ブラームスの勇気

杉本 圭司

十二

ある時、小林秀雄は、「私はもう演奏家で満足です。独創的な思想家というものは……」と吉田秀和に語ったことがあったという。ただそれが、「独創的な思想家というものはもう出つくした」ということだったのか、「自分がそうでないことがわかった」ということであったのか、その先ははっきり思い出せないと吉田秀和は回想している(「演奏家で満足です」)。

小林秀雄が言った「演奏家」を「批評家」に、「独創的な思想家」を「作家」に置き換えてみれば、この発言は嘗て彼が志賀直哉に書き送った「僕はこの頃やつと自分の仕事を疑はぬ信念を得ました。やつぱり小説が書きたいといふ助平根性を捨てる事が出来ました」という表明の一変奏となるだろう。だがこの発言は、戦前になされたものではない、「モオツァルト」を発表したさらに後になってからのものである。ならば、この「演奏家」は「コメディ・リテレール」座談会で言われた「平凡な解説」者に、「独創的な思想家」とは「早く獲物がしとめたい猟師」としての批評家に置き換えてみるべきだろう。そうすれば、前者の「原文尊重という智慧」、すなわち「古典を愛してそのまま読む、幾度も読むうちに原文の美がいよいよ深まって来る」という批評の方法が、主観的な解釈を避けてひたすら原曲に肉薄しようと努める演奏家の態度に相似したものであることがわかるはずである。しかも小林秀雄の言う「演奏家」は、ただ他人の音楽を奏でる者の謂ではなかった。彼に言わせれば、作曲家モーツァルトもまた、訓練と模倣とを旨とする「演奏家」であったからである。

 

彼の教養とは、又、現代人には甚だ理解し難い意味を持っていた。それは、殆ど筋肉の訓練と同じ様な精神上の訓練に他ならなかった。或る他人の音楽の手法を理解するとは、その手法を、実際の制作の上で模倣してみるという一行為を意味した。彼は、当代のあらゆる音楽的手法を知り尽した、とは言わぬ。手紙の中で言っている様に、今はもうどんな音楽でも真似出来る、と豪語する。彼は、作曲上でも訓練と模倣とを教養の根幹とする演奏家であったと言える。彼が大即興家だったのは、ただクラヴサンの前に座った時ばかりではないのである。独創家たらんとする空虚で陥穽に充ちた企図などに、彼は悩まされた事はなかった。(「モオツァルト」)

 

モーツァルトの音楽は、当代の様々な音楽の模倣に過ぎないというのではない。またそれは、あらゆる模倣の訓練を終えた後に新たに書き始められたと言っているのでもない。その音楽の掛けがえのない独創性は、モーツァルトが当代のあらゆる音楽を模倣し尽くした、まさにその瞬間に生じたと言っているのである。、文章は次のように続く。

 

模倣は独創の母である。唯一人ほんとうの母親である。二人を引離して了ったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る。これは、日常社会のあらゆる日常行為の、何の変哲もない原則である。だが、今日の芸術の世界では、こういう言葉も逆説めいて聞える程、独創という観念を化物染みたものにして了った。

 

小林秀雄は、「独創的な思想家というものはもう出つくした」と言おうとしたわけでも、「自分は独創的な思想家でないことがわかった」と卑下したわけでもなかっただろう。他人の歌をどこまでも上手に模倣することで自ずと表れる独創性、それがあれば自分は満足だと言ったのである。「ゴッホの手紙」から「『白痴』について Ⅱ」を経て「感想」へと至る「述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム」の批評の軌跡がそれを証している。彼が振り捨てたのは「独創」ではない、「独創家たらんとする空虚で陥穽に充ちた企図」であった。

この発言に接した吉田秀和も、前掲の「モオツァルト」の一節を敷衍しながら、小林秀雄が「演奏」という一語で表したものは、随分前から彼の文章に出ていた「創造と伝統」の問題についてのある中核的な思想、あるいは内的な手ごたえを指すと書いている。だがそれと同時に、「近年のは、少し様子がちがうように感じられる」とも言い、「そこに何か、それまでなかったものが加わった」と言う。そしてもし晩年の小林秀雄の思想というものが語られるとすれば、この「演奏」という一語で彼が表したものと無関係ではないだろうと述べている。

これまで見てきたように、「一番立派な解説(演奏)が一番立派な批評でもある」という考え自体は、「ドストエフスキイの生活」を書き終えた頃から既に小林秀雄の裡に胚胎していたものであった。しかし彼が語った「私はもう演奏家で満足です」という言葉(おそらく彼はこの言葉通りに語ったのだろう)には、「演奏家」とは何か、「独創的な思想家」とは何かという問題以上に、「演奏家」と「独創的な思想家」というこの二つの極を巡り巡った末に、自分は畢竟「演奏家」であるという事実へのはっきりした自覚と肯定、そして「演奏家」として生涯を全うすることについての最後の覚悟が込められていたはずである。発言の重点は、「私はもう演奏家で満足です」の「もう」と「満足です」の二語にあった。吉田秀和が感じた「それまでなかったもの」とは、小林秀雄のこの最後の自覚と覚悟のニュアンスではなかったか。

小林秀雄が吉田秀和にそれを語ったのが何時のことであったのかは定かでないが、吉田秀和のこの一文が第三次小林秀雄全集の月報に寄せられたのは、昭和四十二年九月である。五味康祐を相手に「『本居宣長』はブラームスで書いている」と語ったのは、同じ年の三月であった。「本居宣長」の連載第十二回が発表された頃である(『新潮』四月号)。ちなみにその前の第十一回が出たのは前年の『新潮』十月号で、この二回の間には半年間の空白がある。同誌昭和四十年六月号より開始された連載は、最初の四回までは毎号発表されたが、その後は基本的に隔月で発表され、時にそれ以上の期間を挟むこともあったが、第十一回と第十二回の間の半年間は、十一年半続いた連載の中で最初の大きな中断であり、かつ最も長い間隙であった。

その「本居宣長」第十一回と第十二回は、内容的にみても最初の大きな節目となっている。第十一回は、「随分廻り道をしてしまったようで、そろそろ長い括弧を閉じなければならないのだが……」とあるように、宣長を語ろうとしてまずは契沖、続いて藤樹、仁斎、徂徠と語り継いでいった長大な序論の結語にあたる章である。その「長い括弧」を閉じて、いよいよ第十二回から本論が始まる。宣長の「もののあはれ」論である。「本居宣長」の文体が、ブラームスの音楽のように肌理が細かくれるようになっていくのも、このあたりからだといっていいだろう。妹の証言によれば、その前年に行った講演の中で、彼は「源氏物語」を読まなければ宣長のことは恥ずかしくて書けない、これから本気で「源氏物語」を読むつもりだと語ったそうだが、その後半年間何も書かなかったのはそれを実行したからだという(高見澤潤子『兄小林秀雄との対話』)。いずれにせよこの空白は、本居宣長という大海へいよいよ飛び込もうとした小林秀雄が、その大海原を前にして一つ大きく息を吸い込み手綱を締め直すための沈黙期間であった。「『本居宣長』はブラームスで書いている」という発言は、その沈黙を破るのと同時に行われたということ、そしてこの時、彼が次のような確信を懐いて飛び込んだということが肝心なのである。

 

彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に、邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない。彼等の仕事を、出来るだけ眼を近附けて見ると、悦びは、単に仕事に附随した感情ではなく、仕事に意味や価値を与える精神の緊張力、使命感と呼ぶべきものの自覚である事が合点されて来る。言うまでもなく、彼等の言う「道」も、この悦びの中に現じた。道は一と筋であった。(「本居宣長(十一)」)

 

これが、小林秀雄が語った「演奏家」という道であり、「演奏家」であることの「満足」であった。ここで言われた「彼等」とは、「長い括弧」の中で辿られた中江藤樹から本居宣長へと至る「貫道する学脈」を指すが、小林秀雄の中ではその「一と筋」に、ブラームスもいたのである。そして「モオツァルト」で提示された「僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」という命題が、次のように再現される。

 

彼等にとって、古書吟味の目的は、古書を出来るだけ上手に模傚もこうしようとする実践的動機の実現にあった。従って、当然、模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった。つまり、古書の吟味とは、古書と自己との、何物も介在しない直接な関係の吟味に他ならず、この出来るだけ直接な取引の保持と明瞭化との努力が、彼等の「道」と呼ぶものであった……(同前)

 

「音楽談義」の最後で、小林秀雄は、もう自分は世間を感動させるとか、これはちょっと上手いとかいうものは恥ずかしくて書けないと言い、ブラームスみたいに書きたいとこの頃思っているのはそういうことだと語っていた。それは、一面非常な感動と敬意を覚えながらも結局自分は愛さないと言明したワーグナーの話に続けて言われた言葉であった。音楽史上、この芸術家こそ、「独創的な思想家」たらんとした最大の野心家であっただろう。とすれば、「私はもう演奏家で満足です」と語った小林秀雄は、「私はもうブラームスで満足です」と語ったことにもなる。そのブラームスは、ベートーヴェンという古典を愛し、これを模傚することに生涯を賭した作曲家であった。ブラームスにとっては、それがということであった。少なくとも小林秀雄はそう考えていたはずだ。

小林秀雄がそのブラームスにいつ頃から心を寄せるようになったのか、それも定かでない。だが「独創的な思想家」としてではなく「演奏家」として、ワーグナーではなくブラームスとしての批評の道を全うしようとした小林秀雄の最後の自覚と覚悟が定まったのは、おそらく、「本居宣長」の連載を開始する二年前、「感想」を中断して旧ソ連へ渡った昭和三十八年六月から十月にかけての欧州旅行でのことであったと思われる。敢えて言えば、それは、彼がペテルブルクの街中を流れる早朝のネヴァ河をひとり眺め、続いてバイロイトで接したワーグナーの「ニーベルングの指輪」の最終場面においてなされたと思われる。

(つづく)