小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

十二 言葉の行為

 

1

 

前々回以来、小林氏が言った「『源氏物語』という詞花による創造世界に即した真実性」ということに向きあっている。ここにもう一度、第十八章から引用する。

―宣長は、「源氏」を「歌物語」と呼んだが、これには宣長独特の意味合があった。「歌がたり」とか「歌物がたり」とかいう言葉は、歌に関聯した話を指す、「源氏」時代の普通の言葉であるが、宣長は、「源氏」をただそういうもののうちの優品と考えたわけではない。この、「源氏」の詞花の執拗な鑑賞者の眼は、「源氏」という詞花による創造世界に即した真実性を何処までも追い、もし本質的な意味で歌物語と呼べる物があれば、これがそうである、驚くべき事だが、他にはない、そう言ったのである。……

「物語」は、今日でもふつうに耳にする言葉だが、文学が論じられる場では一定の意味合を帯びて用いられる。『日本国語大辞典』等によれば、「物語」とは日本の文学形態の一つで、作者の見聞または想像をもととして、人物・事件について誰かに語る形で叙述された散文、である。狭義には平安時代の作り物語と歌物語とを言うが、「歌がたり」も「歌ものがたり」も同じであり、意味するところは歌についての物語、あるいは歌にまつわる物語である。

今日、最もよく知られている歌物語は「伊勢物語」だと言えるだろうが、その「伊勢物語」は、歌の詞書が長文化することによって生まれた、すなわち、歌に散文的要素が加わり、その散文的要素が膨らんで生まれた形である。したがって、「伊勢物語」は、「歌についての物語」というよりは「歌にまつわる物語」なのだが、いずれにしても宣長が「源氏物語」を歌物語として見る意味合は、「伊勢物語」が世間で歌物語と呼ばれているのとは大きく異っていた。つまり、「源氏物語」は、作中に見える歌の詞書が長文化し、それらが繋ぎ合されて五十四帖の長篇になったのではない。「源氏物語」という五十四帖の長篇物語それ自体が一個の歌なのであり、そういう意味において「源氏物語」は「歌物語」なのである。小林氏は、紫式部が最も心をこめて描いた光源氏と紫の上との恋愛で、この二人が詠み交す歌は、「物語」という大きな歌から配分された歌の破片である、というふうに宣長は読んだと思われると言っている。

そこを、もうすこし踏みこんでいけばこうだ。小林氏は、光源氏と紫の上との歌に対する宣長の読み方を示した後に、

―そんな風な宣長の読み方を想像してみると、それがまさしく、彼の「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という言葉の内容を成すものと感じられて来る。……

と言っている。この「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」という言葉は、「紫文要領」巻下にあるのだが、そこではこう言われている。

―歌道の本意を知らんとならば、この物語をよくよく見てその味ひを悟るべし。また歌道の有様を知らんと思ふも、この物語の有様をよくよく見て悟るべし。この物語の外に歌道なく、歌道の外にこの物語なし。歌道とこの物語とは、まったくその趣き同じことなり。……

これに対して、問者が問う。

―問ひて云はく、この物語と歌道と、その本意まつたく同じきいはれはいかに。……

宣長が答える。

―答へて云はく、歌は物のあはれを知るより出で来、また物のあはれは歌を見るより知ることあり。この物語は物のあはれを知るより書き出でて、また物のあはれはこの物語を観て知ること多かるべし。されば歌と物語とその趣き一つなり。……

こういうふうに見てくると、宣長が「源氏物語」こそが、また「源氏物語」だけが、本質的な意味で歌物語だという理由は、「源氏物語」のみが「もののあはれを知る」という、歌と同じ制作動機によって書かれている、そこにあると言えそうだ。

 

こうした宣長の見解を背に、小林氏は言う。

―彼が歌道の上で、「物のあはれを知る」と呼んだものは、「源氏」という作品からき出した観念と言うよりも、むしろそのような意味を湛えた「源氏」の詞花の姿から、彼が直かに感知したもの、と言った方がよかろう。彼は、「源氏」の詞花言葉をもてあそぶという自分の経験の質を、そのように呼ぶより他はなかったのだし、研究者の道は、この経験の充実を確かめるという一と筋につながる事を信じた。……

そしてこれに、前回引いた次の文が続くのである。

―詞花の工夫によって創り出された「源氏」という世界は、現実生活の観点からすれば、一種の夢というより他はない。「源氏」が精緻な「世がたり」とも見えたところが、人々を迷わせたが、その迫真性は、作者が詞花に課した演技から誕生した子であり、その点で現実生活の事実性とは手は切れている。……

宣長が、「源氏物語」を、本質的な意味合で歌物語と呼んだもう一つの理由は、「源氏物語」の書かれ方、言葉の用いられ方と、歌の詠まれ方、歌の言葉の用いられ方、この双方の「趣き」が、「同じことなり」ということだったようだ。

それがどういうことかと言えば、紫式部は、「源氏物語」で、「もののあはれを知る」ということを濃やかに描いて読者に知らしめようとしたのだが、それを観念的に、論理的に書き表すことはできなかった、なぜなら、「あはれ」は、要は感情であるが、この感情は、「説明や記述を受付けぬ機微のもの、根源的なものを孕んで生きている」、だから、この現実の感情経験の伝達は、筆者の表現力如何にかかっている、宣長は、それを逸早く感知し、紫式部の示す「もののあはれ」を知ろうとすれば、「もののあはれ」の意味を湛えた「源氏物語」の詞花の姿から直かに感知するほかないとして、「源氏物語」の詞花を徹底して翫び、紫式部が「源氏物語」で馳駆した表現法は、歌人が歌で訴えるときの手法とまったく同じだと読み取った、ということなのである。

では、読む者に、「もののあはれを知る」ということを納得させようとして、紫式部が馳駆した表現力とはどういうものであったか。それは、詞花の工夫であり、詞花に演技を課すということであったと小林氏は言うのだが、ならばその、「詞花に演技を課す」とはどういうことであったのか。前回はひとまず、「紫式部がそこで用いる言葉を人間の俳優のように扱い、一語一語に演技をつけながら文章を綴った」という言い方をしたが、より実態に即して言うなら、小林氏は、この擬人法を演劇畑から借りたのではなく、音楽の世界の「同じ趣き」に思いを致してこう言ったと思われるのである。

 

2

 

小林氏は、昭和二十五年(一九五〇)四十八歳の四月、「表現について」を発表し、そこでこういうことを言った。

日本語の「表現」は、英語やフランス語の「expression」の訳語だが、

―expressionの表現という訳語は、あまりうまい訳語とは思えませぬ。expressionという言葉は、元来蜜柑みかんを潰して蜜柑水を作る様に、物を圧し潰して中味を出すという意味の言葉だ。若し芸術の表現の問題が、一般芸術上の浪漫主義の運動が起って来た時から喧ましくなったという事に注意すれば、expressionという言葉のそういう意味合いを軽視するわけにはゆかぬという事が解る。古典派の時代は形式の時代であるのに対し、浪漫派の時代は表現の時代であると言えます。……

浪漫主義は、一八世紀の末からヨーロッパに興った芸術上の運動である。それまでの古典主義の様式・形式重視に反抗し、感情、空想、個性、自由、自然といったものの価値を主張した。文学ではルソー、ゲーテらを先駆とし、バイロン、ユゴーらに代表されるが、文学のみならず絵画、音楽と、各方面で展開され、音楽にはこういうことが起った。

―浪漫派音楽の骨組は、音と言葉との相互関係、メンデルスゾオンが「無言歌」を作った様に、如何にして音楽を音の言葉として表現しようかという処にあった。これは、対象のない純粋な音の世界に、感情や心理という対象、つまり言葉によって最もよく限定出来る内的風景が現れ、その多様性を表現せんとする事が音楽の形式を決定する様になったと言えます。……

そこへ一九世紀の半ば、ワグナーが登場する。

―純粋な音楽の世界から、言わば文学的な音楽の世界への移行は、非常な速度で進んだ。どんな複雑な微妙な感動でも情熱でも表現出来るという、音楽の表現力の万能に関する信頼は、遂にワグネル(ワグナー)に至って頂点に達した。彼の場合になると、シュウマンの詩的主題も、リストやベルリオーズの標題楽的主題も、もはや貧弱なものと見えた。主観の動きを表現する音楽の万能な力は、ワグネルにあっては、ある内容の表現力と考えるだけでは足らず、そういう音楽現象を、彼の言葉で言えば、音の「行為」Tat、合い集って、自ら一つの劇を演じている「行為」に外ならぬと観ずるに至った。この音の「行為」が舞台に乗らぬ筈はない。音という役者は、和声という演技を見せてくれる筈である。これがワグネルという野心的な天才の歌劇とか祝典劇とかの、殆ど本能的な動機です。彼は、これを「形象化された音楽の行為」と呼んだ。……

Tatはドイツ語だが、ワグナーは、音楽という芸術の現象は音のTat、「行為」である、音が集って一つの劇を演じる、音という役者は和声という演技を見せてくれるのだ、そう観てとって、そこから「タンホイザー」「ニーベルングの指環」「トリスタンとイゾルデ」……と、相次いで舞台に載せたと言うのである。

 

小林氏の「本居宣長」を熟視し、写し取ることを主眼とするこの小文に、宣長とは縁もゆかりもないはずのワグナーが出てきたことに、戸惑ったり首を傾げたりされる向きも多いと思う。が、小文のもうひとつの主眼は、「本居宣長」の訓詁注釈にある。小林氏は、「源氏物語」の迫真性は、紫式部が詞花に課した演技から誕生した子であると言ったが、物語の作者が言葉に演技を課すとはどういうことか、そこに思いをひそめているうち、私の思考は自ずとワグナーへと飛んだのである。

 

この連想は、私としては少しも唐突でない。小林氏は、「本居宣長」で、人間にとって言葉とは何か、そこをあらゆる角度から探究したのだが、この探究課題は氏の六十年にわたった文筆活動に一貫していたものであり、氏はその課題をボードレールから手渡されたという意味のことを前々回、「詞花を翫ぶべし」で書いた。今回ここで注視するワグナーは、そのボードレールに言葉とは何かの閃きをもたらした音楽家なのである。再び「表現について」から引く。

―ニイチェが、「ワグネル論」を書いたのは、一八八八年であるが、ワグネルの大管絃楽が、浪漫派文学の中心地パリで爆発したのは、それより二十年も前の事であった。これは非常な事件だったので、人々はこの新音楽の応接に茫然たる有様だったが、そこに、詩の表現に関する一大啓示を読みとった詩人があった、それがボオドレエルであります。……

―音楽に於ける浪漫主義が、そこまで達した時、この先見の明ある詩人は、文学に於ける浪漫主義の巨匠ヴィクトル・ユゴーの表現が、余りに文学的である事に気付いた。ワグネルの歌劇が実現してみせた数多あまたの芸術の綜合的表現、その原動力としての音楽の驚くべき暗示力、これがボオドレエルを最も動かしたものであって、言ってみれば、これは、音楽の雄弁によって詩の饒舌をはっきり自覚した、嘗て言葉の至り得なかった詩に於ける沈黙の領域に気付かせたという事だ。……

「音楽の雄弁」とは、先に言われていた「どんな複雑な微妙な感動でも情熱でも表現出来るという表現力の万能」、すなわち、音楽の並外れた暗示力ということである。「詩の饒舌を自覚した」とは、ユゴーを頂点として当時の詩が、感情や空想の自由な告白に夢中になったあまり、ありとあらゆる雑多の観念を詰めこんで散文同様の饒舌に走ってしまっていた、そこに気づいたということである。そうではない、詩には詩の役割がある、音ではなく言葉を用いる詩も、音楽の暗示力に倣うのだ、そうすれば、これまで言葉では表現しきれなかった領域にも、詩なればこその暗示力で到達できるにちがいない……。ボードレールは、それまで、自分たちが生きているこの世には、言葉ではどうしても表現しきれない領域がある、どんなに精緻に詩や文章を書き上げても、言葉の及ばない領域があるということを思い知らされ、苛立っていた。それがそうではない、ワグナーが音楽で音に演技させているように、自分が言葉に演技をさせれば、言葉はその領域にも及ぶのではないか、言葉の持っている意味や観念を超えて、音楽の音のように感覚的実体として読者に働きかける、言葉にそういう演技をさせることで、詩は「沈黙の言葉」としての表現領域を切り開くことができるのではないか、ボードレールはそこに気づいたというのである。

こうしてボードレールは、象徴詩と呼ばれる詩法を創始した。その血脈を最後に輝かせたヴァレリーの言を借りるなら、「音楽からその富を奪回しようとした」ボードレール以下の詩人は、

―ワグネルが音楽を音の行為Tatと感じた様に、言葉を感覚的実体と感じ、その整調された運動が即ち詩というものだと感じている。無論言葉では音の様に事がうまくはこばないが、ともかく詩人はそういう事に努力している。従って詩では、言葉が意味として読者の頭脳に訴えるとともに、感覚として読者の生理に働きかける。つまり詩という現実の運動は、読者の全体を動かす、私達は私達の知性や感情や肉体が協力した詩的感動を以って、直接に詩に応ぜざるを得ない。これが詩の働きのレアリスムでありナチュラリスムである。……

これを、詩の側からばかりでなく、小説の側から見れば事はいっそうはっきりする。

―対象の言葉による合理的な限定を根本とする描写尊重の小説では、言葉は実体を持っていない、専らわれわれの観念を刺戟する目的の為の記号である。小説のうちにある作者の意見や批評は勿論の事だが、小説のあらゆる描写は、直接に読者の頭脳に訴えるもので、そこに対象を見る様な錯覚を生じさせれば、それでよい。読者の頭だけが働く、肉体は休んでいます。……

ボードレールは、ワグナーから啓示を受けて、言葉のTat「行為」に詩を預けた。紫式部も言葉の「行為」に「もののあはれ」を託した。紫式部が伝えようとした「もののあはれ」にも、どんなに言葉を尽しても伝えきれない機微があった。だが、紫式部には、幼時から身につけた歌があった。歌を詠むのと同じ手順、同じ心得で、ということは、「歌道」に則って「源氏物語」を書いた。これが、紫式部が詞花に演技を課したということの意味である。ワグナーが言ったTatとは、和声の行為である。「和声」とは、複数の和音の連結である。歌も、五七五七七の言葉の和音である、「源氏物語」は、そういう和音の連結なのである。言葉が相集って、一つの「行為」を自ずから演じているのである。

つい先ほど引いた小林氏の文、「詩では、言葉が意味として読者の頭脳に訴えるとともに……」と、「対象の言葉による合理的な限定を根本とする描写尊重の小説では……」をつないで読み替えれば、世に行われている物語の言葉は、専ら読者の観念を刺戟する目的のための記号である、物語のあらゆる描写は、直接に読者の頭脳に訴えるもので、読者の頭だけが働く、肉体は休んでいる、だが歌では、言葉は意味として読者の頭脳に訴えるとともに、感覚として読者の生理に働きかける、つまり歌という現実の運動は、読者の全体を動かす、読者は、読者の知性や感情や肉体が協力した詩的感動をもって直接歌に応じる……となる。

まさか宣長が、ましてや紫式部が、こういうことをこういう言葉で考えたり言ったりしたはずはないのだが、小林氏は、まちがいなくこう考えただろうと私は思う。ここまで考えて、宣長が、「源氏物語」こそは、「源氏物語」だけが、歌物語だと言った真意を得心したであろうと思う。

 

3

 

ワグナーは、一九世紀の人である。本居宣長は一八世紀の人である。両者の間に交渉はない。ましてや紫式部は一〇世紀から一一世紀初めの人である。紫式部の心中を宣長が推し量り、なんらかの確信を得ることはあるだろう、だがそこに、ワグナーを割込ませるとは、何がなんでも乱暴ではないか、そういう声も聞えてはいる。

だが、小林氏は、「表現について」でこう言っている。

―犬が或る表情をする時、ダアウィンは、犬が喜びを表現したと考える。私は笑った時に、おかしさを表現したと考える。併し芸術家にとっては、それではただ生活しているだけの事であって、表現しているのではない。生活しているだけでは足りぬと信ずる処に表現が現れる。表現とは認識なのであり自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意志的な意識的な作業なのであり、引いては、いかに生くべきかの実験なのであります。環境の力はいかにも大きいが、現に在る環境には満足出来ない、いつもこれを超えようとするのが精神の最大の特徴であります。……

小林氏の批評は、以後も、いかに生きているかの認識・自覚としての表現、そして、いかに生きるべきかの実験としての表現で、「本居宣長」まで一貫していた。「本居宣長」第十八章ではこう言われる。

―彼(宣長)の言う「歌道」とは、言葉という道具を使って、空想せず制作する歌人のやり方から、直接聞いた声なのであり、それが、人間性の基本的な構造に共鳴する事を確信したのである。

第四十九章に至ると、こういう言葉に会う。

―宣長が「上古言伝へのみなりし代の心」を言う時、私達が、子供の時期を経て来たように、歴史にも、子供の世があったという通念から、彼は全く自由であった。どんな昔でも、大人は大人であったし、子供は子供だったと、率直に考えていれば足りた。自分等は余程利口になった積りでいる今日の人々には、人性の基本的構造が、解りにくいものになった、と彼は見ていたのである。……

そして、最後の第五十章では、こう言われる。

―宣長を驚かした啓示とは、端的に言って了えば、「天地の初発ハジメの時」、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた、そういう事になろう。いかに上手に生活を追おうと、実際生活を乗り超えられない工夫からは、この世に生れて来た意味なり価値なりの意識は引出せないのを、上古の人々は、今日の識者達には殆ど考えられなくなったほど、素朴な敬虔な生き方の裡で気附いていた。これを引出し、見極めんとする彼等の努力の「ふり」が、即ち古伝説の「ふり」である。其処まで踏み込み、其処から、宣長は、人間の変らぬ本性という思想に、無理もなく、導かれる事になったのである。……

「ふり」とは、「表現」である。「表現」の姿、形である。「人間性の基本的な構造」「人性の基本的構造」「人間の変らぬ本性」……いずれにしても、小林氏が批評を書くことで追究したのは人生いかに生きるべきかであったが、それを考えるために、終始注意を払ったのが、人間は、特に人間の心というものは、どういうふうに造られているかであった。そういう小林氏の眼には、紫式部も本居宣長も、ワグナーもボードレールも、洋の東西、時代の新旧を問わず、「人性の基本構造」を見究め、それを表現することに生涯をかけた先達と映っていたはずである。

(第十二回 了)