「キリストの姿はここにはない」とは?
―「マティスとルオー展」を観て

坂口 慶樹

先のゴールデンウイークに、「マティスとルオー展」を大阪・天王寺のあべのハルカス美術館で観た。実は今年の2月、東京のパナソニック汐留ミュージアムでも観ていたのだが、今回、再びじっくりと相見えるべき作品があった。ジョルジュ・ルオーが、1937年に仕上げた「古びた町外れにて、又は台所」(Au vieux faubourg/La cuisine、以下、「本作」)である。

小林秀雄先生がルオーの画を愛しておられたことは周知の通りである。にも拘わらず、先生がルオーについて書かれた文章は極めて少ない。そんな先生が、「私はそれを忘れる事が出来なかった」として、具体的なエピソードとともに、比較的詳しく書かれているのが本作である(「ルオーのこと」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収)。そこで、画中の椅子に腰かけた男を「キリストに違いない」と記されながらも、最後は「画面に向いた私の眼は、キリストの姿はここにはない事を確かめるようであった」と書き終えられていることを踏まえ、池田塾頭から「その言葉を貴方はどう感じるか」という問いを、4月初旬、ともに訪れた松阪の地で頂いた、というのが今回の天王寺訪問の機縁となっていた。

 

さて、会場に入ると、まず私は一つひとつのルオーの画と相向かい、「そこに、キリストはいるか?」と自問しながら、時間をかけて巡って行った。そこで、否、と自答したのが、本作以外では以下の3作品であった。

まずは、「一家の母」(1912年)。乳飲み子を抱いた母親の周りに3人の子どもが寄り添う、寒々しい青色を主調とする小品である。それぞれの表情は判然としない。事情はわからぬが、5人きりで生きていくしかない、という悲壮な覚悟さえ感じる。

次に「曲馬団の娘たち」(1924-25年)。サーカス団の一員である若い女が二人。一人は正面を向き、一人は横を向いている。楽屋裏の出番待ちなのだろうか。表題の言葉の響きとは裏腹に、目は黒く太く塗りつぶされ、娘たちの表情も暗いだけに、感じるのは、乾いた寂しさのみである。左の娘の赤い髪飾りは、むしろ見るに痛々しい。もはや娘たちは静物画の中の死物と化しているようだ。

最後に「眠れ、よい子よ 『流れる星のサーカス』より」(1935年)。これもサーカスの楽屋裏であろう。化粧をし、派手な色彩の衣装を身に付けた母親とおぼしき女性が、籠の中で穏やかに眠る赤ん坊を見つめている。その手はあやしているようにも見えるが、母は笑ってはいない。死んだ魚のような冷たい目をしているだけである。鮮やかな色彩もある。籠の中には、すやすやと寝入る赤ん坊もいる。がしかし、そこにキリストはいない。

もちろん、これらの3作品には、そもそもキリストの姿は描かれてはいない。小林先生の言葉を借りれば、「風景画と言っても、ルオーの場合、必ず人々の日常の暮し、それも貧しい辛い営みが、景色のうちに、しっくり組み込まれたものだが、画家の信仰の火が燃え上るにつれて、キリストも時には画面に登場して来るようになる。普通、ルオーの『聖書風景』と呼ばれている構図が、次第にはっきりして来る」(同)

パリ国立美術学校時代の恩師であるギュスターヴ・モローは、ルオーを実の息子の様に可愛がったようで、ルオーに「君は厳粛で簡素、そして本質的に宗教的な芸術が好きで、君のすること全てにその刻印が押されるだろう」と語ったという。その予言はまさに的中し、時間の経過とともにその刻印の跡は、濃くなって行ったのである。

 

そんな「聖書風景」の傑作の一つが、本作である。

表題にある、faubourg、すなわちfau(外の、偽りの)bourg(町)は、ルオーが生まれ育ったパリ近郊のベルヴィル地区が念頭にあったのだろうか。そこは、第二帝政下、人口の急増した都心の家賃高騰により締め出された労働者の町で、当時は「パリのシベリア」とも「黒い郊外」とも呼ばれ、人々から恐れられていたという。

この画は、小林先生の描写によれば、「太い煙突の立った竈に赤い火が静かに燃えて、何か粗末な食べ物が鍋で煮え、薬缶の湯が沸いている。壁には、フライパンが三本、まるで台所の魂が眼を見開いたような様子で懸っている。傍の椅子に、男が一人腰をかけ、横を向いて、考え事をしている」(同)

白い服を着たその男は、キリストのように見えるが、身も心も疲弊しきった徒刑囚のようでもある。もはや逃れられぬ定業、と観念してしまったのであろうか。ひっそりと静まりかえった台所にあるものは、ただ憔悴と絶望のみ。

ルオーの連作銅版画集に、小林先生もお持ちでよく眺めておられた「ミセレーレ」(Miserere(ラテン語で「憐れみたまえ」の意)/坂口注)がある。そこには、近代社会に生きる人々の苦悩、戦争への憤り等を主題とした、深いかなしみや怒りの感情が白と黒のコントラストだけで描かれており、58番目の最後の作品「われらが癒されるのは彼が受けた傷によりてなり」は、磔刑により傷ついたキリストの姿で終わっている。これに比して本作では、キリストの如き人物は確かにあるものの、画中で祈りを捧げる者もいなければ、その前に立つ私にも、彼のために「憐れみたまえ」と祈ることすらさせてはくれない。それ程にまで、ルオーがここに描いたかなしさは、観る者の身体の奥底に、末梢細胞の一つひとつにまで、ゆっくりとゆっくりと沁み入っていくのである。

加えてこの画は、構図としても、人物よりも台所の空間の方が、風景画のように、大きく広く、そして静かに描かれている。そのことによって、観る者が直覚するかなしさは、前述の3作品のように人物を大きく描くよりもむしろ、増幅されるようにも感じた。

今度は画面に、できうる限り近接してみる。ルオーの作品には、絵具が分厚く塗り重ねられ、削られた、あたかも浮彫彫刻のような独特のマティエール(画肌/坂口注)を持つものが多く、本作も概ねそのように描かれている。ただ、よく観ると、その男の顔の部分だけは厚塗りされておらず、ルオーが、細い筆を使って、本作の命となる、男のかなしい表情を濃やかに描き込んだことが見て取れる。その肌理は、前述の3作品に描かれた顔の表情と比べてみても、格段に異なっている。

どうも私は、本作の持つかなしさの上塗りを重ねてきたようだが、とはいえ、一縷の希みはあるように感じた。それは竈に小さく灯っている炎である。その台所には、目立つ食材はあまり見当たらないものの、火は燃え続けている。1871年5月、パリ・コミューン砲撃戦の真っ只中、砲火に包まれる地下倉庫で生まれたルオーにとって、火は業火であると同時に、心の灯明でもあったようだ。

 

ここで、小林先生の文章に戻ろう。先生は、忘れる事が出来ない、という本作との再会を求め、当時の持ち主となっていた小さな料亭を営む女将を尋ね当て、その二階にある座敷に上がり込むと、チャブ台に頬杖をつきながら、この画と再び対峙された。そこで女将が語った「一目見たら、もう駄目だった。どんな無理をしても、手に入れようと心が決まった。大事にしていた日本画もみんな処分して了った」という、小林先生の描写に注目したい。

その女将は、美しい日本画を所持していたのだろう。それらすべてを放下してでも、この画を手に入れたかったのは、一体なぜなのか。一見かなしさに満ちた本作の、どこにそんな究極的な魅力を覚えたのか。私は、会場で画面に向かいながら、そんなことを自分に問うてみた。きっと女将は座敷に上がる客筋に見せたくて他の日本画を手放したのではあるまい。彼女は、毎日この画と、静かに無心に向い合う、そんな時間を大切にしながら暮らしていたのではなかろうか。

ところでルオーは、敬愛する評論家、アンドレ・シュアレスと、37年という長きに渡り多数の文通を続け、それを滋養とし、また命綱として生きてきたと言っても過言ではないと思うが、その中の手紙から一文を引いてみたい。

「この十五年間、友人の多くは社会的地位を占め、よい職に腰を落ち着けましたが、私は一見迷いながらこの年月を過ごしたようです。議論や分析や饒舌によって自己を知るのではなく、苦悩により、苦悩のただ中で自己を知ること、技巧や気取りから遠く離れ、生活により、生活の中で、また自己の全存在をあげての努力と真実の中で自己を知ることです」(ルオーからシュアレスへ、1913年3月3日)

 

あの小料亭の女将は、キリストの姿のない、この台所が描かれた画を、そんな心持ちで毎日眺めていたのではあるまいか。この画こそ、彼女にとって、なくてはならない闇の中の灯台の灯りのようなものだったのではあるまいか。ゴールデンウイーク後半の東京に戻った私は、観光客で混み合う山手線に揺られながら、そんなふうに考えていた。

 

追記

前述の小料亭の女将を小林先生に紹介したのは、先生との親交が深い画廊主、吉井長三氏であった。その二階の座敷に立ち会った氏が、氏の眼を通して見た、その模様が詳しく記されている文章があるので、この機会にぜひお目通し頂きたい(「小林先生と絵」、「小林秀雄全作品」別巻3所収)。

 

その他参考文献

「ルオー=シュアレス往復書簡 ルオーの手紙」
富永惣一・安藤玲子共訳、河出書房新社、1971

「ルオーと風景 パリ、自然、詩情のヴィジョン」
求龍堂、2011
(パナソニック電工汐留ミュージアム主催、同展公式図録兼書籍)

「マティスとルオー 友情の手紙」
ジャクリーヌ・マンク編 後藤新治他訳、みすず書房、2017

(了)