小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

十一 思想と実生活

1

 

藤原定家が残し、契沖が受け継ぎ、宣長に渡った「詞花言葉を翫ぶべし」、すなわち「源氏物語」を読むにあたってのこの心得は、宣長に「物語といふもののおもむき」は「物のあはれといふこと」にあるという発見をもたらし、さらには、彼の「源氏物語」の詞花に対する執拗な眼は、「源氏物語」という詞花言葉による創造世界に即した真実性をどこまでも追い、光源氏は、「もののあはれ」を知り尽した人間としての像を詞花言葉によってのみ形づくられていると見て、この像の持つ特殊な魅力を究明することが宣長の批評の出発点であり、帰着点でもあったと小林氏は言った。

 

なるほど、そうか、とは思う。しかし、この「詞花言葉による創造世界に即した真実性」ということは、私たちにはおいそれとは合点がいきにくい。それというのも、私たちは、幼い頃から文学鑑賞のための特殊な眼鏡を持たされているからだ。一言で言えば、「写実」という眼鏡である。小林氏もそのあたりはわかっていて、というより、この眼鏡の強度を警戒して、「詞花言葉による実」に「写実」の「実」を対置し、それによって「詞花言葉による創造世界に即した真実性」とは何かを合点してもらおうとかなりの頁を割いている。

この「写実」という眼鏡が、日本に現れた最初は、明治十八年(一八八五)から十九年にかけて、小説家であり評論家であった坪内逍遥が書いた「小説神髄」である。

―坪内逍遥は、「小説神髄」で、欧洲の近代小説の発達にかんがみ、我が国の文人ももう一度小説の何たるかを反省するを要すると論じた。文学史家によって、我が国最初の小説論とされているのは、よく知られている。「畢竟、小説の旨とする所は、専ら人情世態の描写にある」事を悟るべきである。その点で、本居宣長の「玉のをぐし」にある物語論は、まことに卓見であり、「源氏物語」は、「写実派」小説として、小説の神髄に触れた史上稀有の作である。……

小林氏は、こう説き始めて、続ける。

―この意見は有名で、「源氏物語」や宣長を言う人達によって、屡々言及されるところだが、逍遥が、「源氏」や宣長の著作に特に関心を持っていたとは思えないし、ただ小説一般論に恰好な思い附きを出ないのだが、逍遥の論が、文学界の趨勢を看破した上でのものだった事には間違いはないのだから、思い附きも時の勢いに乗じて力強いものとなった。……

「写実」とは、何かを表現するにあたって、素材としての現実と、その現実の正確な描写を重視する技法を言う。したがって、「写実」の「実」とは「現実」、すなわち事実として目の前に現れている物事である。十八世紀のイギリスに興り、十九世紀のヨーロッパでは自然主義と呼ばれる一大文学運動の土台となり、日本には開国とともに押し寄せた西欧文化の一環として明治十年代に入った。小林氏が、「逍遥の論が、文学界の趨勢を看破した上でのものだった事には間違いはない」と言っているのは、そういう時代背景を踏まえてのことである。

こうして私たちは、写実主義とか現実主義とか呼ばれる強い考え方の波に乗り、人情世態の描写を専らとした小説が「文学」の異名となるほどまでに成功を収めた文芸界の傾向のうちに今もいると小林氏は言い、逍遥の後、与謝野晶子の「源氏物語」の現代語訳が現れ、谷崎潤一郎の訳も現れた。こうして、現代語訳という「源氏物語」に通じる橋は、今日では「源氏物語」に行く最も普通の通路となったが、そこを通っていく人たちは、その道が写実小説と考えられた「源氏物語」にしか通じていないことに気づいていない、それほどに、言葉そのものよりも言葉の現わす事物の方を重んじる現実主義の時代の底流は強いのだと小林氏は言うのである。

 

2

 

谷崎潤一郎の「源氏物語」訳は、昭和十年(一九三五)から十三年までをかけて行われ、戦後も二回にわたって訂正版が出された後、三十九年、現代仮名づかいによって決定版が出された。それほどに谷崎は、「源氏物語」に打ちこんだのだが、これはひとえに「源氏物語」の表現技法を体得するところにその眼目があったようだと小林氏は言う。谷崎には、代表作のひとつに長篇小説「細雪」があるが、

―「細雪」は、「源氏」現代語訳の仕事の後で書かれた。谷崎氏が「源氏」の現代語訳を試みた動機、自分には一番切実なものだが、人に語る要もない動機は、恐らく「源氏」の名文たる所以を、その細部にわたって確認し、これを現代小説家としての、自家の技法のうちに取り入れんとするところにあったに相違あるまい、と私は思っている。……

だが、それとは裏腹に、谷崎は次のように言っている。谷崎には、光源氏はよほどやりきれない男と映っていたらしく、

―例えば、須磨へ流されたこの男の詠んだ歌にしても、本心なのか、口を拭っているのか、「前者だとすれば随分虫のいい男だし、後者だとすればしらじらしいにも程がある、と言いたくなる」、「源氏の身辺について、こういう風に意地悪くあら捜しをしだしたら際限がないが、要するに作者の紫式部があまり源氏の肩を持ち過ぎているのが、物語の中に出てくる神様までが源氏に遠慮して、依怙贔屓えこひいきをしているらしいのが、ちょっと小癪こしやくにさわるのである」……

作家・谷崎潤一郎にとっては、別して「源氏物語」の偉大さを論じてみなくても充分であったろう、しかし批評家・谷崎潤一郎としては、「源氏物語」の作者の「めめしき心もて」書かれた人性批評の、「おろかげなる」様は記して置かねばならなかった、と小林氏は言う。つまり、批評家・谷崎潤一郎は、光源氏を自分と同じ人間社会の人物同然に見て不服を言っている、というのである。

 

そしてもうひとり、「源氏物語」の読者として小林氏が挙げているのは正宗白鳥である。正宗は、谷崎とはちがって「源氏物語」悪文論者だが、昭和八年、たまたまイギリスの東洋学者ウェレイ(ウェイリー)の英訳に接し、これを、「源氏物語」の原文の退屈と曖昧とを救った「名訳」と感じ、この「創作的飜訳」を通じてはじめて「源氏物語」に感動することを得た、「紫式部の『物語』にはいて行けない気がして、この舶来の『物語』によって、新たに発見された世界の古文学に接した思いをしている」と『東京朝日新聞』に書いた。

そして、「源氏物語の偉大さ」については、このように言った。「日本にもこんな面白い小説があるのかと、意外な思いをした。小説の世界は広い。世は、バルザックやドストエフスキーの世界ばかりではない。のんびりした恋愛や詩歌管絃にふけっていた王朝時代の物語に、無限大の人生起伏を感じた。高原で星のきらめく広漠たる青空を見たような気がした」……

さらに正宗は、昭和九年に発表した「文学評論」ではこうも言った。

―「源氏物語」、特にその「後篇たる宇治十帖の如きは、形式も描写も心理の洞察も、欧洲近代の小説に酷似し、千年前の日本にこういう作品の現われたことは、世界文学史の上に於て驚嘆すべきことである」……

 

谷崎潤一郎と正宗白鳥、いずれも「源氏物語」に高評価を与えた人だが、どちらも双手を挙げてというふうには行っていない。問題は、ここである。小林氏は、与謝野晶子や谷崎潤一郎の現代語訳という「源氏物語」に通じる橋は、実は北村透谷以来、写実小説と考えられた「源氏物語」にしか通じていないと言ったあとに言う。

ことばより詞の現わす実物の方を重んずる、現実主義の時代の底流の強さを考えに入れなければ、潤一郎や白鳥に起った、一見反対だが同じような事、つまり、どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい、動かされていながら、その経験の語り口は、同じように孤独で、ちぐはぐである所以が合点出来ない。……

谷崎も正宗も、逍遥と同じく「源氏物語」を写実小説と読んだのである。谷崎は、光源氏を語る「源氏物語」の言葉よりも、言葉によって語られた光源氏という事物の方を重んじて不服を並べた。正宗は、「源氏物語」を原文ではなく英訳で読み、そこにヨーロッパの近代小説との酷似を見て絶讃した。どちらも、「源氏物語」を「詞花によって創造された世界」と読み、そのうえでその詞花によって創造された真実を読むということはしなかった。そこに問題があった。

ただし、念のために言い添える。小林氏は、こう論じたからと言って、正宗と谷崎を誹謗しているのではない、無力だと言っているのではない。逆である。正宗白鳥、谷崎潤一郎、この二人は、小林氏が同時代の作家のなかでもとりわけて敬愛した作家である。この日本の近代を代表する大作家二人にしてなお宣長が経巡った「詞花言葉の世界」は目に映らなかった。それほどに、「写実」という眼鏡は日本の近代文学全体に行きわたり、その「写実」という眼鏡から自由になることは並み大抵のことではなかった、小林氏はそれが言いたかったのである。

そこをまた逆から言えば、小林氏は、ことほどさように紫式部が「源氏物語」に張った物語作者としての深謀遠慮は読み解きがたく、それを読み解いた最初で最後の読者である宣長の炯眼が、どれほどのものであったかを近代文学の側から照らそうとしたとも言ってよいのだが、逍遥、正宗、谷崎と、「源氏物語」を「写実小説」と読ませた現実主義の底流は、自然主義と呼ばれた世界文学の激流であった。

 

3

 

自然主義とは、元は十九世紀の後半、フランスを中心として興った文芸思潮である。これに先立って十九世紀の半ば、ヨーロッパに写実主義が興り、現実を尊重して客観的に観察し、それをありのままに描き出すことを標榜したが、自然主義は、その写実主義の延長上に興った。『新潮日本文学辞典』等によれば、人間の生態や社会生活といった現実を直視し、その現実のありのままを忠実に描写することを第一とする思潮であり運動であった。

フランスで、十七世紀以来急速の進歩を遂げた自然科学に刺激され、自然科学の方法こそが真理探究の手段と信じて文学に導入したゾラに始り、モーパッサンらに受け継がれたが、フロベール、ゴンクール兄弟などもゾラの先駆と位置づけられ、日本には明治の後期に伝わって四十年頃から顕著になった。

その日本では、作家自身の内面的心理や動物的側面を赤裸々に告白したり、平凡な人生を平凡のまま描写したりする行き方をとった。島崎藤村の「破戒」や「新生」、田山花袋の「蒲団」などがよく知られているが、他に岩野泡鳴、徳田秋声らがおり、正宗白鳥も自然主義の代表的作家とされている。

いっぽう谷崎潤一郎は、反自然主義の旗手として立った永井荷風の推賞によって文壇に出、彼も自然主義を批判する側で作品を発表しつづけた。だが荷風も潤一郎も、人間を情念の奴隷と見る点においては自然主義の感化を受けており、自然主義の延長上にいると『新潮日本文学辞典』の筆者、中村光夫氏は言っている。

 

この文学界の自然主義が、私たち読者にも「写実」という眼鏡を持たせたのである。中村光夫氏は、こうも言っている。―ヨーロッパ文学の影響のもとに日本文学の近代化を企図してきた明治の文学者は、近代化される社会における文学の存在意義を探求し、近代人の鑑賞に耐える文学を求めて二〇年を費やした、自然主義はたんなる文学者の主張ではなく社会にみなぎる時代思潮の文学への現れとみなされ、同時代の作家たちで、芸術的にはそれに反対した者も倫理的にはその影響を強く受けた……。

こうして日本の小説は、私たちに、小説として書かれている事件や物事は、小説の素材となった事件や物事がそのまま写されているという先入観を植えつけ、その先入観で、小説だけでなく文字で書かれたものすべてを読む癖をつけるに至った。

そこへさらに、実態如何はともかく「事実の正確な報道」を謳うジャーナリズムの発達があった。近年では出版界にノンフィクションというようなジャンルも現れて、ますます言語表現と現実とは相似の関係にある、否、相似でなければならないというような考え方さえ強くなっている。

小林氏に、「源氏物語」という「詞花言葉による創造世界に即した真実性」と言われても、なかなか合点できないというのは、こうして刷りこまれた先入観に気づくこと自体がまずもって容易でないからである。

 

さてそこで、正宗白鳥である。正宗も自然主義を代表する作家である。したがって、先に引いた正宗の「源氏物語」に対する驚嘆と感服は、「源氏物語」が「形式も描写も心理の洞察も、欧洲近代の小説に酷似し」ていたというところにあったのだが、ここで言われている「欧洲近代の小説」は、正宗自身が言っているバルザックやドストエフスキーの小説もさることながら、「欧州の自然主義小説」と受取ってよいだろう。小林氏は、正宗の「源氏物語」の読み方に対して、「どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい……」と言っていたが、正宗の身に染みついた自然主義の観点だけは、正宗があえて設けようとしなくても常に設けられていた。

小林氏は、「源氏物語」に関しては正宗の自然主義を表に出していないが、氏の口調には、畑違いの「源氏物語」を読んでもおのずと現れていた正宗の自然主義気質に苦笑しているさまが明らかに読み取れる。正宗の「源氏物語」に対する発言は、昭和八年と九年だが、十一年の年明け早々、氏は正宗と熾烈な論争を繰り広げていた。

小林氏は、自然主義であれ浪漫主義であれ古典主義であれ、主義という規格に則って文学を鑑賞したり批評したりすることは文壇にデビューした「様々なる意匠」以来、厳しく指弾していた。その線上で、正宗とも、自然主義という思考の型をめぐって烈しく衝突したのである。

 

発端は、昭和十一年の一月、正宗が『読売新聞』に書いた「トルストイについて」だった。一九一〇年一〇月、八十二歳になっていたトルストイは、侍医ひとりを伴って家出した。途中、肺炎に罹り、家を後にしてからほぼ十日後、田舎の小駅の駅長官舎で息をひきとった。日記によれば、彼の家出は妻を怖れたからであるらしい。人生救済の本家のように言われている文豪トルストイが、妻を怖れて家出し、最後は野たれ死にするに至ったと知ってみれば、悲壮でもあり滑稽でもあり、人生の真相を鏡にかけて見るようだと正宗は書いた。

小林氏は、ただちに「作家の顔」を書いて反駁した。トルストイにかぎらない、「偉人英雄に、われら月並みなる人間の顔を見付けて喜ぶ趣味が僕にはわからない」、偉人英雄が、その一生をかけた苦しみを通して獲得し、これが人生だと示してくれた思想は、とうてい凡人の獲得できるものではない、せっかくのそういう思想を棚上げし、偉人英雄の一生を凡人並みに引下ろして何になる、「リアリズムの仮面を被った感傷癖に過ぎない」と詰め寄った。

小林氏が「思想」と言うとき、それはイデオロギーではない。イデオロギーは、特定の社会階級や社会集団の主張を総括した信条や観念のことだが、「思想」は本来、個人のものだ。各個人がそれぞれの個性で獲得した人生への認識をいうのである。このことは、この小文の第二回でも述べたが、私たちは一人一人、何かを出来上がらせようとして希望したり絶望したり、信じたり疑ったり、観察したり判断したり、決意したりしている、それが「思想」というものだと小林氏は言っている。

小林氏の「作家の顔」に正宗は反論し、これに対する小林氏の「思想と実生活」にも反論したが、小林氏の第三弾、「文学者の思想と実生活」には答えず、この論争は結局のところは決着を見なかった。だが小林氏は、この論争を通じて、氏の批評活動の主調低音とも言うべき重要な発言を行った。

 

まずは、「作家の顔」で言った。

―あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。……

これに対して正宗は、必ずしも愚説ではないが、トルストイが細君を怖れたことに変りはないと言い、「トルストイの思想に力が加わったのは、夫婦間の実生活が働きかけたためである。実生活と縁を切ったような思想は、幽霊のようで力がないのである」と切り返した。

小林氏は、「思想と実生活」で、正宗の文学観の根本に舌鋒を向けた、正宗らは、

―彼(トルストイ)の晩年の悲劇は人生そのものの象徴だという。人は欲するところに、欲する象徴を見る。彼の晩年の悲劇が人生そのものの象徴なのではない。そこに人生そのものの象徴を見ると言う事が、正宗氏らのように実生活に膠着し、心境の練磨に辛労して来たわが国の近代文人気質の象徴なのである。……

さらに、「文学者の思想と実生活」ではこう言った、

―僕は、正宗氏の虚無的思想の独特なる所以については屡々書きもしたし、尊敬の念は失わぬ積りであるが、氏の思想にはまたわが国の自然主義小説家気質というものが強く現れているので、そういう世代の色合いが露骨に感じられる時には、これに対して反抗の情を禁じ得なくなるのである。わが国の自然主義小説の伝統が保持して来た思想恐怖、思想蔑視の傾向は、いろいろの弊害を生んだのである。……

続けて、言った。

―文学者の間には、抽象的思想というものに対する抜き難い偏見があるようだ。人間の抽象作業とは、読んで字の如く、自然から計量に不便なものを引去る仕事であり、高尚な仕事でも神秘的な仕事でもないが、また決して空想的な仕事でもない。抽象的という言葉は、屡々空想的という言葉と混同され易いが、抽象作業には元来空想的なものは這入り得ないので、抽象作業が完全に行われれば、人間は最も正確な自然の像を得るわけなのだ。何故かというと抽象の仕事は、自然から余計なものを引去る仕事であり、自然の骨組だけを残す仕事だからだ。……

今日、「抽象的」という言葉は、否定的に扱われることが圧倒的である。君の話は抽象的でよくわからない、もっと具体的に言ってくれ、といったふうにである。しかし、たとえば『日本国語大辞典』には、「抽象的」とは「個々の事物の本質・共通の属性を抜き出して、一般的な概念をとらえるさま」とある。すなわち、「抽象する」とは、まさに小林氏が言っているとおり、「自然から余計なものを引去る仕事」であり、「自然の骨組だけを残す仕事」なのである。

ここから小林氏が最初に言った言葉、―あらゆる思想は実生活から生れる、併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか……を読み直せば、およそ次のような意味合になる。

思想とは、むろん実生活から生まれるものだが、実生活という自然には、余計なものがたくさん貼りついている、その余計なものを引き去り、実生活の骨組みだけを残した最も端的な実生活の像、それが思想である。したがって、思想が実生活に訣別するとは、人それぞれの実生活から汲み上げられた様々な想念も、個人レベルの行動経験も、徐々に、意識的に濾過して、人間誰もにあてはまる人性、すなわち、人間誰もに具わっている人間としての基本構造に対する認識、それだけを得るということである。

だから小説は、現実をなぞって写しただけでは何物でもない、そこに現実の骨組み、すなわち「思想」が映っていなければ、あるいは鳴っていなければ、小説として書かれた現実に意味はないのである。

そうであるなら、読む側も、そこに書かれていることを作者の実生活へ引き戻すのではなく、実生活を透かして見える「思想」、作者が実生活から抽象した「人性の基本構造」を読み取る、それが大事である。「源氏物語」は紫式部の実生活が書かれたものではないが、そこに書かれていることの素材やモデルを当時の歴史に求めたり、現代の私たちの実生活に引き比べて読もうとしたりするのは徒労である、読むべきことは厳然としてある、それこそが「詞花言葉による創造世界に即した真実」、すなわち、紫式部が語って聞かせようとした「もののあはれを知る」という思想である。

 

4

 

小林氏は、第十八章で言っている。

―詞花の工夫によって創り出された「源氏」という世界は、現実生活の観点からすれば、一種の夢というより他はない。質の相違した両者の秩序の、知らぬうちになされる混同が、諸抄の説の一番深いところにある弱点である事を、宣長は看破していた。「源氏」が精緻な「世がたり」とも見えたところが、人々を迷わせたが、その迫真性は、作者が詞花に課した演技から誕生した子であり、その点で現実生活の事実性とは手は切れている。「源氏」という、宣長の言う「夢物語」が帯びている迫真性とは、言語の、彼の言う「歌道」に従った用法によって創り出された調べに他ならず、この創造の機縁となった、実際経験上の諸事実を調査する事は出来るが、先ずこの調べが直知出来ていなければ、それは殆ど意味を成すまい。……

「諸抄」の「抄」とは、注釈書である。それら過去の注釈書は、いずれも「源氏物語」は一種の夢であるとは思わず、現実社会の写し絵と読んで道徳・不道徳を論じたりしていた。たしかに「源氏物語」は、一見精緻な世間話とも見えるが、その迫真性は、紫式部がそこで用いる言葉を人間の俳優のように扱い、一語一語に演技をつけながら文章を綴ったことによる。したがって、「源氏物語」で言われていることと、人間社会の現実とはまったくの別物であると知っておかなければならないと、小林氏は、正宗白鳥との論争で言ったことをここでも言うのである。

では、その迫真性は、言語の、宣長の言う「歌道」に従った用法によって創り出された調べに他ならぬ、とはどういうことだろう。

―歌人にとって、先ず最初にあるものは歌であり、歌の方から現実に向って歩き、現実を照らし出す道は開けているが、これを逆に行く道はない。これは、宣長が、「式部が心になりても見よかし」と念じて悟ったところであって、従って、「物のあはれを知る」とは、思想の知的構成が要請した定義でも原理でもなかった。彼の言う「歌道」とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声なのであり、それが、人間性の基本的な構造に共鳴する事を確信したのである。……

「歌人にとって最初にあるものは歌であり、歌の方から現実に向って歩き、現実を照らし出す道は開けているが、これを逆に行く道はない」とは、およそこういうことである。歌人には、詠みたいと思う自然なり人事なりが先にあることはあるのだが、それが歌人自身にも明確に見えていたり感じられたりしているのではない。感動であれ悲傷であれ、歌人自身にも確とは見届けられない、掴みきれない心の動揺がある。それを見届けたい、掴みたいと思う気持ちが歌になっていくのだが、そのために、動揺する心をまず鎮めて見届けよう、掴もうとするのではなく、とにもかくにも何か手がかりになるような言葉をひとつ書いてみる、そうすると言葉が言葉を呼んで、いつしかおのずと歌が出来上がる。この出来上がった歌から最初に動揺していた心を照らし出すことはできる、しかし、最初に動揺していた心で歌を説明することはできない。なぜならそこに出来上がっている歌は、もはや最初の心の写しではない、言葉が歌になろうとしていくつかの言葉を呼んでいるうち最初の心は抽象され、心という自然から余計なものが引去られ、心の骨組だけが残っている状態、それが歌である。心という「自然の最も正確な像」である。この歌というものの出てくる仕組みは、第二十二章に精しい。そこへはいずれ、しっかり足ごしらえをして訪ねていくことになるのだが、ここにも骨子は引いておこう。

―「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ」と言う。「ソノ心ヲシヅムルト云事ガ、シニクキモノ也。イカニ心ヲシヅメント思ヒテモ、トカク妄念ガオコリテ、心ガ散乱スルナリ。ソレヲシヅメルニ、大口訣ダイクケツアリ。マヅ妄念ヲシリゾケテ後ニ、案ゼントスレバ、イツマデモ、ソノ妄念ハヤム事ナキ也。妄念ヤマザレバ、歌ハ出来ヌ也。サレバ、ソノ大口訣トハ、心散乱シテ、妄念キソヒオコリタル中ニ、マヅコレヲシヅムル事ヲバ、サシヲキテ、ソノヨマムト思フ歌ノ題ナドニ、心ヲツケ、或ハ趣向ノヨリドコロ、辞ノハシ、縁語ナドニテモ、少シニテモ、手ガヽリイデキナバ、ソレヲハシトシテ、トリハナサヌヤウニ、心ノウチニ、ウカメ置テ、トカクシテ、思ヒ案ズレバ、ヲノヅカラコレヘ心ガトヾマリテ、次第ニ妄想妄念ハシリゾキユキテ、心シヅマリ、ヨク案ジラルヽモノ也。(中略)マヅ心ヲスマシテ後、案ゼントスルハ、ナラヌ事也。情詞ニツキテ、少シノテガヽリ出来ナバ、ソレニツキテ、案ジユケバ、ヲノヅカラ心ハ定マルモノトシルベシ。トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ」……

紫式部は、「源氏物語」をこういうふうに、歌を詠むのと同じように書いた、だからその迫真性は、現実生活の事実性とは手が切れている。そして、ここでこうして私たちを襲ってくる迫真性こそは、「詞花言葉による創造世界の真実性」なのである。

 

先に、小林氏は正宗白鳥との論争を通じて、生涯にわたる批評活動の主調低音とも言うべき重要な発言を行ったと言ったが、それを統べるのは次の一言であった。

―あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。……

私がこれを、小林氏の批評活動の主調低音とみなした理由は、もう察してもらえていると思う。つい先ほど読んでいただいた「本居宣長」の第十八章でも鳴っているが、これに類する発言は「小林秀雄全集」の随所で見られるのである。

だがいま、「本居宣長」を読むうえで、しっかり聴き取っておきたいのは第三章である。小林氏は、

―松阪市の鈴屋すずのや遺跡を訪れたものは、この大学者の事業が生れた四畳半の書斎の、あまりの簡素に驚くであろう。……

と言い、次いで、こう言っている。

―物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。……

(第十一回 了)