校了作業も終盤に差しかかり、さて集まった原稿を眺め渡してみると、それぞれの相貌がたいへん個性的なことに毎号驚く。これだけ様々な味わいの言葉が並ぶのは、もちろん同人たちの多士済々ゆえなので、みなが奇を衒っているからというわけではないだろう。むやみに誇示される個性は得てして退屈なものだ。この多彩は恐らく、小林秀雄の遺した言葉と向き合うということが、最後には「君は君自身でい給え」と忠告されることになる、そういう事情によるのだろう。こんなに辛く、こんなに愉しいことはまたとない。今号も、著者たちの幸福な苦闘の結果をお楽しみいただければと思う。
多士済々と書いたが、年齢も性別も、まことに多様な人々が「小林秀雄に学ぶ塾」には集っている。それは今号の原稿を読んでいただければ瞭然である。かつて小林秀雄の講演を生で聴いた体験を書きとめ、氏の訊き上手を想う冨部久さん。ご自身の家庭を通じて「もののあはれ」を考える安達直樹さん。大学での仏文学研究を省みつつ、読むということへの気付きを記す飯塚陽子さん。歌を「詠む」歓びと、数学や物理を楽しむ歓びは「同種」だという村上哲さん。青春の読書体験を「驚天動地」の一場面とともに思い返す松本潔さん。自らの美の体験から「まごころ」を希求する森郁子さん。それぞれに全く異なった、暮らしという土壌から、さまざまな収穫が持ち寄られる。そして、池田塾頭と杉本圭司さんの研ぎ澄まされた連載が続いている。Webとは言え、雑誌という媒体の魅力を存分に味わっていただけるはずだ。
安達直樹さんが引用されている、『古事記伝』の宣長の言葉が深く印象に残った。
「すべて意も事も、言を以て伝ふるものなれば、書はその言辞ぞ主には有ける」。言っていることは平明だが、安達さんも書かれている通り、このことを徹底して考え、読み書きの上で実践していこうとすれば、随分奥行きのある一文であり、いかにも宣長らしい言葉でもある。すでにどうしようもなく与えられてしまっている、当たり前のものごとを、徹底的に翫味する。考えるということの変わらないイロハを、この文章に改めて教えられたような気がする。
先日たまたま野球中継を点けると、画面左下に“SPV”という文字があり、投手が球を投げ込むたびに、文字の横に常に何かの数値が表示されていた。何だろうと思っていると、回転数を表すのだと解説がすぐに教えてくれた。曰く「これまで“球にノビがある”などと言っていたものを、数値によって可視化することが可能になったわけです」。なるほど、かつて野村克也や古田敦也が目指したデータ野球は、科学技術の進展によって更にその精度を上げつつあるらしい。しかし、数値化などされる前から、確かに“ノビがある”とか“キレがある”という言葉はあったのだ、と思っていると、先ほどのアナウンサーがこう首を傾げた。「今のは良い球に見えましたが、SPVの数値は余り揮いませんね」。いかにも不思議そうな調子であった。数値に見ることを任せるというのは、避けがたい現代の傾向であるらしい。
(了)