第三十章上「宣長と新井白石」
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小林秀雄先生の「本居宣長」第三十一章は、次のように言われて始まります。
――さて、ここで話の方向を変えよう。「古事記」は、文学としては、興味あるものだが、歴史として、信用するわけには参らない、今日では、そう考えるのが常識となっている。だが、「古事記」の神代之巻の荒唐無稽な内容は、近世に這入ると、もう歴史家達を当惑させていたのである。「大日本史」が神武に始まっているのは、周知の事だが、幕府の命で「本朝通鑑」を修した林家にしても、やはり、先ず神代之巻は敬遠して、その正編を神武から始めざるを得なかった。……
「大日本史」は江戸時代の明暦三年(一六五七)、藩主、徳川光圀の命によって水戸藩で編纂事業が開始され、二五〇年後の明治三九年(一九〇六)、全三九七巻となって完成した大部の歴史書です。第一代と伝えられる神武天皇から第一〇〇代後小松天皇までの歴史が漢文の紀伝体で編述されていますが、神功皇后、すなわち記紀に見えている仲哀天皇の皇后を皇位から除き、第三八代天智天皇の第一皇子、大友皇子を第三九代弘文天皇とし、朝廷の皇統が南朝と北朝とに分裂して対立していた南北朝時代(西暦一三三六~一三九二)は南朝を正統とした筆づかいは三大特筆と言われ、こういう朱子学に拠った大義名分論を前面に出した「大日本史」にあっては「古事記」の神代までは棚上げされて「古事記」「日本書紀」が第一代天皇と伝える神武天皇の時代から始められていることも広く知られていましたが、こうした「大日本史」の有様については小林先生自身が本篇の結びで精しく考察しています。
また「本朝通鑑」は徳川幕府の命によって林羅山と林鷲峯が共編した修史書で、最終的には儒教的合理主義の立場で神代から慶長一六年(一六一一)までの歴史が漢文編年体で記されています。
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そしてさて、第三十一章の準主役とも言える新井白石の登場です。小林先生は言います、
――このような時世にあって、新井白石がただ一人、歴史家として、この問題を回避せず、正面からこれに取組んだ(「古史通」「古史通或問」)。彼は、はっきりと、こう言う、――「旧事紀古事記日本書紀等の書は、みなこれ朝廷の勅旨(勅命の趣旨/池田註記)に係りて、我国上古神世より始て、歴代君臣の事業を記載せられし所也。されど其しるされし所にはおのおの異同ありし事、孔子春秋の書を伝ふるものゝ、其説に異同ある事のごとし。さらば専ら日本書紀の説にのみしたがひて、旧事紀古事記等の書を廃せん事然るべからず。たゞいづれの書に出し所なりとも、其事実に違ふる所なく、其理義におゐて長ぜりと見ゆる説にしたがふを、稽古の学とは、いふべきものなり」(「古史通」読法・凡例)、――白石が、「旧事紀」を「記紀」と同列に評価していたという事はともかく、これらは皆わが朝廷の「歴代君臣の事業」を記した実録であって、神代の記録があるからと言って、これを敬遠したり、神典(神のことが記された書物/池田註記)扱いにしたりする理由はないという考えは、当時としては、まことに大胆なものであった。……
「旧事紀」は「旧事本紀」のことで、『精選版日本国語大辞典』に「平安前期の歴史書。一〇巻。著者未詳。神代本紀、陰陽本紀以下一一に分け、神代から推古天皇までの天皇の事跡を述べたもの。」と言われ、「稽古の学」は、同じく、まず「稽古」について「古(いにしえ)を稽(かんが)える」の意とあり、次いで「古事を考えて、物事のかつてあったあり方とこれからあるべき姿とを正確に知ること。」と言われていますが、白石の言葉は続きます。
――「旧事紀古事記なども、秘説有レ之様に申候へども、よく料簡仕見可レ申候。此二書などは、史記漢書同格の史筆にて御座候。其史文と申ものに、何等の神秘可レ有レ之哉。或祓又は祝文など申は、神道口訣の沙汰も可レ有二御座一候。能上古中古今古三代の雅言俗言五方の方言をよく弁候時は、分明罷成候。上古の言語格類を以て究候へば、古事記之文段も下坂の丸のごとくに相済申ものに御座候」(「名山蔵手簡附録」)……。
これを受けて小林先生は言います、――秘説と見るのも史書と受取るのも、こちらの料簡次第であり、古言も弁えず、読み方に関する工夫もなく、稽古の学は無理だというのだ。白石もわが上代には文字なく、漢字を使って国文を作る困難、安万侶の「於レ字即難」云々の「古事記」序の言葉に注目し、上古の記載では、「其義を語言の間に求めて、其記せし所の文字に拘はるべからず」(読法)と言っている。これは宣長と同じ考えであるが、それから先きが、まるで違って来るところが面白いのである。……
――「太古朴陋の俗、いづれの国にかなかるべき。異朝の書にいふ所の盤古氏、大荒の世に生れて、其頭四岳となり、其眼日月となりしといふ事のごとき、女媧氏石を錬りて、天を補ひ、鼇を断て、四極をたてしといふことのごとき、みな是我国にして、太古の時の事を言つぎ、語嗣しに相同じ。鴻荒の世、聖人不レ取といひし事は、たゞに其説の荒誕なるためにもあらず。其疑ひを闕き給ひしが故也。(中略)旧事紀に見へし所も、有が如くなきが如くなる事のみ多くて、僅に覚めぬる人の、その見し夢を説くに似たる事ども、世の人の言嗣し所の、隠れたる顕れたる、其異同あるまゝに記し置れしは、その疑を伝へられしと見へたり。日本書紀にも、またこれによられて、諸説を雑記され、其用捨に至りては、後世の君子を俟れしとは申す也。然るを、後の其説をつくれる人々、目前の事を論ずるごとくに、尽くしらずといふ所なきに至りてやむ。いと心得がたき事なり」(読法)。――敏感鋭利な白石という人の面目がよく現れている文だが、彼の研究の、少くとも基本の態度はこれで明瞭だろう。それは、神代の記載をそのまま受取ってはならぬという考えである。そのまま受取るから、荒唐無稽と、これを否定し去るか、秘説と解して、これを肯定するかの、二つの道しかない事になるので、そのように粗忽性急なことであっては、歴史研究は覚束ない。歴史家は、あの誰も知る、「多ク聞キテ、闕クレ疑ハシキヲ」という君子の慎重な態度を学ぶべきであり、そういう態度をしっかり決めれば、記載文から「太古朴陋の俗」が透けて見えて来るであろう。「朴質の言」が、其処から発しているとわかれば、その真意がわかって来るであろう。つまり、これに惑わされる事はない筈である。幼稚な表現で、実は何が言いたかったのか、或は、われしらず、実は何を表現しているのか、これを推定するのは難かしくはないのだ。要するに、「其詞を以て、其意を害する事なからんは、其書をよむことの要旨とすべきもの也」という事になる。宣長では、決して離れる事のなかった「詞」と「意」とが、離れるのである。……
――「神とは人也。我国の俗凡其尊ぶ所の人を称して、加美といふ。古今の語相同じ、これ尊尚の義と聞えたり。今字を仮用ふるに至りて、神としるし上としるす等の別は出来れり」云々、と「古史通」の初めにある。「古史通」は知らなくても、白石の「神とは人也」は承知している、と言ってもいいほど、この言葉は、今日、有名になっている。尤もこの点では、白石を合理主義者と呼んでみたり、宣長を自然主義者と呼んでみたりするのと同断で、言わば当方の都合で勝手に有名にしたということもある。それはそれとして、ここに白石に触れるのは、宣長の考えを説くのに、これと全く反対な考えを持ち出すのもよかろうと思ったからだ。「古史通」は、江戸期の古代史研究の高峰として、特に古語の吟味を土台としている点で、「古事記伝」と並び称されているのが普通のようだが、並称されるには、仕事の性質があまり違いすぎるのである。……
――「記紀」の神代の記述に出て来る、神々による最初の事件と言えば、伊邪那岐命、伊邪那美命の所謂「国生み」である。この神々の奇怪な行為も、「神とは人也」という考えを定めて、分析して行けば、人間の尋常な行動の比喩的な表現、白石の言葉で言えば、「形容」に過ぎぬとわかって来るので、そうすれば、素材となった史実も歴然と見えて来る、と白石は考える。では、史実はどんな風に現れるか、これも実例で一見した方がよかろう。……
――二柱の男女神が、高天原から天浮橋に降り立ち、天の沼矛で、潮を画く、其の矛の先きから垂り落ちる潮が、淤能碁呂島となった。ついで、二神は、天之御柱をめぐる恋愛に失敗して、水蛭子を生み、淡島を生むという物語は、誰も知るところで、くわしく述べる要もあるまいが、白石に言わせれば、二神は優れた男女の武将を指すのであって、――「舟師をひきゐて、海にうかび、西に下りて、一島に至り給ひしに、初には其島神迎ヘ戦ひぬれども、終には自ら来り降りたれば、天神所レ賜フの宝戈を建て、其地を得給ひし事の標とし、二柱の神こゝにとまりて、なほ南北の地を徇む事を相議りて、男神はみづから左軍に将とし、女神は右軍に将たらしめて、此島を行廻りて、其軍を合せて進み、戦はむと約し給ひしに、右軍節度を受ずして軽く進みて先んじ、左軍後れて期を失ふ、二柱の神、行遇ひ給ふ事を悦びたまひしかども、すでに前後接らず、其戦利なくして、はづかに辺海の民を虜略し、海中の一小島を得たまふのみなりしかば、其虜略せし所のものを放還し、其得し所の小島を棄て、終にその兵を引て、高天ツ原に還り給ひしといふ事のごとし」(「古史通」巻之一)。――一読して明らかなように、「神」を「人」と飜訳すれば、神話の史実への逐字訳は、立ちどころに成るという文章の姿である。成る程「上古の言語格類を以て推究候へば、古事記之文段も下坂の丸のごとくに相済申ものに御座候」という自信のほども窺えようというものだ。……
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――ところで、古の言語格類は、どう求められているか。例えば、二柱の男女神が、国生みの為に、高天原から、天浮橋に降りたつ、その「高天原」という言葉をとってみよう。白石によれば、漢字に拘らず、古語によって義を釈こうとするなら、困難は少しもない。高は古にいう所の高国、「常陸風土記」にある多珂郡の地を言うのだし、上古の俗語を尋ねてみれば、天は海也、原は上也で、古語に「多訶阿麻能播羅といひしは、多珂海上之地といふがごとし」という事になる。こう簡単に決って了うのも、天上に人が住めるわけがない、という尺度から釈くからだ、と考える他はないのである。宣長の吟味となると、これはもうひどく慎重綿密なものであり、到底同日の談ではないのだが、これについては、いずれ詳しく言わねばならぬ。……
――白石は、「太古朴陋の俗」による言葉の使い方を、正そうとするのだが、太古の人々の素朴な意のうちに、素直に這入って行く宣長には、「太古朴陋の俗」というような白石の言い方は、全く無縁なのである。古人の意のうちに居て、その意を通して口を利いてみなければ、どうして古語の義などが解けようか。古人にとって、「高天原」という言葉を正しく使う事と、「高天原」という物を正しく知る事とが、どうして区別出来ようか。言葉の使い方は、物の見方に、どう仕様もなく見合うものだ。「見る」「知る」「語る」という私達の働きは、特に意識して離そうとしない限り、一体をなしている。このように考える宣長と、「朴陋の俗」を批判し、観察して古人を知ろうとした白石とは、事ごとに話が食違う事になる。特に両者の場合、扱われた古記が、歴史の形で書かれた神の物語であったが為に、二人の歩いた道に、大変際立った対照が現れるという事になった。……
――これはなかなか厄介な問題だ。これまでも、津田左右吉氏の意見を、幾度か持出したが、これについても、同氏の意見が書かれているので、引用してみようと思う。問題が上手に解かれているからではない。むしろ、それは不手際で、見ようによっては、論者の当惑が現れているとも受取れ、それが、問題のまことに面倒な性質を、問わず語りに語っていると思われるからだ。―― ……
――「徳川時代の学者などは、一種の浅薄なる支那式合理主義から、事実で無いもの不合理なものは、虚偽であり妄誕であって、何等の価値の無いものと考え、そうしてまた一種の尚古主義から、崇厳なる記紀の記載の如きは、勿論、虚偽や妄誕であるべき筈が無いから、それは事実を記したもので無くてはならぬと推断し、従って其の不合理な物語の裏面に潜む合理的な事実があり、虚偽妄誕に似た説話に包まれている真の事実が無ければならぬ、と臆測したのである。そうしてそれがために、新井白石の如く、不合理な物語を強いて合理的に解釈しようとし、事実と認め難いものに於いて無理に事実を看取しようとして、甚だしき牽強附会の説をなすに至ったのである。之に反して本居宣長の如きは、古事記の記載を一々文字通りに事実と見なしたのであるが、それとても歴史的事実をそこに認めようとする点に於いて、やはり事実で無ければ価値が無いという思想を有っていたことが窺われ、また人間のこととしては不合理であるが神のこととしては事実であるという点に於いて、人間については白石と同じような合理主義を抱いていたことが知られる。宣長の思想の根柢に存在する一種の自然主義からも、そう考えねばならなかったろう。さて今日記紀を読む人には、宣長の態度を継承するものはあるまいが、其の所説に於いて必ずしも白石と同じで無いにせよ、なお彼の先蹤に(意識して或はせずして)追従するものが少なくないようである」(「古事記及び日本書紀の新研究」)……
――このように、白石と宣長とが、「記紀」の上代の記述につき、極端な説を成して誤ったのも、元を尋ねて行けば、やはり、儒学の考え方に捕えられていたが為だ、と津田氏は見る。尚古主義と結んだ観念的な合理主義が、客観的な歴史研究への道を阻んだと見るのであるが、このように、歴史研究の方法の未熟という面から、問題を割切ろうとしても、二人がめいめい持って生れた、身を投げかけるようにして、取組まねばならなかった歴史問題の実質には、触れないで過ぎて了うように思われる。所謂実証主義的歴史観に立つ今日の歴史家は、奇怪な「記紀」の上代の物語などに躓きはしないだろう。それは、津田氏の言い方で言えば、「実際上の事実」ではないが、「未開人の心理上の事実」であり、そう受取れば、別に仔細はないようだ。しかし、歴史事実を、そのように二種類に分類してみたところで、事は易しくはならない。却って、むつかしくなるだろう。津田氏も、同じ著作の結論で言っている。「記紀の上代の物語は歴史では無くして寧ろ詩である。そうして詩は歴史よりも却ってよく国民の内生活を語るものである」と。では、歴史と詩とは、何処でどう違うのか、どこでどう関係するのか。この殆ど見通しの利かぬ難題のうちに、歴史家は投げ返されるのである。……
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――「古史通」は、白石自身の言うところによれば(「与二佐久間洞巌一書」)、将軍家宣の甲府宰相綱豊時代、侍講だった彼が、下命によって書いたものだ。好学の綱豊が、書紀神代之巻の解に苦しみ、白石に解明を求めた事があり、白石はこれに応じ、研究を「古史通と名づけ候て、それにまた或問三巻を附し」呈上した。「それにて本朝開国以来、凡そ文字に載せ置候ほどの事においては、掌を見るが如くに事済むべく候か」と言っているように、白石は非常な自信を持っていたが、何分にも、神典を、ただの実録に引下ろした研究の事であったから、当時として、公表は先ずむつかしいものであった。綱豊も愛読して秘蔵していたが、死後、焚捨てられた。……
――白石は、自分の為のものを、享保元年に脱稿しているが、こう言っている、――「古史通の事は、畢竟よのつねの人のいらぬものに候。又事により人の驚き怪しむべきものに候。本朝神代の由来、手近くしれ候ものに有レ之候。故にいやがり候衆もあるべく候事に候。但し此一部は、加州へうつしとられ候き」。――文中、「加州へうつしとられ候」とあるのは、加賀侯前田綱紀に所望され、草稿を貸した事を指すので、綱紀から、「本朝古今第一の書、万古の疑を決し候」という謝辞を得たと言っている。そういう次第で、「古史通」は、大変孤独な仕事であったから、当時の学界が、これをどう評価したかは、残念ながらわからない。ただ注意して置いてもいいのは、右の加賀の文庫にった写本とは別に、水戸藩でも借り写し、水戸の文庫にも納ったことが、佐久間宛の別の白石の手簡で、わかっている事だ。すると、彰考館総裁安積澹泊が、これを読んでいた事は、充分考えられるという事になる。仕事の性質が、他見を憚るものである事は、承知していた筈だから、読んでも、黙っていたであろう。黙って、どう評価していたろうか。想像してみるのも無駄ではあるまい。……
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――「大日本史」と言えば、誰も直ぐ、皇国の大義名分を明らかにしようとした史書だと言う。それはそうに違いないが、この声は大きくなり過ぎ、言わば、目立った意匠が、内容の質実な性質を隠して了った嫌いはなかっただろうか。修史の方法は、「通鑑綱目」を典範とする朱子学の史観の強い影響下にあったのだが、この史観の根本的な特徴は、大義とは、歴史のうちに在る以上、誰も逃れられない歴史の理法であるという考え方にあったのであり、それ故に、史家達は、私心や偏見を去り、歴史事実に忠実でありさえすれば、歴史の意義は、自ら現れて来るという確信のうちに、安心して仕事をしていたので、それが、わが国近世の史家が取っていた、基本的な態度なのであった。「大日本史」は、言うまでもなく、近世の史学の上で、最大の努力が払われ、最高の成績があげられた仕事だが、編纂者、光圀以下の史家達の意識的な努力は、研究方法の上で、今日の言葉で言ってみるなら、出来るだけ客観的、実証的になろうとしたところにあった。……
――白石と澹泊との場合にしても、その点を見損ってはなるまい。この二人の同年配の優れた歴史家は、昵懇であった。勿論、見解の相違はあったが、「大日本史」の編集につき、親しく意見を交換していた程の知己の間柄であった。澹泊に、白石の天才的な鋭さが見えていなかった筈はないし、又それ故に、この堅実慎重な学者に、「古史通」の説く、古伝の無理な合理化が諾えたとも思われないのである。白石は、「大日本史」編纂者が、特に上代史につき、外国史料を軽視した事に、強い不満を持っていた、――「本朝国史々々とのみ申す事に候、まづは本朝の始末大かた夢中に夢を説き候やうの事に候」(「与二佐久間洞巌一書」)。――このような語調は、「古史通」という、彼の一隻眼から発しているとは言えよう。しかし、「古史通」は、確かに、「神とは人也」という、己れの発想に固執した、彼の烈しい気象を現してはいるが、彼の史観を現しているとは言い難い。白石の史観はという事になれば、「古史通」の読法に、「史は実につて事を記して、世の鑑戒を示すものなり」とあるが、そんな言葉なら澹泊にでも言えた事だし、白石の史観が、白石らしくはっきり現れているのは、「古史通」ではない、やはり「藩翰譜」や「読史余論」に於いてである。……
――光圀が「大日本史」を神武から始めたのも、勿論、「実に拠つて事を記す」史家の立前からで、「記紀」の神代の記述を史実と認める事は出来ないという、全く簡単な理由に基いたのである。実とは人の世の実であり、神の世は、定義上、歴史から切捨てるという事で充分だ。白石とても、この点では同じなので、人の世を、神武から遡って拡大させてみても、別段変った事が出来たわけでもないだろう。「神とは人也」という発想を信じた白石の眼には、神話化された史実は、掌を指すように、明らかだったに相違ないが、そうして明らめて行って、天御中主尊まで遡れば、この神の化生という作り話は、どういう実に拠ったものか、全く不明であるという事になる。利用して来た着想は、もう役に立たぬ。役に立たぬどころか、「神とは人也」という命題自体が孕んでいる矛盾の為に、自滅するのである。しかし、白石はそうは考えなかった。「或問」は言う、――「此二神(天御中主尊、→国常立尊)の化生いづれが先、いづれが後也とは見へず。凡そ天地万物の始、無よりして有ならずといふ事なし、有は無より生ずといひし即此也」、――すると、白石も亦、神の世は切捨てた事になる。「大日本史」とともに、「上世の事は、年代悠遠、神異にして測られざれば、総て之を称して神世とふ」と言っている事になる。逆に、神武から始めた「大日本史」にしても、「神とは人也」という白石の考えに無縁だったわけではない。東征の神武は、戦利あらず、「之を憂ふ、乃ち謀りて曰く、我は是日神の子孫なり」云々、とあるのを見れば、明らかであろう。
6 附 言
この連載を、私は、「小林秀雄『本居宣長』全景」と題して書いてきましたが、そのココロを言えば、「本居宣長」の文章を写生します、議論はしません、ということでした。幸いにして私は二十三歳の年、新潮社への入社を許され、小林先生の本を造る係を命じられて先生の「本居宣長」の初版本も造らせていただきましたが、この初版本は発売と同時に売れに売れ、書評も新聞、雑誌に続々掲載されて、私は毎日、それらを斬り抜いて小林先生に送り続けました。
ところが、そういう「本居宣長」旋風がようやく鎮まった頃、先生のお宅をお訪ねした私に先生はこう言われました、「毎日、書評を送ってくれてありがとう、しかし、困ったもんだね、あれだけ書評が出ても、僕の文章をきちんと読んで書いてくれている評者は二人しかいなかった。あとはよく読みもしないで勝手な議論を世間にふっかけているだけだった……」。しかし、先生の言われる「勝手な議論」は「本居宣長」で始まったわけではありませんでした。それより十数年前、私が小林先生の存在を知って読み始めたころにもう、小林秀雄論なるものはそのほとんどが「勝手な議論」ばかりでした。ではなぜそうなるかと言えば、小林秀雄読者の誰も彼もが「小林秀雄の歯切れよさ」に眼がくらみ、小林秀雄の文章はそこそこにして小林秀雄調を気取ってみせたからです。そういうわけで『本居宣長』の初版本を出させてもらった後の私は、小林先生に関する議論を忌避し、小林先生の文章を隅々まで写し取るような読み方を自分自身、心がけ、そういう読み方を読者にも呼びかけることで先生の無念を晴らそうとしてきました。小林先生の文章は写生するように読むと言い出したについてもそのきっかけと理由は直接聴かされた小林先生の言葉にあるのですが、そこから後は、次回、お話しします。
(了)