編集担当としては、嬉しくもまた、奇遇に驚くばかりなのであるが、その嬉しい驚きを繋ぐテーマは、私たちの学び舎、山の上の家の「椅子」である。
光嶋裕介さんは、「巻頭随筆」において、その「肘掛のついた上品なアンティーク調の椅子」に注目された。ただし、その視線が注がれた対象は、坐っているべき人の「不在による強い存在感」である。建築家ならではともいえる、その「空席」への視線は、「師への眼差し」へと昇華する。
奇しくも、「人生素読」で、冨部久さんの眼が向かった先もまた、その「二脚の木製椅子」である。素材や製作の起源を求めて、関連書籍の著者まで辿って行かれた熱意は、木材の専門家としてのそれだけではない。日々の生活のなかでも、美を求める心を持ち続けておられた小林先生に対する「深い愛情」でもある。
お二人の視線は、私たち塾生の、その「椅子」を見る眼もまた変えさせてくれる明眼である。
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「美を求める心」に寄稿された、橋岡千代さんは、地元京都で求道を続けている「茶の湯」の世界における美について、からだ全体で味わうという実体験をもって綴られている。読み進めるにつれて、あたかも自分自身が静謐の茶室に坐し、一期の喫茶に臨んでいるように感じてくる。
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「本居宣長『自問自答』」は、櫛渕万里さんと村上哲さんに寄稿頂いた。
櫛渕さんは、小林先生が「うひ山ぶみ」から引く、「此身の固め」、「甲冑をも着ず素膚にして戦ひて」という言葉に注目された。あきらめることなく追い求めた結果、その正体が「やまとたましひを堅固くする」ことにあったことを突き止める。それは「生きた心が生きた心に触れる」体験でもあったという。
村上哲さんは、「古事記伝」の「伝」たる名付けの由縁について、思いを馳せておられる。宣長さんにとっては、外からの註釈で「古事記」を説きなすのではなく、「古言のふり」に従って「ただ『伝へ』る事こそが重要であったに違いない」という。このこともまた、宣長さんが言うところの「やまとだましひ」「やまとごころ」の現れと言えよう。
思えば、光嶋さんが「巻頭随筆」で、「知識としての情報を手に入れるといった類の『交換原理』」ではなく、「模範解答のない『切実な問い』を発見し、その答えらしきものを『考え続ける』深度」こそが肝心と感得されていることも、くわえて橋岡さんが実践されている、五感を十全に発揮し、茶の湯と一体化する態度もまた、「やまとごころ」と言えるのではなかろうか。
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謝羽さんの小説「春、帰りなむ」は、後編に入り、いよいよ話もクライマックスを迎えた。小説という、私たちの実生活に、より近い形の描写として読み直すことで、参考附記の小林先生の文章にある「大和心、大和魂」について書かれた内容を、より親身に、さらに深く味わえることと思う。夫婦による、歌の贈答の織りなす綾とともに、じっくりとお愉しみ頂きたい。
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私たちの塾も、新しい仲間を迎え、新しい年度を迎えようとしている。本号の原稿を読み直してみて、こういう思いを新たにした。
2018年度もまた塾生の皆さんとともに、「やまとだましひ」を知るという直き態度で「本居宣長」にむかい、その「椅子」に坐っておられるべき小林先生との対話を深めながら、百尺竿頭に一歩を進めていきたい。
(了)