ブラームスの勇気

杉本 圭司

高橋英夫氏が小林秀雄旧蔵のLPレコードを閲覧した時、モーツァルト、ベートーヴェン、バッハに次いでブラームスのレコードがかなりの数出てきたこと、そしてブラームスを何かかけてみようと思い立った氏が、偶々手に取った交響曲第一番のレコードをジャケットから抜き出したところ、「盤面が汚れていて、何度もかけた跡が明瞭だった」ことは既に書いた。高橋氏によれば、そのLPレコードは、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるものだったという。カラヤンはこの曲を大変得意にした指揮者で、正規のスタジオ録音だけでいっても生涯に六度録音している。そのうちベルリン・フィルとのレコードは三種存在するが、その二回目の録音が発売された時、小林秀雄は既に「山の上の家」を降りていたから、彼がこの家で「何度もかけた」のは、一九六三年(昭和三十八年)十月にベルリンのイエス・キリスト教会で録音されたベルリン・フィルとの最初のレコードであったことになる。

小林秀雄は、ヴァイオリニストやチェリスト、ピアニストといった器楽奏者への想いや好みについてはしばしば語ったが、指揮者については殆ど何も語らなかった。活字として残されているのは、昭和三十四年三月に発表された「小林秀雄氏とのある午後」という座談会での発言で、フルトヴェングラーとカラヤンについてそれぞれ一言触れているのみである。ちなみにカラヤンについては、テレビで見たその指揮ぶりについて、「ちゃんと見せるような型になっている、芸人だなあ。指揮者は芸人でなくちゃいけない」と、この指揮者のスタイリッシュな通俗性を批判する音楽評論家やレコード・マニアの議論とは無縁の、いかにも彼らしい評を下している。

そのカラヤンのブラームスを繰り返し聴いたというのも、偶々誰かが彼のレコードラックに持ち込んだLPを、ブラームスを聴くために毎回取り出したというまでで、この曲の数ある録音の中で特にこの演奏を好んだということではなかっただろう。しかし小林秀雄が「山の上の家」で暮らした時期に、数あるブラームスの楽曲の中から交響曲第一番のレコードを選び出し、盤面が汚れるほど聴き続けたという事実は、決して偶然ではなかった。カラヤンとベルリン・フィルによる最初のLPレコードが日本で発売されたのは、「本居宣長」の連載が開始された同じ年である。つまり小林秀雄は、「山の上の家」で「本居宣長」を執筆した十年半の間に、このレコードを「何度もかけた」のである。

ブラームスの最初のシンフォニーは、おそらく、「本居宣長」を執筆していた小林秀雄に特別の感銘と共感を与え続けた音楽だったのだ。「小林さんはモーツァルトのほかに、ブラームスも好きだった」と伝えた追悼対談の中で、大岡昇平は、小林秀雄は「彼(ブラームス)がベートーヴェンの第九の上に、ハ短調交響曲第一番を書いたことを、とても賞めていた」と証言している。そして「『本居宣長』はブラームスで書いている」と語った「音楽談義」の最後に彼の口から出た曲名は、「第一シンフォニー」であった。

これまで紹介してきた「音楽談義」でのブラームスに対する小林秀雄の発言には、まだ続きがある。彼がブラームスについて一番言いたいことは、実はその続きのところにあるのである。ベートーヴェンのような「元気のいい、リズミカルなインスピレーション」とは異なる、肌目の細かい、主題を織(折)るようなブラームスの書法について語り、この作曲家を「本質的に老年作家である」と断じた上で、彼は次のように発言する。

―僕は好きですよ、ブラームス。あれをセンチメンタルというのは俗論です。あいつの意思を知らないのです。あいつのセンチメンタリズムというのはとても表面的なこと。あいつの忍耐とか意思とか勇気なんてものは全部あの中に入っていますよ。これはやはり健全なる音楽家です……

ここで言われた「あいつの忍耐とか意思とか勇気」とは、他ならぬベートーヴェンにこそ相応しい言葉であろう。しかしそれがブラームスにもあると彼は言い、しかも、そのブラームスの「意思」は、ベートーヴェンのそれとは違って世間にはなかなか理解されないものだというのである。

対談ではこの後、既に触れた四十年前の道頓堀のエピソードが回想され、その「モオツァルト」を書き終えた後に惹かれるようになったというシューベルトの話に移り、さらに話題はチャイコフスキーからシューマンを経て、シベリウスとグリーグ、ドビュッシーとラヴェルとが比較される。あるいはストラヴィンスキー、ヒンデミット、シェーンベルク、武満徹といった現代音楽が批判され、ベートーヴェン、ヴェルディ、ショパンと続いて、四年前、バイロイトで聴いたワーグナーについて存分に語られる。そして五時間に及んだこの対談の最後の最後に、もう一度、彼はブラームスについて語り出すのだ。もはや独白に近いもので、聞き取れない箇所もあるが、彼のブラームスに対する思いは、この最後の独語にもっとも強く表れている。バイロイトで体験したワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」の最終場面の感動について繰り返し語った彼は、しかし、「あの人(ワーグナー)を僕は尊敬するが、愛しません」とはっきり断った後で、次のように語った。

―僕はできるかどうか知らないが、一生懸命書いているんだよ。もう僕は世間を感動させるとか、これはちょっと上手いとかいうものは書けないと思ってきたのだ。書けないね、もう、恥ずかしくて。僕がブラームスみたいに書きたいとこの頃思っているのはそういうことなんだよ。ブラームスって、あんた、聴くか? ブラームスってのはいいですね。僕は段々ブラームスを好きになりましてね。あんなものは誤解のかたまりだと僕は思っています。誰がわかるものか、ブラームスという人のね、勇気をね、君……

そして不意に、「あの人のカルテットいいですね」と語り出し、「どうしてあんなものができたかと思うくらいのものですね。あれは第一シンフォニーと同じものです。偉いものですよ」と嘆じて、この対談はお開きになるのである。

「『本居宣長』はブラームスで書いている」と語った時に、彼の脳裏で鳴っていた音楽、そして「あいつの忍耐とか意思とか勇気は全部あの中に入っている」と言われた「あの中」とは、ブラームスの他のどの曲よりも第一シンフォニーであり、カルテット(おそらくはシンフォニーと同じく最初の弦楽四重奏曲)であっただろう。だがなぜ、この二つは彼にとって「同じもの」なのか。またこの二曲をブラームスが作曲したことの何が「偉い」のか。小林秀雄が聴き取ったその意味を汲み取るためには、この二つの音楽が作曲された経緯を少しばかり知っておく必要がある。

 

ブラームスが生まれたのは一八三三年五月七日、ベートーヴェンはすでに六年前、シューベルトは五年前に亡くなっていた。シューマンとショパンが二十三歳、ワーグナーが二十歳の時で、ベートーヴェンによって端を開かれたロマン主義音楽がいよいよ隆盛を極めようとしていた時代にあたっていた。

ブラームスの作曲家としてのキャリアは、二十歳の時にシューマンの元を訪れ、そこで弾いて聞かせた自作の曲に驚嘆したシューマンが、「新しき道」というタイトルの論説を発表して、このうら若き「ミネルヴァ」を華々しく世に送り出したことに始まる。シューマンに紹介されて楽壇に出たということはまた、ブラームスが、リストとワーグナーに代表される新ドイツ楽派という当時の「未来音楽」とは袂を分かち、古典的な音楽の可能性を新たに拓く「第二のベートーヴェン」として世に出たということを意味した。ブラームスはシューマンに会う三ヶ月ほど前にリストを訪ねているが、その時、作曲されたばかりのロ短調ソナタをリストが弾いて聞かせたところ、ブラームスは居眠りをしてしまい、それに気づいたリストは怒って部屋を出ていったという逸話が残されている。その真偽はともかく、ヴァイマールの邸宅に滞在した時、ブラームスがリストの音楽に数多く触れたこと、そして聴けば聴くほどその音楽に批判的になり、結果、リストの機嫌を損ねたことは事実だったようである。

音楽史上有名なブラームスと新ドイツ楽派の対立、とりわけワーグナーとの確執についてはしかし、ロマン主義の標題音楽的発想を否定して、音楽は音楽以外のものを表現しないとする絶対音楽の立場を標榜した音楽美学者エドゥアルト・ハンスリックをはじめとする反ワーグナー派の人々が、ブラームスを自分たちの主張の体現者として必要以上に担ぎ上げた側面も少なからずあった。そもそもブラームスという作曲家は、当時の「未来音楽」に共感できなかったばかりでなく、自身の音楽の価値に対しても極めて懐疑的で、自分を含めた現代の音楽よりも、モーツァルトやハイドン、バッハ、ヘンデル、あるいはもっと古い、その当時は誰も見向きもしなかったルネサンス期のポリフォニー音楽に至るまで、過去の巨匠たちの音楽への憧憬と尊敬を生涯持ち続け、その研究に多大な労力を費やした人でもあったのである。ブラームスは、それら歴史上の天才たちに比べれば、自分の音楽は何物でもないという強い自己批判精神の持ち主で、例えば、「自分のピアノ協奏曲が今日もてはやされるのは、モーツァルトのピアノ協奏曲の本当の良さを誰も理解していないからだ」といった類の発言をいくつも残している。

その中でも、ベートーヴェンは、ブラームスがもっとも尊敬した作曲家であり、かつ、もっとも身近に存在した古典であった。シューマンが「新しき道」を発表した三ヶ月後、ブラームスは、友人であったヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムに宛てて次のような手紙を書いている。

 

ヨハネスは何処にいる。彼はまだティンパニも太鼓も鳴り響かせないのか。彼はいつもベートーヴェンの交響曲の開始部分を思い起こし、似たようなものを作ろうと努めることになるだろう。

 

以後、ヨハネス・ブラームスによって意識され続けたベートーヴェンという桎梏、中でもその最も重たく気高い「ベートーヴェンの交響曲」という十字架は、彼を取り巻く時代が要請したものであったと同時に、ブラームスが自ら進んで選択し、背負い続けたものでもあったのである。

(つづく)