点が当たる。
――さて前置きが長くなったが、赤穂浪士の復讐事件は、日本の歴史に見られる復讐の典型的なものであるばかりでなく、比類のないものでもあるので、復讐というものに関し、この程度の事は予め考えて置かないと、これに近付き難いと思ったからである。(同上、p.243)
赤穂浪士の事件を「典型的」であると同時に「比類ないもの」だと小林先生は言う。復讐の典型とはすなわち、すでに見たように、人類の歴史とともに古い復讐の情念が、そのことを忘れたような秩序ある社会体制の中で突然噴き出し、その存在を誰も疑えないといった意味合いに取れる。では、比類のなさとは何か。
――仇討というものは、普通、血族中の或るものの為に、私怨を晴すのが目的で行われたものだが、赤穂浪士の仇討となると、まるで様子が変って来て、他に類例のない主君の為の仇討となる。(中略)感情の爆発というようなものでは決してなく、確信された一思想の実践であった。(同上、p.243)
この「一思想の実践」ということを小林先生はさらに別の言い方で次のように言う。
――ことに、この復讐事件では、当事者達の思想と行動とは一つのものであった。「忠臣蔵」が演じられる以前に、その現実の素材は、素顔の名優達によって名演されたと言える。(同上、p.244)
非合理的な精神の最たるものである復讐の情念が、確かな思想とそれに基づき統率の取れた行動として表現された。赤穂浪士事件の特異性、比類なさはそこにある。
ここで、先に引いた「忠臣蔵Ⅰ」の結語部分の一節、「(内匠頭に対する同情についての、内蔵助の)自信は、復讐の情念に裏付けられていたのだが、又、思想と教養とに支えられてもいた」という表現が思い出される。内蔵助を事件に駆り立てたのは、復讐の情念という、ある意味で人類普遍とも言える感情であったに違いない。しかし同時に、復讐は、思想の実践という形式で敢行された。この意味はもっと掘り下げて考えたい。そのために、あえて私は「思想とは何か」という問いではなく、「思想の実践とは何か」と問うてみたいと思う。前者の問いは、間違えなければ、的確な答えを導き出せるかもしれないが、思想ではなくイデオロギー、すなわち人間の外部にあってその内実を虚ろにした観念に行き着いてしまう恐れがあるからである。小林先生は次のように言う。
――徳川の平和時代となっては、武士とはまことに厄介な戦国の遺物となった。徳川幕府の維持しようとした政治秩序とは、戦国の群雄割拠の状態を、そっくりそのまま固定した封建制の秩序であり、乱世の権力主義を、そのまま受け継いだ政治組織の下に、平和社会の秩序を保とうとしたものだ。武士が、御用儒学者によって、武士道という不自然な義務を負わされたのも、元はと言えば、この矛盾から来ている。これは歴史家の好む考え方であるが、歴史を分析して、歴史の矛盾を得たところで、別段自慢にもなるまい。矛盾のない歴史などというものがある筈はないからだ。私は、文学者の習癖に基き、矛盾が、実際に、どう生きられ、どう経験されたかを想像する面倒を好む。(同上、p.246)
安直に「武士道」と言うとき、それはイデオロギーである。これを封建思想などと言い換えてみてもよかろう。武士道とは、時代と社会の矛盾から生まれたのだ、と言ってみることは易しい。しかし、私たちが真に目を凝らすべきは、矛盾そのものではない、矛盾を意識しながら生きざるを得なかった人の方である。それを受け入れざるを得なかった意識的な武士たちは、武士道という矛盾を生きてみたのである。
――武士道とは、武士が自らの思い出を賭した平和時の新しい発明品なのであって、戦国の遺物ではない。自己を遺物と観じて誰も生きられたわけがない。彼等は、実在の敵との戦いを止めて、自己との観念上の戦いを始めた。彼等はかつての自然児が知らなかった苦しみ、思想を経験してみるという不自然な苦しみを知ったのである。(同上、p.247~8)
武士道を、それを抱えて生きざるを得なかった武士たちの姿をありありと浮かべて言い直してみるとき、それは単にイデオロギーとは言えない新しい深みを帯びる。外から与えられたイデオロギーも、それを受け入れながらも戦い、苦しみながら生きていくことができる。それが、思想を経験してみるということである。内蔵助の、内匠頭に対する同情は、最も自信のあるものだったと小林先生が言ったのは、同じ苦しみを黙して共有しているという自信が彼らにはあったはずだということではないか。
――何んであれ、人のして了った行為を、傍人が溯って分析すれば、自動人形のからくりの他に何が得られるだろうか。率直に、この老人の置かれた状態に身を置いて思えば、何か恐ろしいものがはっきりと見えて来るだろう。不自然なもの、自然の性情に逆らうもの、逆らわなければ生きて行かれぬ思想というものの裸の姿が見えて来るだろう。(同上、p.248)
内蔵助は、後世の歴史家のような「傍人」としてではなく、死を待つばかりの内匠頭の心事に迫ったはずだ。そこではっきりと見えてくるのは、「何か恐ろしいもの」であった。主君と忠臣は、武士道という思想を経験してみた同士である。その姿は感得できたに違いない。そして、内蔵助が思い知ったのは、その恐ろしいものが、自らの生にも存在しているということであった。思想と自らの命とが、分かちがたく触れているということであった。
【歴史に身を投ずること、歴史が皮膚に触れること】
ところで、ここまで書いてきて、私にはある一つの対話が想起された。小林先生が河上徹太郎氏と交わした対談「歴史について」である。河上氏が自らの祖父について書いた経験に触れたところで交わされた、以下の対話に耳を澄ませたい。
小林:君の言いたいのは、歴史と歴史の海のなかに浸かっている自分というものは、極度にしたしい関係にあるということじゃないかな。歴史という実在との一種の接触感を、僕らは生き甲斐という言葉で呼んでいるのではないか。たとえば、君がお祖父さんの歴史を書くことは、お祖父さんの生き甲斐のなかに身を投ずるということだろう?
河上:そう。そうなると、僕はもう自分が生きているんじゃなくて、お祖父さんが生きているんだ。
小林:君はもうお祖父さんになっているわけだよ。
河上:なっているんだよ。こっちの意志で導ける歴史というもの、そんなものはないんだよ。――今、僕は風邪をひいて、一週間皮膚がぞくぞくしている。この皮膚のぞくぞくみたいなものが、歴史なんだよ。外の空気が、こう皮膚に触れるんだよ。歴史は、僕の身体に連結している、自分の頭脳の任意になるものではない。
小林:うん……。(「歴史について」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収、p.320~1)
私には、小林先生の「(故人の)生き甲斐のなかに身を投ずる」、河上氏の「外の空気が、皮膚に触れる」という表現は、「忠臣蔵Ⅱ」の言葉で言えば、「文学者の習癖」、すなわち「矛盾が、実際に、どう生きられ、どう経験されたかを想像する面倒を好む」ことが極まったところで生まれたものに思える。
内匠頭と内蔵助の心事に迫るということを、小林先生は実践してみた。それは、彼らが思い知ったことを、自らも思い知ろうと試みることにほかならない。その体験を言語によって結論づけることはできないだろう。しかし、彼らが経験し生きていたのは、言語が織りなす思想の世界だったのである。彼らの経験はいかなるものであったのか。「忠臣蔵Ⅱ」は次のように終わる。この一節を借りて、本稿も次へと繋げたい。
――彼等に言葉を供給したのは儒学であった。この問題も錯雑したものだが、又の機会にしよう。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集、p.250)
(つづく)