編集後記

坂口 慶樹

まずは、平成30年7月豪雨により亡くなられた方々に謹んでお悔やみを申し上げ、被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

 

 

本誌は、発刊一周年を迎えた2018年6月号(5月刊行号)から隔月刊化したため、約二ヶ月ぶりの刊行となった今号では、3人の塾生が初寄稿されている。

 

巻頭随筆の秋山太郎さんには、山の上の家の集まりなどで身近に接していて、以前からそれらしき匂いを感じてはいたが、やはり学生時代は、世界中を巡るバックパッカーをされていた。今も、様々な旅先でつながっていく奇縁に驚き、その奇縁がまた、小林秀雄先生へとさらに一歩近づくための新たな学びの種にもなっているようである。

大学生の鈴木凛さんは、クリスマスの日の友人との会話からつながった縁で、今年度から入塾し、早くも5月の塾で自問自答に立った内容を、今回寄稿された。「他者の確信のない意見には頼らず、常に自分自身というものを主軸においた宣長の生き方」に触れて、「人生いかに生くべきか」という新たなる鈴木さんの自問自答は、今始まったばかりである。

クリスマスといえば、ハンガリーで医学を学び始めたばかりの青葉くららさんは、その時期に現地の教会で触れた弦楽七重奏に、思いもよらず、大きく揺さぶられる経験をしたという。長くピアノを演奏してきた青葉さんだからこそ感じた天恵であろう。その経験を十分に踏まえた、モーツアルトとショパンについてのくだりも、小林先生の音楽論とも共鳴し、興味が尽きない。

 

 

石川則夫さんには、前号に引き続き、諏訪紀行を寄せて頂いた。諏訪に息づいている生活文化は、すでに前号で予感されていたように、みなとや旅館で供される食事に止まらなかった。女将の小口芳子さんの一言からつながった散策は、日本の古層を巡る思索へと広がる。その広がりを、小林先生はしかと感じておられたのだろう。「諏訪には京都以上の文化がある」。石川さんに導かれ、読み進めるほどに、先生が発した言葉の持つ深遠さと広大さに驚きを禁じ得なくなる。

 

 

吉田宏さんは、6月の山の上の家に、本居宣長記念館の吉田悦之館長をお招きした際に感じられたことを綴られている。館長のお話に、小林先生の言葉も考え合わせ、宣長の「学問の名の下に行った全的な経験」の根幹にある想像力に思いを馳せる。その想像力を培うものは、「合法則性」や既存の枠組みから離れてみることと、歳月をかけるということにありそうだという「考えるヒント」を感得されたようである。

 

 

先日所用により、「世阿弥芸術論集」(新潮日本古典集成)を再読した。世阿弥は、「初心忘るべからず」という言葉が有名であるが、実は三つの初心があると言っている(「花鏡」奥ノ段)。未熟な頃の心構えである「若年の初心」、その時分時分にふさわしい芸に臨むという意味での「時々の初心」、そして、老後、初めての芸に挑むようなみずみずしい心構えである「老後の初心」である。

私は、本塾で学ぶ面白さの一つとして、小林先生を、本居宣長を学んでいるさまざまな段階にある塾生が一堂に会している点があると感じている。手前味噌となるが、例えば、本誌各号もまさにそうであるように、それぞれの段階にある初心の響き合いが、思いもよらぬ「花」を生むことも多いからである。今号には、読者諸賢に、どんな「花」を感じていただけるであろうか。

(了)