小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

十 詞花をもてあそぶべし

1

 

藤原定家が「源氏物語」について言った「可翫詞花言葉」―詞花言葉をもてあそぶべし、は、宣長が詠歌の師と仰いだ定家自身によって、また歌学の師とした契沖を介して、宣長にもたらされた。この「可翫詞花言葉」を、宣長はどう解してどう実行したか、そこを前回、小林氏が第六章に引いている「あしわけ小舟」の一節で見た。

―源氏ヲ一部ヨクヨミ心得タラバ、アツパレ倭文ワブンハカカルル也、シカルニ今ノ人、源氏見ル人ハ多ケレド、ソノ詞一ッモ我物ニナラズ、今日文章カク時ノ用ニタタズ、タマタマ雅言ヲカキテモ、大ニ心得チガヒシテ、アラレヌサマニ、カキナス、コレミナ見ヤウアシク、心ノ用ヒヤウアシキユヘ也、源氏ニカギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ、心ヲ用テ、モシ我物ニナル時ハ、歌ヲヨミ、文章ヲカク、ミナ古人トカハル事ナカルベシ……

これに続けて小林氏は、―宣長の古典研究の眼目は、古歌古書を「我物」にする事、その為の「見やう、心の用ひやう」にあった、と言っている。ここから「翫ぶ」を一言で言えば、宣長にあっては習熟するということだろう。それも、読めるようになるだけではない、読んだ言葉を自在に使いこなして、文章が書けるまでになるということだ。この宣長の言うところに、現代の私たちの外国語学習の経験を取り合せてみてもあながち場ちがいではあるまい。英語、フランス語、ドイツ語等の文章を読むとき、初学者はまず「文章カク時ノ用ニ」立てようという「心ノ用ヒヤウ」などはなしで読み始める、が、そうして読んでいって、読むことは読めるようになっても、それだけではその英語なりフランス語なりがわが物になったとは言えない。宣長が定家と契沖に言われて実行した「翫詞花言葉」は、「文章カク時ノ用ニ」立てるというところまで心を用いた「源氏物語」の読み方であった。「源氏物語」の「詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ル」読み方であった。

 

2

 

定家の言った「可翫詞花言葉」が、「本居宣長」に姿を見せるのは第十七章である。これに続いて小林氏は、第十八章で「宣長の可翫詞花言葉」を丹念に追う。

―「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。なるほど契沖の遺したところは、見たところほんの片言に過ぎない。宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ。そうでも言うより他はないような厄介な経験に彼は堪えた。「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通してみせたのである。宣長の「源氏」による開眼は、研究というよりむしろ愛読によった、と先きに書いた意味もここにつながって来る。……

宣長は、「可翫詞花言葉」を確と腹に据えて「源氏物語」を愛読した。その愛読の「愛」がまず向かった先は、当然のことに「源氏物語」の詞花言葉、すなわち紫式部の言葉づかいであった。ところが、今日、

―専門化し進歩した近現代の「源氏物語」研究には、詞花を翫ぶというより詞花と戦うとでも言うべき図が形成されている。近現代の研究者たちは、作品感受の門を一度潜ってしまえば、あとはそこに歴史学的、社会学的、心理学的等々の補助概念をしこたま持ち込み、結局はそれらの整理という別の出口から出て行ってしまう。それを思ってみると、詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、また同じ門から出て来る宣長の姿が、おのずと浮び上って来る。出て来た時の彼の感慨が、「物語といふもののおもむきをばたづね」て、「物のあはれといふことに、心のつきたる人のなきは、いかにぞや」(「玉のをぐし」一の巻)という言葉となる。……

宣長の時代にも、有力な補助概念はあった、儒教道徳、仏教思想等がそれである。しかし宣長は、それらをいっさい持ち込まず、徹頭徹尾、詞花を翫んだ、そうすることで、「物語というもののおもむき」は「もののあはれ」にあると気づいたというのである。

では宣長の詞花の翫び方は、どれほどのものであったか。

―「源氏ヲ一部ヨクヨミ心得タラバ、アツパレ倭文ハカカルル也。シカルニ今ノ人、源氏見ル人ハ多ケレド、ソノ詞一ツモ我物ニナラズ、(中略)源氏ニカギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ」。これは「あしわけ小舟」の中にある文で、早くから訓詁くんこの仕事の上で、宣長が抱いていた基本的な考えであった。彼の最初の「源氏物語」論「紫文要領」が成った頃に、「手枕たまくら」という擬古文ぎこぶんが書かれた。……

「擬古文」とは、古い時代の語彙や語法を用いて作る文章だ。「源氏物語」に、六条ろくじようの御息所みやすどころという女性が登場する。彼女は「物の」の役をふられて物語に深く関係してくるのだが、「夕顔」の巻で光源氏の枕上に突然「いとをかしげなる女」の姿で坐る。だが、読者はもちろん、光源氏にもその正体はわからない。源氏との間にあったはずの過去については何も書かれていない。そこから宣長に、「夕顔」の前にもう一巻、挿入できるであろうという想像が浮かび、それが「手枕」制作の動因になったと思われるのだが、それとともに「手枕」の動機は、「源氏物語」の詞花言葉をより本格的に翫ぼう、「源氏」の言葉を自在に使いこなしてみようとしたところにあったようなのだ。

 

3

 

小林氏が、第十八章で言っている趣旨を、さらに汲んでいく。

―宣長は、「源氏物語」を「歌物語」と呼んだが、これには宣長独特の意味合があった。「歌がたり」とか「歌物がたり」とかいう言葉は、歌に関わりのある話を指して言う「源氏」時代の普通の言葉であったが、宣長は、「源氏物語」をただそういう物語のうちの優品と考えたわけではない。宣長の「源氏物語」の詞花に対する執拗な眼は、「源氏物語」という詞花による創造世界に即した真実性を何処までも追い、もし本質的な意味で歌物語と呼べる物があるとすれば、「源氏物語」こそがそうである、他にはないと、そう言ったのである。……

「源氏物語」という詞花による創造世界に即した真実性……、小林氏のこの言い方に注意しよう。

―作者は、「よき事のかぎりをとりあつめて」源氏君を描いた、と宣長が言うのは、勿論、わろき人を美化したという意味でもなければ、よき人を精緻に写したという意味でもない。「物のあはれを知る」人間の像を、普通の人物評のとどかぬところに、詞花によって構成したことを言うのであり、この像の持つ疑いようのない特殊な魅力の究明が、宣長の批評の出発点であり、同時に帰着点でもあった。……

「物のあはれを知る」人間の像を、詞花によって構成した……に注意しよう。

―彼の言う「あはれ」とは広義の感情だが、先ず現実の事や物に触れなければ感情は動かないとは言えるが、説明や記述を受付けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きているからこそ、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない。宣長が、事物に触れて動く「あはれ」と、「事の心を知り、物の心を知る」こと、すなわち「物のあはれを知る」こととを区別したのも、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成するという考えに基く。……

不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ安定しない、その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成する……に注意しよう。

 

4

 

見てきたとおり、本居宣長の代名詞と言っていいほど人口に膾炙している「もののあはれ」の説は、藤原定家と契沖によって示唆された「可翫詞花言葉」、この「心ノ用ヒヤウ」を徹底させて「源氏物語」を読むことで、宣長自身、初めて感じ取った「物語というもののおもむき」だったと小林氏は言うのである。

この、それまで誰の目にも映ることのなかった物語のおもむきを、宣長が初めて見てとるに至る道の出発点で、小林氏は、―「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った、契沖の遺したところは、見たところほんの片言に過ぎない、宣長は、この契沖の片言に、どれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ……と言っていた。だが、実を言えば、この契沖の片言に、どれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみたのは、小林氏自身だったのである。

 

小林氏は、第十七章で、契沖の「源註拾遺」に言及し、契沖の在来の「源氏」注釈に対する批判を紹介したあと、―だが、それなら、此の物語を、どう読んだらいいかということになると、「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と言っただけで、契沖は口を噤んだ……と書いていたが、「源註拾遺」そのものを開いてみると、「定家卿云。可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」は、正面きって言われているわけではないのである。

「源氏物語」を中国の春秋の筆法で論じるのは見当ちがいだ、「源氏物語」の書き方は一人の人間に美もあれば醜もあり、善もあれば悪もあるというのであり、この人物は善だ、この人物は悪だと峻別するような書き方はされていない、と言った後に、今度は「詩経」の詩との比較で、「此物語」すなわち「源氏物語」は、「人々の上に美悪雑乱せり。もろこしの文などになずらへてはとくべからず」と同様の趣旨を述べ、それに続けてこの項の最後に「定家卿云。可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と書かれているのである。しかもこの文言は、後から補入されたかたちになっている。たしかにこれは、「見たところほんの片言に過ぎない」のだ。この「片言」に目をとめ、小林氏は、「この片言にどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた」のである。その結果が先に見た第十八章の記述となったのである。

ということは、小林氏は、契沖の「片言」を針小棒大に解して振り回し、小林氏自身の解釈を宣長に押しつけたということなのか。むろんそうではない。小林氏の身体組織の重要な一部となっていた言語感覚が契沖の片言の含蓄をたちどころに察知し、その含蓄が宣長の仕事に一貫して認められるということを言ったのである。それというのも、すでに半世紀以上に及んでいた氏の批評活動は、常に言葉というものに対する批評活動でもあったからである。

 

小林氏が、昭和四年、二十七歳の秋、文壇に打って出た「様々なる意匠」は、こう書き出されている。

―吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔ながらの魔術を止めない。劣悪を指嗾しそうしない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。……

以来、小林氏は、ここで言っている言葉の人心眩惑の魔術に翻弄され続けるのだが、この言葉の人心眩惑の魔術という表現はけっして比喩ではない。青春時代、ボードレールの「悪の華」を読み続けていた小林氏の前に立ち現れ、立ちはだかった現実であり、小林氏はその現実の言語経験を告白したと思ってみてもいいのである。

氏の青春時代と言えば、まず第一にランボーが思い浮かぶが、ランボーと出会う前の小林氏はボードレールだった。「ランボオⅢ」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集所収)に書いている、

―当時、ボオドレエルの「悪の華」が、僕の心を一杯にしていた。と言うよりも、この比類なく精巧に仕上げられた球体のなかに、僕は虫の様に閉じ込められていた、と言った方がいい。その頃、詩を発表し始めていた富永太郎から、カルマンレヴィイ版のテキストを、貰ったのであるが、それをぼろぼろにする事が、当時の僕の読書の一切であった。……

ボードレールの「悪の華」を、ぼろぼろにすること、それはまさに、ボードレールの詞花言葉を翫ぶことだったと言っていい。ここには、これに続けて「僕は、自分に詩を書く能力があるとは少しも信じていなかったし、詩について何等明らかな観念を持っていたわけではない。ただ『悪の華』という辛辣な憂鬱な世界には、裸にされたあらゆる人間劇が圧縮されている様に見え、それで僕には充分だったのである」と言われていて、宣長が言った「スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ」までは必ずしも行ってはいなかったようだが、契沖の「定家卿云。可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」を目にした瞬間、小林氏がボードレールの「悪の華」と共にあった日々に思いを飛ばしたと想像してみることはできるだろう。

 

昭和二十五年、四十八歳の年の「表現について」(同第18集所収)には、ボードレールの象徴詩を論じてこう書いている。

―ボオドレエルの「ワグネル論」のなかに、こういう言葉があります。「批評家が詩人になるという事は驚くべき事かも知れないが、一詩人が、自分のうちに一批評家を蔵しないという事は不可能である。私は詩人を、あらゆる批評家中の最上の批評家とみなす」。これは、次の様な意味になる。……

近代は、様々な文化の領域を目指して分化し、様々な様式を創り出す傾向にあるが、詩人たちもまた科学にも歴史にも道徳にも首をつっ込み、詩人の表現内容は多様になったが、詩人には何が可能か、詩人にしかできないことは何か、という問題にはまともに向き合っていない、散文でも表現可能な雑多の観念を平気で詩で扱っている。

―それというのも、言葉というものに関する批判的認識が徹底していないからだ。詩作とは日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという極めて精緻な知的技術であり、霊感と計量とを一致させようとする恐らく完了する事のない知的努力である。それが近代詩人が、自らの裡に批評家を蔵するという本当の意味であって、若し、かような詩作過程に参加している批評家を考えれば、それは最上の批評家と言えるであろう。恐らくそういう意味なのであります……

ではこの詩作という、「日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという精緻な知的技術」であると同時に、「霊感と計量とを一致させようとする知的努力」はどういうふうに行なわれるのか。

―詩人は自ら創り出した詩という動かす事の出来ぬ割符わりふに、日常自らもはっきりとは自覚しない詩魂という深くかくれた自己の姿の割符がぴったり合うのを見て驚く、そういう事がやりたいのである。これはつまる処、詩は詩しか表現しない、そういう風に詩作したいという事だ。……

詩人は、ある閃きに突き動かされて言葉を集め、その言葉の組合せや配列を様々に試み、入れ替え、並べ替え、取り替えを無心に繰り返して詩という言葉の彫刻を得る、そして詩人は、そうして自ら彫り上げた言葉の彫刻を目にして驚く、それは、それまで自分自身でもはっきりとは自覚したことのない自分の姿、日頃は自分の内側に深く隠れていて一度も見ることのなかった自分の姿であると疑いもなく思われるからだ。すなわち、象徴詩の誕生である。

割符とは、コインを二つに割り、二人の人間が一片ずつ持ち、必要となったときそれらを合せてみて、それぞれの持ち主が正当な当事者であることの証としたものである。古代ギリシャではこれをsymbolonと言った、このsymbolonがフランス語ではsymboleとなり、日本では「象徴」と訳された。

 

5

 

恐らく、小林氏の脳裏では、定家と契沖が言った「詞花言葉」に、ボードレールが咲かせた象徴詩の詩語が連想されていただろう。すなわち、ボードレールの「『悪の華』という辛辣な憂鬱な世界」は、「裸にされたあらゆる人間劇が圧縮されてい」た「詞花言葉の世界」であり、さらに言えば「詞花による創造世界」だったのである。

この世界は、当然ながら現実の世界とは異なる。だが人間は、この、現実を超えた「詞花言葉の世界」を欲しがるように造られている、なぜなら、

―生活しているだけでは足りぬと信ずる処に表現が現れる。表現とは認識なのであり自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意志的な意識的な作業なのであり、引いては、いかに生くべきかの実験なのであります。こういうところで、生活と表現とは無関係ではないが、一応の断絶がある。悲しい生活の明瞭な自覚はもう悲しいものとは言えますまい。人間は苦しい生活から、喜びの歌を創造し得るのである。環境の力はいかにも大きいが、現に在る環境には満足出来ない、いつもこれを超えようとするのが精神の最大の特徴であります。……

これも、「表現について」で言っている。実生活は、実は何物でもない、捉えどころがないからだ、実生活は言葉で捉えられて初めて所を得る、これはまさに、小林氏が「本居宣長」の第十八章で言ったことと符合する。要点をもう一度引く。

―彼(宣長)の言う「あはれ」とは広義の感情だが、不安定で曖昧なこの現実の感情経験は、作家の表現力を通さなければ、決して安定しない。その意味を問う事の出来るような明瞭な姿とはならない。宣長が、事物に触れて動く「あはれ」と、「事の心を知り、物の心を知る」こと、すなわち「物のあはれを知る」こととを区別したのも、「あはれ」の不完全な感情経験が、詞花言葉の世界で完成するという考えに基く。……

文中の「作家」を「詩人」と読み替えれば、紫式部が「源氏物語」に傾けた「歌物語」の努力は、ボードレールが傾けた象徴詩の努力と相呼応するものだったと言えるだろう。小林氏は、常に人間がこの世に生きている、生かされている、その万人共通の基本構造を見出し見届けようとした。その人間の基本構造には洋の東西も時代の新旧もない、そういう意味において言葉の魔術、小林氏が「様々なる意匠」の冒頭で言った「遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔ながらの魔術を止めない……」は、一様に紫式部も宣長も、ボードレールも見舞っていた、むろん小林氏も見舞われていた、ということなのである。

「表現について」と同年に書かれた「詩について」では、こう言っている。

―私が象徴派詩人によって啓示されたものは、批評精神というものであった。これは、私の青年期の決定的な事件であって、し、ボオドレエルという人に出会わなかったなら、今日の私の批評もなかったであろうと思われるくらいなものである。……

小林氏は、終生、このボードレールに教えられた「言葉というものに関する批判的認識」に心を砕いた。よく知られた氏の言葉に、「批評とは他人をダシにして己れを語ることである」があるが、氏の言う「批評」は二重の意味から成っている。他人という言及対象に対する批評と、その批評を表現する自分の言葉に対する批評とである。氏の眼は複眼なのである。

 

そういう小林氏の前に、本居宣長が現れたのである。宣長は、国学者と呼ばれる古典学者であった。「源氏物語」の研究者であり、「古事記」の研究者であった。しかし、それらすべてを貫いていたのは「言辞学」であった。言葉というものの使われ方を明らめることで人間が人間本来の生き方で生きた道を跡づける、それが宣長の学問であった。小林氏が、批評文を書いて追究してきたこともそれだった。小林氏が、本居宣長を生涯最後のダシとしたのは、そういう言葉のえにしによったのである。

 

小林氏は「本居宣長」で、根本的には「人間にとって言葉とは何か」を書こうとしたのである。「もののあはれ」とは何かについても、氏は宣長の言う「もののあはれ」は紀貫之とはどう違っていたかを言うだけで、この小文の第五回で見たような、「源氏物語事典」や「日本古典文学大辞典」で言及されている貴族の嗜み、知恵教養としての「もののあはれ」は見向きもしなかった。「もののあはれを知る」についても、第六回で見た江戸期の庶民感情、すなわち、日常生活で求められる他人への心づかいや同情心を意味する言葉としての「もののあはれ」には目もくれない。

宣長にとって、というより小林氏にとって、「もののあはれ」も「もののあはれを知る」も、詞花言葉による創造世界である「歌」の真実性、「物語」の真実性、それだけが重要なのであり、「本居宣長」の全五十章を通して、小林氏の主題は人間にとって言葉とは何か、そこに集中しているのである。

 

宣長が「源氏物語」に見たと小林氏が言った「詞花言葉による創造の真実」、この真実を、小林氏自身が氏の批評文で示した一例を挙げておく。よく知られた「モオツァルト」(同15集所収)の一節である。

―スタンダアルは、モオツァルトの音楽の根柢はtristesse(かなしさ)というものだ、と言った。正直な耳にはよくわかる感じである。浪漫派音楽がtristesseを濫用して以来、スタンダアルの言葉は忘れられた。tristesseを味う為に涙を流す必要がある人々には、モオツァルトのtristesseは縁がない様である。それは、凡そ次の様な音を立てる、アレグロで。……

そう言って、「ト短調クインテット、K. 516.」(弦楽五重奏曲第四番ト短調)の第一楽章第一主題の譜を引いて言う。

―ゲオンがこれをtristesse allanteと呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じを一と言で言われた様に思い驚いた(Henri Ghéon; Promenades avec Mozart.)。確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先きにもない。まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駈け抜ける。……

 「allante」はフランス語、「aller」(行く)の現在分詞で、活動的な、溌溂とした、などが原義である。

(第十回 了)