山の上の家の8月の歌会で、亡くなった父が夢に出てきたことを詠んだ。池田塾頭がその夢について書くようにと言われたので、思いつくままではあるが、書いてみようと思う。
平成29年7月29日の朝、父が亡くなった。83歳だった。8月12日、元気だった頃の父が夢に出てきた。妻や子供たちと居間にいると(家族構成は三世代同居。私の父母、私と妻、子供三人)、コツコツコツと庭に通じるガラス戸を指先で突っつくような音がした。カーテンを開けると、父が立っていた。明るい昼間の庭が目に入る。どうやら、家の中へ入ろうとしたのか、ガラス戸の鍵を開けてくれという合図らしい。私に向かって、父は、右の手のひらを立てて、表、裏とひらひらさせていた。私の表情を見つつ、父らしい(そうとしかいいようのない)かすかな笑顔で。父の身体は少し半身で、家へ入ろうとしているようにも、庭の方へ行こうとしているようにも取れた。父は亡くなったはずだが、という思いもしていた。家族に対しては、無口なわけでもなく、「おーい」と言ってみたり、「開けてくれーやー」と言ってみたりしそうな感じなのだが、父は一言も言葉を発しなかった。しかし、父は何かを伝えたかったようだ。「家族が食べていかんといけんのじゃけえ、しっかりせえよ。頼むで!」ということだったのか。閉じこもっている私たちを心配したのか。
私は「小林秀雄に学ぶ塾」で学んでいるが、父が本を読むのを一度も見たことがない。おそらく、生涯で一冊も本を読まなかったのではないだろうか。歩みを少し振り返ってみたい。
11歳の時、原爆で母や兄妹を亡くし、家を失った父は親戚の家に身を寄せる。小学校を正式に卒業しなかったようだ。数年後、大崎上島の漁師へ丁稚に出される。「櫓で殴られた」話をよくしていた。夏祭りの夜、漁師の家族は祭りへ行き、残された船から「脱走した」。呉線の線路を歩き、大根をかじりながら広島まで帰ったという。いろいろな経験を経た後、初めは会社組織に属さず、肉体労働者をまとめることとなった。その後、日雇い労働者だった彼らを「将来に希望がない」と、関係のあった会社と交渉し、正社員にさせる。……。
思い出されるのは、父の苦労等ではない。いろいろな経験を経たとは書いたが、計画できたはずもなく、見通しもきかず、自分を頼むしかない中でつかんだ思想だ。それは自分の言葉を信じられるように生きる、という思想だったと思う。「思いつきでものを言うな」「よく考えてからものを言え」とよく言っていた。自分が本気で考えていないことを、言葉にすることが決してない人だった。人が言ったことを忘れず、相手のことをよく考えた人だった。例えば、後ろ盾の無い中で、人をまとめていくには、自身が権威となるより他は無かったはずだ。自分勝手な考えや、私利私欲のみで発せられる言葉、責任感も一貫性もない言葉、数を頼んだり、何かの威光を利用したり、ことさら自分を大きく見せようとしたりする言葉、自らを欺いて陰で人を貶める言葉……。そんな言葉を使うようなら、「仲間」からの信頼を失い、瞬く間に立場を追われただろう。もっと実力のあるものが、すぐそこへ立つ。このような環境で生きていくということが、どんなに言葉に対する感覚を磨いただろうか。無二の大切さを、威力を教えただろうか。
そんな言葉は自分だという意識をはっきり持った父が、何故、本を読まなかったのか。「本を読むと馬鹿になる」と父が言ったことがあった。積極的に読まなかったのだ。読書をし、感化されて何かを考えたり、ものを言ったり、行動したりすることは、覚めた目で見た父からすれば、自ら迷いへと入っていくように思えたのだろう。本を読むことで、読む前と人は何か変わってしまうことを、感覚的に分かっていたのだと思う。誰のどんな言葉も、父の経験の総和を正確に言えない以上、父の身の上に何の関わりも認めることはできなかったのだろう。行きつけるところまで分かったとしても、それは人を明るくするとは限らない。進んで迂闊にも「馬鹿になる」行いをすることは、父にとっては無責任なことだった。
父は1行の文章も残さなかった。心に込めがたいものは、時に絵となって表れた。その中には11歳の少年だった父が布団を背負い、疎開先から帰って見た、原爆により焼け野原となった、無人の広島の絵がある。右隅にポツンと小さな人影が三つ。父と妹とお父さんであろう。見たこと、感じたことがはちきれた絵だ。数年前に描いた最後の絵は、広島県立美術館で観たゴッホの自画像だった。料理、建築等なんでもそうだったのだが、絵に感動するということは、父にとってはそれを自分で描いてみるということだった。点描というには少し長めの筆致で、顔も帽子も服も背景も描かれている「グレーのフェルト帽の自画像」に、技法への興味を持ちもしたのだろう。効果を吟味し、家族にも意見を聞きながら、じっくり取り組んだ父の「自画像」は、不思議と明るい色調で仕上がった。
夢の中、居間にいた私たちは、何か異様な雰囲気だった。手術も抗がん剤治療も拒んだ父を家で看取ることとし、家族全員で父の残された日を幸せなものにしようとした。2カ月後、皆に見守られて父は亡くなる。全力を尽くし、別れの時を何度も想像し、ある意味やりきったという感じがしていもしたが、夢の中での私たちは、父の死ということに接し、緊張して身を固くしていた。庭からただ家へ入りたいだけという素振りで、ガラス戸を叩いた父。異様な雰囲気を払い、かといって大げさなことにしないために、手をひらひらさせて、父らしく、少しひょうきんにしてみせた。それが目的だったので、家へ入るでもない、庭に行くでもない、半身だったのだ。
「つまらんことを考えるな」「考えてもしょうがないことを考えるな」とよく言っていた。考えるべきことをはっきり知り、それ以外は考えないと決めるようにしろということだろう。広い意味での宗教心はあったと思うが、死んだらどうなるなどという言葉を口に出したことはなかった。
夢という物語を信じて、思い出そうとしてみれば、父の思想が私に伝わる。歌は夢に姿を与えた。「本居宣長」を繰り返し読むにつれ、人間のつくられ様を、根本から行きつけるところまで考え、生まれたという運命を、どう承知して積極的に生きるのか、ということの大事が心に浮かぶ。言葉を信じ、運命に抗いもせず、自分の楽しみに常に積極的であった父を思う。名は体を表すというが、自分の生まれつきを、とうとう守り抜いて生かした父の名は、悟という。
愛情のある父、身罷りける後、夢に出で来ることを詠める
夢の中 われを待つらむ その人は いかでかものを 言はずに笑ふ
(了)