「今度の松原の文章はなかなかいい」と、或るとき小林秀雄が云つた。僕が何でそんなことを知つてゐるかと云ふと、松原先生から直接伺つたからである。先生は師の福田恆存から聞いたらしい。福田恆存が何かの用で小林秀雄に会つたとき、たまたま小林は「中央公論」に載つた松原先生の文章を読んでゐて、福田恆存にさう云つたのだと云ふ。先生はその話を僕になさつたとき、羞みながらも嬉しさうであつた。先生は晩年、小林秀雄の仕事に全面的には共感してゐなかつたやうであるが、小林秀雄その人に対する敬愛の念は最後まで揺るがなかつた。
先生は学生時代に縁あつて福田恆存に師事することになつたが、当時は小林秀雄に心酔してゐて、福田恆存は名前を知つてゐるぐらゐだつたと云ふ。それで最初の頃は小林秀雄に会はせてくれと大分師に強請つたらしい。師にしてみればあまり面白い話ではなかつたらうが、それでも師は苦笑ひするだけで、別に嫌な顔はしなかつたと云ふ。先生が学生時代に実際に小林秀雄に会ふ機会が得られたかどうかは聞洩らしたが、何れにせよ、卒業後師の紹介で東京創元社に勤めることになり、そこで念願が叶ふことになつた。当時小林秀雄は創元社の編輯顧問をしてゐたからである。
尤も先生は師に親炙するにつれて狐が落ち、創元社に勤める頃はさほど熱狂的な小林フアンではなくなつてゐたと云ふ。それでも流石は小林だなと思はせられることが何度かあつた。
或る日、先生は特にやることもないので、社の与へられた机に向つてT・S・エリオツトの「古典とは何か」と云ふ本を読んでゐた。小林は二週間に一度社にやつて来たが、たまたまその日が出社日で、先生に「何を読んでるんだい」と声を掛けた。先生が本をお見せすると、「面白さうだな。貸してくれ。俺英語も読めるんだよ」と云ふので、お貸しした。二週間後に「いかがでしたか」と訊いたら、「贅沢なことを云つてやがんな」と云ふのがその返辞だつたと云ふ。
先生は小林のこの返辞に驚き、いたく感服したと云ふ。エリオツトによれば、イギリスの本当の古典文学はイギリスにはなく、古代のギリシアとロオマの文学、特にウエルギリウス、さらには中世のダンテがそれに当る。従つてイギリスの文学者はそれらを研究してそこから養分を吸収しなくてはならない。それがイギリスに於いてヨオロツパの伝統を活かすと云ふことだ。先生の見るところ、我が国にはどう逆立ちしてもそんな伝統はない。にもかかはらず、西洋の文学や哲学を研究する者の中に「贅沢なことを云つてやがんな」と云ふ苛立ちを感ずる者もゐない。先生は、一読でその苛立ちを覚えた小林の鋭敏な感性に驚き感服したのである。
先生は創元社に二年ほどゐて退社なさつたが、その際に鎌倉の小林家へ後輩の編輯者を連れて挨拶に伺つた。晩御飯を御馳走になつたあと、大分聞し召した小林が「おい、モオツアルトを聴かしてやらうか」と云ふので、「お願ひします」と答へると、書斎からSPレコオド用の手巻蓄音機を持つて来て、自分で巻いて、有名な嬉遊曲のメヌエツトをかけてくれた。聴きながら小林が「どうだ、いいだらう」と云ふから、先生が「いいですね」と相槌を打つと、急に小林の顔色が変つて、「てめへらに藝術なんか解つてたまるか」と云つたと云ふ。先生は内心、ほら来た、小林の取巻連中はみんなこれでやられるんだ、と思つたが、どうせ自分は社を辞めるんだし、何も遠慮することはないと思ひ直して、「しかし先生、モオツアルトは藝術のつもりで書いたのでせうか」と口答へした。次にどんな言葉が出て来るかと緊張したが、案に相違して小林は口を噤んで何も云はなかつた。ただ黙つて酒を飲んでゐた。その姿を見たとき、先生はやつぱり小林は偉いなと思ひ、人徳を感じたと云ふ。若造の云ふことでもそのとほりだと思へば一切言訳をしないと云ふのは、さう誰にでも出来ることではない。
僕はこの話を先生から伺つたとき、先生も偉いと思つた。これが俗な心の持主なら、天下の小林秀雄を相手に一本取つたと得意になるところだらうが、そこに相手の偉さと人徳を認めた先生も偉かつたのである。
先生は晩年小林秀雄の仕事に全面的には共感してゐなかつたと先に書いたが、それは小林が晩年本居宣長に入れ揚げて西洋から足を洗つた(と先生に見えた)ことが不満だつたからである。先生は西洋の精神と日本の精神の根本的な違ひを最後まで論じ、その違ひを認識した上で常に両者から眼を離さずにゐることの大事を説いて倦まなかつた。勿論、先生も本居宣長は偉い人だと思つてゐたし、小林秀雄がキリスト教は解らないと告白したことも率直な人徳のなせる業だと認めてゐた。しかし今日の日本の置かれた状況を考へれば、本居宣長だけでは救ひにならないと云ふのが先生の考へであつた。先生が最後に向つたのが、西洋精神と最後まで対峙しつづけた夏目漱石であつた理由はそこにあつた。しかし小林秀雄がドストエフスキイ論を完結させ得なかつたやうに、先生の夏目漱石論も完結はしなかつた。そこに、戦後日本の精神状況を見据ゑつつ、絶えず難問にぶつかつては誠実に考へようとした一人の日本人の、誠実なるがゆゑの精神の苦渋を見るのは決して僕だけではないであらう。
以上、折に触れて松原先生から伺つたいろいろなお話の中から、小林秀雄に関するものに焦点を当ててみた。先生はのちに講演でもここに採上げた話題の幾つかに触れられ、その記録は「福田恆存の思ひ出」の題で先生の全集第二巻に収められてゐる。また、小林がエリオツトの「古典とは何か」を読んで「贅沢なことを云つてやがんな」と云つた「贅沢なこと」については、岡田俊之輔氏が「習慣、伝統、正統――T・S・エリオツトと小林秀雄」と云ふ論文(「英文学」第九十四号)で詳述してゐるので、参照されたい。
――もう何年前になるのだらうか、小林秀雄が亡くなつたとき、或る日松原先生にお会ひすると、先生は「つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを」と云ふ在原業平の歌を口にされて、「死ぬと云ふのは結局かう云ふことなんだらうね」と感慨深げに仰有つた。勿論これは先生がまだまだお元気だつた頃の話である。先生が亡くなられたと聞いたとき、妙にこのときのことが思ひ出され、業平の歌が数日脳裡を離れなかつた。
(『英文学』<早稲田大学英文学会>第百三号<平成二十九年三月>より転載)
【編集部注】
松原正氏は早稲田大学名誉教授、2016年、86歳で死去。専門は英米文学。保守派の評論家としても活躍した。圭書房から全集が刊行中。
なお、本稿の転載については、筆者大島一彦氏の許諾を得ています。