本誌には、随想・随筆のページとして、さしあたり四つの部屋を設けている。
「本居宣長」自問自答
もののあはれを知る
美を求める心
人生素読
の四部屋である。
「『本居宣長』自問自答」は、文字どおり小林秀雄先生の「本居宣長」を読んでの自問自答から生まれる随筆の部屋である。毎月一度の「小林秀雄に学ぶ塾」の席へ各自300字の質問を提出し、その300字に基づいて約5分、自問と自答を口頭で述べる。その自問自答に池田が参考意見を添え、それらを後日、各自が熟考敷衍して3000字ないし4000字の随筆として書くという寸法だ。
「もののあはれを知る」「美を求める心」は、いずれも小林先生が終生心がけた生き方の根本である。これを私たちも心がけ、四季の折節、日々の折々、わずかでも「もののあはれを知」りえたという経験、「美を求め」えたという経験に行き会えば、それをすかさず綴っておこうという部屋だ。
「人生素読」の「素読」とは、たとえば『論語』を、一語一語の意味を調べたり文意を説明してもらったりはせず、ただただ先生の読むとおりに声に出して読む、そういう読み方である。小林先生は、岡潔さんとの対話「人間の建設」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収)で、こう言っている、
──(素読をさせると、子供は)『論語』を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ無意味なことだと言うが、それでは『論語』の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っている。……
そこで、さて、その次である。
──『論語』はまずなにを措いても意味を孕んだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たした。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです……。
この教えにしたがって、私たちは後ればせながらであるが、またいささか変則的ながらであるが、ベルグソンや「古事記」や「源氏物語」を素読する会をもっている。それらの詳細については前号で有馬雄祐さんが書いたが、その延長線上で「素読」という言葉を本誌は広義に用いている。すなわち、「『すがた』に親しむ」という「素読」の意義を拡大し、書物にかぎらず人であれ自然であれ、「『すがた』に親しむ」経験を綴っていこうとするのである。さらに言えば、「小林秀雄のすがた」に親しもうとするのである。
そういう四つの部屋と、いつでも行き来できる部屋が「巻頭随筆」である。
今月は、茂木健一郎さんに書いてもらった。そのタイトル「稲葉天目と偶有性」の「偶有性」は、もう十年にもなるだろう、茂木さんが口にし続けている生命哲学の言葉である。ただしこの言葉は、国語辞典などを引いて理解しようとすると、茂木さんの見ようとしているものとは真反対のものを見てしまうことになるから注意が要る。茂木さんには、『生命と偶有性』という書名の新潮選書(2015年刊)があるが、その本の紹介文にはこうある。
──生命の本質は、必然と偶然のあいだに横たわる「偶有性」の領域に現れ、それは私たちの意識の謎にもつながってゆく。私が「私」であることは必然か偶然か。偶有性と格闘することで進化を遂げた人類の叡智をひもとき、激動の世界と対峙する覚悟を示す。「脳と仮想」の脳科学者がつかんだ、21世紀の生命哲学。……
そして、本誌今号の「稲葉天目と偶有性」には、「稲葉天目」という稀代の美と出会ってさらに新たな視野が示され、こう記されている。
──生命は、完全さや均衡とは程遠い領域にある。もし完全であるならば、そこで動きが止まってしまう。均衡であれば、変化する必要はない。……
──生命の本質は偶有性にある。偶有性とは、つまりは秩序と無秩序の共存である。……
私が編集者として初めて茂木さんに原稿を頼んだのも十年余り前である。茂木さんは、小林先生を文章で読んでいた間はピンときていなかった、ところが、テープで講演を聴いて仰天した、脳科学でこれだと閃いた茂木健一郎のテーマ、その生命哲学を、小林先生はもうとっくに語っていた、と早口で話された。今回の原稿が送られてきたとき、あの日の茂木さんと小林先生の講演がまざまざと思い出された。
本誌今号、茂木さんの「巻頭随筆」は、「『本居宣長』自問自答」でもある、「もののあはれを知る」でもある、「美を求める心」でもある、「人生素読」でもある。
(了)