契沖と熊本Ⅸ

十八、若き光圀

 

ここで改めて、契沖と徳川光圀との間に深い親交があったことに触れておきたい。第一章でも紹介したように、契沖の最大の功績と呼ばれている著作が「万葉集」の訓詁くんこ注釈書である「万葉代匠記」(初稿本・精撰本)である。今でも、契沖より前の時代の注釈は旧注、彼以後の注釈が新注と呼ばれていることからも、その画期性と影響力は推して知るべしである。その書を契沖に依頼した張本人こそ、光圀であった。詳しくは後述するが、当初光圀は、契沖の親友である下河辺しもこうべ長流ちょうりゅう(*1)に委託していたのだが、長流の事情で続行不能となったため、長流に代わって筆をとることになったのが契沖だったのである。その書名に「代匠」とあるのは、長流の代わりにとも、光圀の代わりにという意味とも言われている。古典をきちんと整理したかたちで後世に引き継いでいきたいという光圀の意思は極めて強かった。例えば「万葉集」の研究以前にも、広く収集してきた、平安から江戸時代初期までの古典から、秀逸と思われる序文、跋文、日記、紀行などを三十巻の一書にまとめ「扶桑拾葉集」として幕府や朝廷に献呈していた。

 

 

さて前章では、光圀と熊本藩の三代藩主細川綱利つなとしとの交流に浅からぬものがあったとも述べたが、光圀にとって熊本という地は、より本質的に重要な場所の一つであった。そのことを理解するためには、光圀の生い立ちや、彼が人生いかに生きるべきかと、一心に追い求めたものを体感しておく必要がある。

光圀は、寛永五年(一六二八)六月十日、水戸城下で生まれた。父は水戸藩初代藩主の徳川頼房よりふさ、母は父の側室久子である。頼房は家康の末子であるため、光圀は家康の孫となる。ちなみに誕生の場所は、水戸城内や江戸藩邸ではなく、家臣三木之次ゆきつぐ邸であった。これには仔細がある。当初父の頼房は、「第一の寵妾ちょうしょう」おかつの存在に配慮して「破胎」を命じていたのだが、三木夫妻の深い配慮によって、このような取り扱いがなされていたのである。このことは、のちに光圀自身もよくよく認識していたようだ。

なお光圀の同母兄頼重よりしげも、同様に三木夫妻の手元でひそかに生れているが、久子が正式に側室として採用される以前の懐妊であったため、京都の寺院へ入れられていた。

寛永十年(一六三三)、六歳の光圀は、頼房の世子せいし(世継ぎ)として江戸に出て、小石川の水戸藩邸に入った。同十三年(一六三六)七月には、将軍家光の命により江戸城中で元服、家光の偏諱へんき(*2)をいただき光国(のちに、光國)と名のった。ちなみに、翌十四年、十六歳になっていた兄の頼重は、頼房との父子関係が公式に認められ、十六年には常陸国下館五万石の城主に、十九年には高松十二万石の地に封ぜられている。

同十七年、十三歳の光圀は、右近衛権中将に任ぜられ、従三位に昇進。この年から光圀には、(補導役)として、頼房重臣の伊藤友玄ともはる玄蕃げんば、小野言員ときかず、内藤高康の三名が任じられた。しかしながら、十六、七歳頃まで、光圀の生活態度は決して褒められたものではなく、むしろ品行不良という方が相応しい状況だった。

小野言員が光圀の日ごろの不行跡をいさめるために記した「小野諫草かんそう」や光圀侍医の井上玄桐げんとうによる「玄桐筆記」によれば、不良ぶりは身なりや態度に著しく、「ごんごだうだん(言語道断)のかぶき人(軽薄・異様な風体の者)に御ざ候」という周囲の評判が立つほどであった。例えば小野は、光圀をこのように厳しく諭している。「御かとく(家督)になされ候、水戸様の御めがね(眼鏡)さすかにてと、人〃申やうに御身を御もちてこそ、後かうかう(孝行)の第一にて御さ候へ」。平たく言えば、兄の頼重公を差し置いて水戸藩の世子にしてくれた父頼房公はさすがの慧眼だと人々に言われることこそ、一番の親孝行ではありませぬか、というところだろうか。

しかしながら、そんな奔放な光圀の思春期にも転機が訪れた。鈴木暎一氏によれば、「十七歳のころから、父の命とはいえ、自身の置かれている立場(坂口注;兄の頼重ではなく弟の自分が世子となったこと)にこれでよいのだろうかと強い疑念を抱くようになり、自覚的に『学問』に精出すようになった十八歳のとき、『史記』の『はく伝』を読んで感銘し、兄に世子を譲りたいと考えたものの『時勢ナリカタク』、兄の子を養子に迎える決意を固めるに至った」のである。

「史記」とは、前漢の司馬遷しばせんの撰によるもので、伝説以来の帝王を扱う本紀、年表などの諸表や制度を扱う書、諸侯を扱う世家、個人を扱う列伝の計一三〇巻からなる総合史である。この形式が紀伝体(*3)と呼ばれ、「漢書」以下の正史や周辺諸国の史書に承継されている。「伯夷(列)伝」はその冒頭にある、いんの諸侯、弧竹国王の子、伯夷としゅくせいという兄弟の物語だ。

国王は、弟の淑斉を世子にとねがいながら亡くなった。淑斉は固辞するも、兄の伯夷も引かず姿を消した。淑斉もそのあとを追って国を去る。二人は、周国の西伯昌せいはくしょうが徳の高い名君と聞き、当地へ入った。しかし、西伯は没したばかり。これを機に息子の武王は、位牌を車に載せていん国のちゅうおうを討つべく進軍した。二人は武王に対し「父の葬儀も行わないまま、家臣の身で主君を討つことは仁か?」と責めた。武王は二人を亡き者にしようとしたが、軍師の忠言に助けられ、兄弟は難を逃れる。その後武王は殷を滅ぼし、周国の天下となる。しかし二人は武王のふるまいを恥として、周国に仕えて録をむくらいなら……と、山に籠り野草で露命をつないだ。しかし天命は尽き、餓死してしまう。

この物語を、若き光圀はどう読んだのか…… 自らの境涯も踏まえ、「人生いかに生きるべきか」という問いを、胸元に突き付けられたのではないか。しかし、突き付けられたものは、家督に関することだけではなかった。この読書体験を契機として、わが国における、「史記の体」すなわち紀伝体による史書編纂へのきわめて強い関心が呼び起こされることになったのである。

六十八歳の光圀が、京都の遺迎院応空おうくう和尚に宛てた書簡がある(元禄八年(一六九五)十月二十九日付)

「下官十八歳の時分より少々書物を読聞申候、其時分より存候は、本朝に六部の国史古来之有候へ共、皆々編集の体にて史記の体に書き申候書之無候故、上古より近代迄の事を本紀列伝に仕、史記の体に編集申度存立、四十年以来方々才覚仕候て本朝の旧記共集申候へ共……」

六十年前の読書経験を振り返り、わが国には古来より六国史(日本書記、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録)はあるが、すべて編年体で書かれていて、「史記」の体である紀伝体のものは皆無である。ならば自分こそが、上古から近代までのことを紀伝体で書いてみたいと思い立ち、四十年前から資料を収集してきた……という内容が明瞭に記されている。

人生いかに生きるべきか…… 確たる指針を我が物とした光圀は、日夜古書を読み、直接古人に向き合った。暇さえあれば、和歌を詠み同志の友を求めた。和歌については、正保二年(一六四五)、十八歳の年に、当代の人が詠んだ和歌を一巻にまとめて「笑々和歌集」と名付けている。光圀が記した序によれば、「万葉集」や「二十一代集」(「古今和歌集」から「新続古今和歌集」まで、約五百年間に編纂された勅撰和歌集)として先人が遺してくれたがゆえに、過去の名歌が今の時代にも生き続けている。当代の名歌も収集し引き継いでいかなければ、後世では顧みられなくなってしまう…… という強い使命感から自ら編纂したものである。

学び進めたのは、和歌ばかりではない。光圀の書斎は日新斎と名付けられていた。日新とは、『書経』『易経』などに頻出する言葉で、日々工夫をこらして誤りを正し、徳行を新たにする、という意だ。そんな意欲に燃えた光圀が追究した学問は、儒学の基本文献である四書五経(*4)の文義を悟得して「人倫の大義」を明らかにすることであった。但し、それは抽象的観念的な理論の操作でも、字句の細かな解釈や耽読のみの閑人の遊戯でもなかった。光圀が手製の書架に「人の人たるは腹に詩書あればなり、学の学たるは身道徳を行へばなり」と明記したように、学問とは自身が道徳を行うためのもの、すなわち、身を修め、正しい道を踏み進めるためのものであった。

承応三年(一六五四)、二十七歳の光圀は、前関白近衛このえ信尋のぶひろ(後陽成天皇の第四皇子)の末娘、十七歳の泰姫たいひめ(*5)と結婚が相成った。後に光圀に仕えた安藤年山(為章)が記した「年山紀聞きぶん」には「御生質の美なるのみならず、詩歌をさへこのみ玉ひて、古今集、いせ物語はそらにおぼえ、八代集(*6)、源氏物語などをよく覚えたまひしとぞ。また三体詩(*7)をも暗記したまひけるとぞ」とある。泰姫は、公家の息女として申し分のない教養を身に付けており、文学を愛していた光圀とって最高の伴侶だったのではなかろうか。二人の和歌のやり取りや、光圀による漢詩の添削のあとも残されていて、妻と過ごした穏やかな時間は、かけがえのないものだったように思われる。

 

十九、人間万事またかくの如し

 

明暦三年(一六五七)、光圀は三十歳となる新春を迎えた。ところが、松の内が明けた一月十八日、強風が吹くなかで、本郷丸山の本妙寺(現在の本郷三丁目駅の北西側付近)から出火した火の手は、湯島、神田、日本橋方面に広がり、夕方には、茅場、八丁堀付近まで焼き尽くした。翌日も延焼は止まず、正午ごろには小石川伝通院近くの武家屋敷から再び出火、水戸藩邸を焼いたあと、火は江戸城にも及んで天守閣も焼け落ちた。その被害は、本丸、二の丸、三の丸はじめ諸大名の邸宅五百軒、神社仏閣三百余、倉庫九千余、町数八百町に及んだ(「徳川実記」)。いわゆる明暦の大火である。

彼は、その時のことを和歌の詞書に残していた。「火いてきて風にふ(吹)かれゆく程に、郭内にありとある上中下のいらか(甍)ともことこと(悉)くや(焼)けうせぬ、われも煙のうちをのか(逃)れたと(辿)り行くままに、神田といふところの別墅べっしょに日を送る」。藩邸の消失後は、父頼房らと駒込(神田山、本郷台地)の別邸に避難、知り合いから生活物資などの援助も受けて暮らした。もう一つ、こんな漢詩もしたためていた(以下、読み下し)

きのふは玉楼金殿の観をさかんとし 今は原上一時の塵と成る 人間万事またかくの如し 年少驚くなかれ 老いていたらんと欲するを」

これらの言葉の真髄は、光圀の体の奥深くに刻み込まれたようで、後年の彼の行動まで大きく左右することになる。

それから間もなく、制作した詩文の批評を受けることも含めて、親交の深かった林羅山(*8)が、大火で莫大な蔵書を失って数日で亡くなってしまうという出来事もあった。約一年前には、若き光圀を指導役として、温かくも厳しく導いてくれた小野言員ときかずも亡くしており、彼の心の震幅もまた大きいものであったに違いあるまい。

胸中深くにあった存念に、ここぞという強烈な閃光を浴びせられた人間の動きは、迅速である。大火から、ほんの一ヶ月余りという二月二十七日、光圀は、駒込の別邸内の焼け残った茶屋を史局として開設、宿願となっていた歴史書の編纂、すなわち修史の事業の第一歩を踏み出した。史局員には、以前から指導を受けてきた人見ひとみ卜幽ぼくゆう、辻端亭たんていら四名が任命された。当初卜幽らは、資料の乏しさなどから修史の計画には必ずしも前向きではなかったようだが、光圀はそれを許さなかったと言われている。鈴木暎一氏によれば、大火で失われた書物には、幕命で羅山が中心となって編纂し将軍に献上していた、編年体による国史「本朝編年録」呈上本(*9)も含まれていた。

そんな光圀を、焦燥の念にかられていたと見る鈴木氏は、のちに光圀に仕える井上玄桐が記した「玄桐筆記」にある一節を紹介している。

(坂口注;光圀公が)常に仰られけるハ、堂上方どうじょうがたの習にて珍書を門外に出さず、是以あるひハ蠧損とそん、あるひハ火燬かきして烏有うゆうとなり、上代の遺事、古賢の懿蹟いせきとも後世に伝はらさる事皆是故也。我志は継往開来に在り、つとめて布拡へし。たとひ災変ありとても、関東・関西両地に蔵置きなは一方ハ伝へしとて、諸家よりご所望有に随而少も御秘惜ひせきなく御許借きょしゃくなされたり」。

光圀公はよく、こう仰っていた。「高位のお公家さんたちは、希少な書籍を門外不出とするのを常としている、しかしそれでは虫害や火災によって消失の憂き目に遭い、上代の歴史や古人の事績が後の世に伝わらなくなってしまうことになる。自分は、継往開来、すなわち先人の業績を継承し未来を創造していくことに努めたい」と。「関東と関西のどちらにも蔵を置いていれば、一方は必ず後世に伝えられるものだ」と言って、各方面から書籍の借覧依頼が来たときには、秘蔵することなく貸し出されていた、というのである。

十八歳の頃に抱いた、上古から近代にわたる先人たちの事跡を、編年体ではなく紀伝体でこそ書いてみたい、次の世に継いで行きたい、という強いねがいいは、自らが災変の火中に立たされたことによって、今まさに頂点に達していたのである。

そしてまた、新たな災いが光圀を襲う。同年五月下旬に光圀が、さらに八月初旬からは泰姫たいひめから尋子ちかこに改名していた夫人が体調を崩してしまった。大火後の心休まる暇のない生活は、若い二人にとって、想像以上のダメージとなっていたのだろう。

それでも光圀自身は、なんとか七月に快復することができた。しかし尋子は一時的に回復をみせたものの、翌万治元年(一六五八)に入り病状は悪化の一途をたどった。十月からは下痢が止まらず、ついに赤痢と判明した。光圀の治療にもあたった医師らが幕府から派遣されたが、なすすべはなく、十二月二十三日に息を引き取った。二十一歳だった(*10)。辞世が遺されている。

 をと(音)にのミ き(聞)きしをけふ(今日)は 身のうへ(上)

 わ(別)けやのほ(登)らん して(死出)の山道

 

最愛の妻の、こんな言葉を聴くことになった光圀の心境は、察するに余りある。

災厄続きの年が明けた万治二年(一六五九)の元旦、光圀は亡き尋子に「祭文」を捧げた。その一部を、鈴木氏による読み下し文で引いておく。

ものかはり、年改まれども、我がうれひは移ることなし。谷のうぐいす百たびさえづれども、我れ春なしと謂はん。去年の今日は対酌してさかづきを挙げ、今年の今日は独り坐して香を上る。嗚呼哀しいかな。幽冥ゆうめいとこしへに隔つ。天なるか命なるか。ただ霊来りいたれ」。

「我れ春なし」「独り坐して香を上る」……。そんな言葉を眺めているだけでも、胸が締めつけられる。祭文を綴りながら、この世とあの世の隔たりを、彼は痛いほど感じていたに違いない。

 

二十、彰考館誕生

 

寛文元年(一六六一)六月、光圀の父である水戸藩主頼房は、よう(皮膚の炎症疾患)を患い、進行の速さに抗しきれず七月末に亡くなった。葬儀は、光圀の意思によるものか、儒礼によって行われ、亡骸なきがらは久慈郡随留村(現、茨城県常陸太田市)の墓所に埋葬された(*11)

八月十九日、光圀は将軍家綱の命により、新たな水戸藩主として父頼房の遺領を継いだ。ちなみに、このとき光圀は、高松藩主となっていた兄頼重に対して、頼重の子松千代と采女を養子としてもらい受けることを強く要請している。兄ではなく自らが後継ぎとなったことについて「年来心に恥申し候」という言葉が残されているように、若いころ「史記」の「伯夷伝」を読んで心動かされた経験が、ここでも大きく作用したように思われる。

さらに同年十一月、光圀の生母久子が、頼房のあとを追うようにして逝った。

このように、公私にわたり心落ち着かない時を過ごしていたと思われるなか、宿願である修史編纂の事業も徐々に進み始めた。鈴木暎一氏によれば、寛文三年(一六六四)に五人であった史局員は、四年に七人、五年に九人、六年に十二人、七年に十六人、八年には二十人へと拡大していった。具体的な成果も現れた。ついに寛文十一年(一六七一)には、神武天皇から桓武天皇にいたる本紀二十六冊の草稿が、光圀の閲覧するところまできたのである。史局開設から十四年、光圀も含め史局員一同の努力の結実であった。

 翌十二年(一六七二)の春、光圀は、それまで駒込別邸内の焼け残りに設けていた史局を、小石川本邸内に移し、「彰考館しょうこうかん」と名付けた。「彰考」とは、中国西晋の杜預とよによる「春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん」序にある「彰往考来」、すなわち過去を明らかにして将来行うべき道を考える、という言葉から採られた。まさに光圀がわが使命と誓った、人生の指針そのものを指している。ちなみに彼は、同様の趣旨を表わすものとして「興廃継絶」という言葉もよく使っていた。すたれるをおこし、絶えたるを継ぐ、という意だ。さきに引いた「継往開来」という言葉とも同意である。彼は自らその志を全うすべく生きるのみならず、そのように生きている人もまた、心から賞賛していた(*12)。このような態度は、その後の人生においても一貫して変わるところはなかった。

なお、当時の史館員には、前出の人見ひとみ卜幽ぼくゆうの養子懋斎ぼうさい、吉広菊潭きくたん(元常)、板垣聊爾りょうじ宗憺そうたん、中村篁渓こうけいらがいた。幕府の儒官を務めてきている林家(羅山、鵞峯)とゆかりのある人物が多かったようだ(*13)

新しい館には、自ら揮毫して「彰考館」という扁額を掲げた。その傍らには、五ヶ条の「史館警」という訓示も記した。そこには、こんなくだりがある(以下、読み下し)

「文を論じ、事を考ふるには、各々まさに力をつくすべし。もし他のばくする所有れば、則ち虚心に之を議し、独見を執ることなかれ」。

第三者からの批判は喜んで受け入れ、虚心に無私に議論を尽くそう、そんな心構えである。もちろんそのためには、全国各地に散在しているはずの関連資料をさらに広く収集することが必須だ。まさに、志を同じくする新しい仲間が必要となっていた。

 

 

(*1)寛永元年(一六二四)~貞享三年(一六八六)。国学者、歌人。著作に「万葉集管見」など。

(*2)将軍や大名が、臣や元服する者に自分の名の一字を与えること。

(*3)紀伝体に対して、もう一つの歴史書編纂のスタイルは編年体と呼ばれ、出来事が生起した順に記述していくものを言う。

(*4)「四書」は「論語」「大学」「中庸」「孟子」、「五経」は「易経」「詩経」「書経」「礼記」「春秋」を言う。

(*5)明暦二年(一六五六)に尋子(ちかこ)と命名された。

(*6)平安初期から鎌倉初期までの「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」「後拾遺和歌集」「金葉和歌集」「詞花和歌集」「千載和歌集」「新古今和歌集」を言う。

(*7)中国、唐代の詩の選集。編者は南宋の周弼(しゅうひつ)。

(*8)江戸初期の儒学者。徳川家康以後四代の将軍に仕え、幕府の文書行政に携わった。天正一一(一五八三)~明暦三(一六五七)。

(*9)正保元年(一六四四)の呈上本では神武天皇から持統天皇までで、その後は林読耕斎が文武天皇から淳和天皇までを書き継いで翌年に献じていたが、未完のままであった。

(*10)「水戸紀年」では二十三歳。

(*11)その後水戸徳川家代々の墓所となり。瑞龍山と言われている。現在は内部拝観不可。

(*12)例えば、光圀が二十三歳のときに亡くなった尾張の敬公(義直)を偲ぶ詞に、「更に朝儀を考へ、善く図史を読み、廃れるを興し、絶えたるを継ぎ、道の弛みを張皇し、聖殿を経営す」と述べ、元禄元年(一六八八)綱吉将軍が、忍岡の孔子廟を拝したことを賀した文には、綱吉を讃えて、「道を学び風を移し、廃れたるを起し、絶えたるを継ぐ」と言っている。

(*13)寛文二年(一六六二)十月、林鵞峯に、未刊の「本朝編年録」を完成させる旨幕命が下り、鵞峯は寛文十年(一六七〇)、ついに「本朝通鑑」(全三一〇巻)として完成、将軍家綱に献上した。

 

 

【参考文献】

・鈴木暎一「徳川光圀」(人物叢書、吉川弘文館)

・名越時正「水戸光圀」(日本教文社)

 

(つづく)